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illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 三十分早く家を出ただけなのに、ホームの混み具合はいつもとずいぶんとちがっていて、だったらこれからは毎日早めに家を出てもいいなと青谷凪亮子は思った。この快適さを得られるのなら、プレゼンがあろうとなかろうと三十分の早起きは苦にならない。
 都心に向かう地下鉄が派手な警告音を鳴らしながら到着し、車両のドアとホームドアが順番に空気の抜けるような音を立てて開いた。座席に座ることはできないものの、車内も驚くほど空いていて、倒れ込まないように必死で耐える必要も、ねっとりと汗ばんだおじさんたちと密着する必要もない。車内の空気もなんだかいい香りに感じる。バッグの肩紐をかけ直して釣り革を持つと、天井の照明を反射してネイルがキラと白く光った。宇宙に星をちりばめたネイルは先週末、菱代の結婚式に出席するために選んだものだ。
 すてきな結婚式だったなあ。亮子はほうと息を吐いた。招待客の名簿も完璧だったし、結婚プロデューサーといっしょに何ヶ月もかけて練り上げたらしい出し物も素敵だった。
 人気ミュージシャンによる演奏も、著名なカメラマンが撮った写真も、招待状や当日のメニュー表のデザインもすばらしくて、だからといって大袈裟なことは何もなく、暖かくアットホームな雰囲気に亮子は感動したし、お馴染みの、両親へ贈る手紙では涙が止まらなくなった。
 自分もこんな式をあげられたらいいなと思った。親友の菱代には悪いが、菱代が結婚したことよりも結婚式そのものに亮子は興奮していた。私たちの場合は菱代とちがって、きっとプロには頼まず自分たちでメニューのデザインも会場の飾りつけもやるんだろうな。どんなテーマの飾りつけにしようかな。やっぱり白を基調にするのがよさそうだけど。
「なあ、あんた」
 真正面の座席に座っている男性が急に顔を上げ、亮子に話しかけてきた。歳は五十過ぎだろうか。濃い灰色の擦り切れたスーツを着ている。
「はい?」
 亮子の頭から白い会場のイメージが消し飛んだ。
「あの男はやめたほうがいい。あれは碌なヤツじゃない。あいつとの結婚はやめなさい」
 いきなりそう言ったあと、何を納得したのか、一人で嬉しそうに何度も大きくうなずいた。
「そうよねぇ。借金があるそうじゃないの」
 彼の隣に座っていた年輩の女性も亮子に向かって言う。
「あんなのと結婚しちゃダメ」
「そうそう、母親も性悪らしいじゃないか」
「いい。私たちは、あなたのためを思って言ってるんだからね」
 亮子はきょとんとした顔になったが、こういうときは関わり合いにならず逃げるに限ると、その場をすっと離れて少し先の吊り革を持ち直した。
 わけがわからなかった。ずっとつきあっている恋人とはそろそろ結婚を考えてもいいとは思っているが、まだ具体的な話は何も出ていないし、何よりも赤の他人から自分たちの結婚についてあれこれ言われる筋合いはない。
「ほら、あの人でしょ。あいつと結婚する人」
「あ、ほんとだ。マジで電車乗ってる」
 やや離れた座席に座っている二人組がこちらをそっと眺めていた。見ていないふりをしているものの、ときどき視線が亮子へ向けられているのがはっきりとわかる。なぜかみんな亮子のことを知っているらしい。
 それまでまるで意識していなかったが、あらためて周囲の様子を伺ってみると、車内にいる乗客の半数ほどが亮子をジロジロと見ているような気がしてくる。自意識過剰なのかもしれないが、あまり気分のよいものではない。できれば車両を変わりたいものの、都心に向かうにつれて混んできた車内は、すぐには動きが取れそうになかった。
「なんであんな男を選ぶんですか。騙されているってわからないんですか」
 今度は斜め前にいる若い男性が話しかけてきた。かなりカジュアルな服装だから学生だろう。両手それぞれで吊り革を持って、ぶら下がるように体重をかけていた。
「そもそも学歴だって怪しいし、自称画家なんて無職も同然ですよ」
 その隣にいるスーツの男性も大きく頷く。
「あいつはあなたとは釣り合わない。僕らは認めませんよ」
「そうです。自覚を持ってもっと相応しい人を選んでください」
 亮子は彼らを無視したまま、乗客の隙間から見える正面のガラスに映る自分の顔をじっと見続けている。気を抜いたら泣きだしてしまいそうだ。
「あなたのためにこの結婚に反対しているんです」
「私たちでいい人を見つけて選んでさしあげますから」
 知らない人たちが、まだ予定も無い亮子の結婚について次から次へと反対意見を伝えてくる。彼と会ったこともない人たちから、彼の悪口を聞かされ続ける。わけがわからなかった。亮子は黙ったままぐっと歯を食いしばる。とにかくこの場をやり過ごしたかった。
 地下鉄がホームに滑り込み、ドアが開いたところで亮子は転げ出すように車両から降りた。振り返りもせずに階段へ向かう。妙な汗が額に浮かび、耳が熱くなっていた。
 足早に階段を上がって地上に出ると日の光が目に入り、そこで亮子はようやくホッとした。知らぬ間に全身に入っていた力が抜けていく。
 ぽたりと地面に水滴が落ちる。涼子の目からはボロボロと涙がこぼれていた。
 しばらくビルの壁にもたれたあと、亮子はようやくハンカチをとり出し、涙を拭い取った。まだ目の前は霞んでいる。
 職場まであと二駅あるが、ここからは歩いて行くことに決めた。あんな思いをするくらいなら、多少疲れても構わない。初夏といっても梅雨が明けたばかりだから、早朝のこの時間はまだどこか空気も冷たくて、歩くのだってそれなりに気持ちが良さそうだし、何よりも早めに家を出たおかげで時間にはまだまだ余裕がある。
「よし」
 ビルから背を離し、一歩足を踏み出したところで、いきなり見知らぬ男女に行く手を塞がれた。
「あの男との結婚なんて絶対にダメですよ」
 女性が甲高い声を上げて詰め寄ってくる。
「まあ、オレはあいつはいいと思うけど、ほらあの親がね」
「だって詐欺師なんですよ、あの親は」
 亮子はかぶりを振った。
「いいかげんにしてください。何の話かわかりません」
 そう言って二人の横を強引に通り抜ける。
「ちょっと待ちなさいよ」
 女は大声を上げたが、亮子はその声を無視したまま早足で大通りを歩き始めた。
 それなりに車は走っているものの、人通りは少なかった。目的のオフィス街には地下道もつながっているから、ほとんどの通行人は地下を通っているのだろう。
 赤信号で立ち止まった亮子はすっと顔を上げた。ビル群の向こう側には大きな雲が湧き上がっている。
「ああ」
 その雲を見て、今までずっと自分が地面ばかりを見ていたことに気づいた。
 ビーッ。
 信号待ちをしている車の慣らしたクラクションに驚いて顔を向けると、タクシーの後部座席の窓がゆっくりと開いていく。
「ちょっと、君」シックなスーツを着た初老の男性が窓から顔を覗かせた。
「はい?」
「あの男はダメだ」
 またか。亮子はうんざりして顔を正面に戻した。信号はまだ赤のままだ。
「いいから聞きなさい。あの親は碌な親じゃない。つまりあの男も碌な男じゃ無い。そんなのと結婚したら、君が苦労するだけだ」
 ようやく信号が変わった。亮子は口元に微かな笑みを浮かべて男性に軽く会釈をすると、再び正面を見据えてまっすぐに歩き始めた。動き出したタクシーは、亮子の歩く速度に合わせてゆっくりと真横を走っている。男性が相変わらず窓から何か話しかけていたが、できるだけ車道から距離をとるようにして歩道の端を歩く亮子の耳に、その言葉は届かなかった。
 やがて諦めたのか、タクシーは去り際に大きなクラクションを鳴らして速度を上げた。
 ようやく仕事場のあるビルが目に入ってきた。入り口の前で数人の男女がコーヒーチェーン店の紙カップを手に談笑している。
「あ、どうも」
 こちらを見てニッコリ笑った女性は、胸に下げた社員証のマークから同じビルに入っている会社の人なのだとわかる。
「おはようございます」
「あの」彼女が小首を傾げた。
「はい?」
「あの人の作品、コンクールで受賞できなかったんですよね」
 亮子の顔が不審げに曇った。たしかに彼は絵画のコンクールに応募しているけれど、どうしてそんな話がいきなりここで出てくるのだろう。
「落選したってネットのニュースに出ています」
 彼女はスマホの画面を見せた。
「ふうん、で、誰が受賞したんだ? まあ、オレは絵のことはよくわかんないんだけどさ」男性が聞いた。
「それは載っていません。ニュースに出ているのはあの人が落選したってことだけで」
「あ、ほら」男性の一人が向かい側のビルを指差した。広告会社の壁に設置された電光掲示板に大きな文字が流れていく。
——速報 青谷凪亮子さんの婚約者男性 絵画コンクールで受賞逃す——
 亮子は唖然としたまま電光掲示板を見つめる。いったい何が起こっているのだろう。私が何をしたというのだろう。彼が何をしたというのだろう。
 せっかく止まっていた涙が再びボロボロと流れ出した。拭っても拭っても涙は溢れ続ける。これだけ強く拭ったら、もうメイクはぐしゃぐしゃになっているにちがいない。泣きながら亮子はそんなことを考える。
 いつしか亮子の周りには大勢の人が集まっていた。誰もが亮子に近づき、その顔を覗き込み、高い声で言葉を浴びせかける。
「あんな人と結婚するなんて許しませんよ」
「愛だけじゃダメだってことくらいわかるでしょ」
「あなたの周りに居る人たちのことも、もっとちゃんと考えなさい」
 顔。顔。顔。顔。心配そうな顔。怒っている顔。責めている顔。呆れている顔。
 亮子はぼんやりとそれらの顔を見ていた。見知らぬ顔が目の前に現れては、早口で何かを言って消えていく。なんだかビデオ映像を早回しで見せられているようだった。
 顔。顔。顔。顔。顔。そこに亮子の知る顔は無い。きっと彼が知る顔も無いだろう。
 大量の顔が混ざり合ってやがて巨大な一つの顔になっていく。顔はビル群を覆うように広がり、ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべて亮子を見つめている。あらゆる顔の混ざったその顔は、男性でも女性でもなく、年配者でも若者でもなく、何一つ特徴のない、ただの顔だった。誰にも似ていないのに、あらゆる人に似ていた。
 亮子は頭を上げてまっすぐに顔を睨みつけた。巨大な顔に向かって指を突きつける。
「どうしてダメなんですか?」泣き声のまま叫んだ。
「えっ」
 巨大な顔は反論されるとは思ってもいなかったらしく、巨大な目を丸くした。どうやら呆気にとられているようだった。
「私たちが何かご迷惑をお掛けするんですか? 誰が困るんですか? 何が問題なんですか?」矢継ぎ早に質問を投げかける。
「だから、それは」
 顔は苦しそうな表情を見せたあと、再び気味の悪い笑みに戻った。
「気に入らないからよ」
「は?」
 今度は亮子が呆気にとられた。空に浮かんだ顔は勝ち誇ったように口端を歪めている。
「彼が気に入らない、ですか?」
「そうだ」
「あなたたちの気に入るかどうかって関係あるんですか?」
「それは」
 顔はそう言ってしばらく黙り込んだ。やがて巨大な顔の一部分が不意に盛り上がり、その先端が丸く膨らんだと思うと、そこにもう一つの顔が表れた。さらにもう一つ、もう一つと、顔が表れる。男の顔のようでもあり女の顔のようでもある。
「あの男だけじゃない」顔の一つが言った。
「これだけ私たちが忠告しているのに、まるで聞こうとしないあなたも気に入らない」
「私たちの言うとおりにしないあなたが気に入らない」別の顔も言う。
「あなたのために言ってるのに」
「そう。あなたのためなのに」
 顔が再び一つに戻り、どんどん広がり始めた。もうビル群だけでなく空全体を覆うほどにまでになっている。薄気味悪いニヤニヤ笑いが空を覆い尽くす。
 やがて顔がゆっくりと降りてきた。次第に高度を下げた顔は、あと数メートルで亮子に届くところで一度止まった。
「ほら。あなたのためなのだから」
 そう言って顔の吐いた息は生臭かった。
 亮子は足元を見つめたまま口を硬く結び、しっかりと目を閉じ、ゆっくりと首を左右に振った。このままだと顔に取り込まれしまいそうだった。ほかの顔と一緒になって、誰でもないただの一つの顔になってしまいそうだった。

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