見出し画像

四メートル下の過去

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 二十センチ四方ほどの黒いプラスチック製の端末に、今日一日の行動を覚えている限り細かく入力してから、甲斐寺は送信ボタンに軽く指先で触れた。
 ピン。電子音と共に画面が瞬時に切り替わり、受付完了の表示が浮かび上がる。
 ——パーソナル・アーカイブを受け付けました。登録番号は……——
 最初のころはいちいち登録番号を控えていたが、今となってはそんなメモを残すことさえ面倒くさい。
 国民日記法。
 正確には「国民によるパーソナル・アーカイブの報告およびその保全に関する法律」という。国勢調査よりも精度の高いデータ収集方法として、国民に毎日の行動を報告する義務を課したこの法律が施行されてから八年になる。法案が提出された当時は、プライバシーの侵害だと各所で猛反対が巻き起こったものの、それでも実際に議決をとってみると、なぜか賛成多数であっさりと可決された曰く付きの法律だった。
 以来、十五歳以上は自分の一日の行動を、各家庭に配布された専用の端末を使って毎日報告しなければならない。もちろんやむをえない事情があればその日は免除の対象になるが、基本的には全ての国民が日記を提出しているようなものだった。当然、国民からは歓迎されているとは言えない。
 とはいえこの仕組みに反対する者ばかりでもなかった。甲斐寺もその一人だ。
 もともと何をやっても三日坊主で、日記はおろかブログもSNSも長続きしない甲斐寺にしてみると、実はこれは案外悪くなかった。なにせ法律で強制的に書かされるのだから続けるしかない。毎日コツコツ書いていれば、やがて自分の人生そのものが、たとえたいしたものではないにせよ、記録として残っていくのだ。もっとも専用端末は登録するに使われるだけで、過去の自分が書いた報告を見直すことはできなかったが、それが必要になることはなかった。少なくとも今日の昼までは。

 去年、本社で発覚した不正の影響で、甲斐寺たちグループ会社の社員までが年明けから急に監査の対象になった。過去に不審な行動がなかったか、怪しい経理処理はなかったかを十年近くまで遡って徹底的に調べられているようで、甲斐寺もまさかの呼び出しを受けたのだった。
「甲斐寺課長、お久しぶりです」
 昼休み明けにオフィスビルの入り口で声をかけてきたのは、かつて甲斐寺の部下だった汐樋渡だった。真っ赤なウールのコートを着て、すらりと立つ姿は以前とまるで変わらない。
「おお、汐樋渡か。元気そうだな。あれ? そっちにいるのは三葉か?」
 そう言いながら甲斐寺は雪に濡れた傘をバサバサと何度か開け閉めして水滴を飛ばした。もともと雪の多い地域だが、二月に入ってからはやけに緩んだ雪が降るようになっていて、何もかもが湿っぽい。
「はい。課長、ご無沙汰しています。支社に来るのは久しぶりです」
 三葉がにっこりと笑った。ここにいたときのおっとりした印象とはまるで違って、短くした髪が活動的な雰囲気をみせていた。

「四年前の話?」
「ええ。詳細がわかればすぐに甲斐寺さんを対象から外します」
 甲斐寺の元へやってきた汐樋渡と三葉は、二人ともグループ会社から抜擢されて本社の監査部へ転籍したエースで、にこやかな顔つきを見せつつも、毅然とした態度を崩そうとはしなかった。かつての上司を相手にしても馴れ合うようなことはない。
「それで、こちらなんですが」
 汐樋渡は、狭く殺風景な会議室の机に置かれた一枚の伝票を指差した。
「いやあ、憶えてないなあ」
「甲斐寺さん。この日の朝と午後に出されたもの大丈夫なんですよ。問題ありません。でも、この午前中に出された伝票だけがどうしても他と整合しなくて」
「ここまで細かく調べるのか」
「ええ。そういう決まりなんです。どうですか?」
「ううん、そう言われてもなあ」
 甲斐寺は腕を組んで天井を見た。窓の外ではまた雪が激しくなっている。
「ほら、ちょうどプラントの導入で忙しい時期だったから、バタバタで何も憶えていないんだよ。手帳もそのあたりは数か月間真っ白だし」
 机から引っ張り出してきた数年分の手帳をパラパラと捲り直す。もともと三日坊主で、手帳はいつも初めの数ページだけ丁寧に書いたら、あとは雑になっていくタイプなのだ。
「当時は私もご一緒していましたら、忙しかったことはわかります」
 三葉がキュッと顔を顰めた。
「だろ?」
「でしたら、役所で国民日記の抄本をとってきていただけませんか」
 三葉の視線が机の上の伝票から甲斐寺の顔へすっと移った。
「国民日記の謄本? そんなのがあるの?」
「いえいえ、謄本じゃなくて抄本の写しで大丈夫です。四年前のこの日の写しだけで」
「ああ、そうか。それがあれば」
 なるほど、と甲斐寺は膝を打った。
「ええ。もしかするとその日の行動が報告されているかも知れませんから」
 甲斐寺はスーツの袖を捲って腕時計を見た。十五時十五分。たしか市役所の窓口は十六時で閉まるはずだ。二人に向かって大きく頷いてから、甲斐寺は急いで自席に戻り、くたびれたトレンチコートを羽織った。

 パーソナル・アーカイブ係と書かれた窓口では男性の職員が手元のパソコンをじっと覗き込んだまま、カウンターの前に甲斐寺が立っても、視線をちらりとも上げようとはしなかった。
「すみません」
「はい?」
 声をかけられた男性はようやく視線をすっと甲斐寺に向けた。油でベッタリと撫でつけた白髪混じりの頭髪と、細い顔に似合わないやたらと幅の広い銀縁のメガネが印象的だ。
「過去の日記を見たいのですが」
「えっと、それはどういうことでしょう?」
 男性は急に驚いた顔つきになって甲斐寺を見た。勢いよく頭を動かしたせいでメガネがずり落ちそうになる。
「ですから自分の日記を閲覧したいんです。いや、閲覧というか、ある特定の日に書いた日記のコピーが欲しいんです」
「つまり、パーソナル・アーカイブの閲覧ですか?」
「ええ。四年前なんですが」
「ああ、それは無理ですねぇ。まあ、無理じゃないにしても、かなりたいへんですよ」
「たいへん? どうしてですか? 毎日送っている日記は全部保存されているんですよね?」
「ええ、ええ。もちろん保存はされていますが、さすがに四年も前となると探すのはちょっと無理かなと」銀縁メガネの男性は首を振った。
「何が無理なんですか。保存されているのなら探せるでしょう」
「そうとも言えないんです。何せ個人のプライバシーが絡んでいますから、うかつに中を見るわけにもいきませんし」
 そう言って再びパソコンに視線を戻そうとする。
「いや、待ってください。私がいいと言ってるんだから、いいじゃないですか」
「そう言われましても、やはり個人のプライバシーに関わることですから」
 よほどプライバシーの問題が気になるらしい。
「だから私は構わないんですって。なんなら一筆書いても構いません」
 銀縁メガネはふうと大きく息を吐いた。
「でしたらご自分で探していただけますか?」
「そんなことしてもいいんですか?」
「もちろんです。そのほうが私たちとしても気が楽ですから。そうしますと、えーっと、ここが市役所です。今いらっしゃる場所です。で、通りを挟んで向かい側のここがE棟です」
 メガネは小さな紙に印刷された地図をボールペンでなぞっていく。
「みなさんのパーソナル・アーカイブは、このE棟に保管されているので、地下一階のパーソナル・アーカイブ発掘係で申請用紙に必要事項を記入して出してください」
「発掘係?」
「そうです。十六番と書かれた窓口です」
「ありがとうございます」
 地図の描かれた小さな紙片を受け取り、甲斐寺は窓口を後にした。
「がんばってくださいね」
 背後からメガネがそう声をかけた。

 市役所の本館から通りを渡ってE棟へ移動するわずかな間にも、雪がコートの肩あたりに染みをつくり、傘を差せばよかったと甲斐寺は後悔した。
 手でパサパサと肩の雪を払い落としてから地下の十六番の窓口へ向かう。
「あのう」
「その申請用紙に記入して提出してください」
 予め答えが決まっているかのように、初老の男性は甲斐寺の話を聞くより前に、表情も変えずに答えた。にべもない。これだから役所に来ると気分が悪くなるのだと甲斐寺は内心で毒づく。
「四年前? だったらかなり掘ることになりますよ。いいんですか?」
用紙を覗き込んだ男性が面倒臭そうに言う。
「掘る?」
「はい、じゃあ、そこから中に入って。あとは中で聞いて」
 男性は廊下の奥にある巨大な金属製の扉を手で示した。艶消しのグレーに塗られた扉には、銀色に光る大きな回転式のハンドルがついている。
 甲斐寺はハンドルを回して扉を押し開き、中へ一歩足を踏み入れた。
「なんだこりゃ」
 巨大な筒状の空間が眼下に広がっていた。まるで円筒形のダムだ。比べるものが何もないので、向こう側の壁がどれほど遠くにあるのかパッと見ただけでは見当がつかなかった。百メートルにも、五百メートルにも思える。コンクリートでつくられた壁には階段が螺旋状に這っていて、甲斐寺は、その階段の一番上に設けられた大きな踊り場に立っていた。
 踊り場の端には小さな机が置かれ、女性が一人ぽつんと座っている。甲斐寺が会釈をすると彼女も小さく頭を下げた。
 甲斐寺はぐるりと頭を回して周囲を見回した。よく見ると、円筒の天井近くにはたくさんの細いスリットが等間隔で横一列に並んでいる。
 ジーッ、ジジジッ。ジー、ジジッ。
 小さな音が聞こえるたびにスリットから吐き出された紙が、ヒラヒラと舞いながらどこまでも深く深く落ちていく。甲斐寺はじっと目を凝らしたが、あまりにも深すぎて紙がどこまで落ちて行ったのかはよく見えなかった。
 また一枚、そしてまた一枚。次から次へと白い紙がスリットから筒の中へと吐き出されていく。
 ふいに、それまでふわりと宙を漂っていた一枚の紙が踊り場の端に引っかかった。そのまま滑り込むようにして足元で止まった紙に甲斐寺は思わず手を伸ばす。紙には小さな文字がびっしりと書かれていた。
「あ、ダメです。見ないでください」机の向こうで女性が腰を浮かせている。
「はい?」
 拾い上げた紙を手に甲斐寺が首を傾げる。二月四日。紙の一行目にはそう書かれていた。昨日の日付だ。どうやら昨日書かれた国民日記のようだった。
「個人情報ですから。何も読まずに、そのまま下へ落としてください」
 彼女は厳しい顔をして首を左右に振る。
「あのう、これって?」
 言われるがまま紙を空中へ放り投げてから、甲斐寺が尋ねた。
「パーソナル・アーカイブです」
 女性は淡々と答えた。もう何百回となく答えてきたのだろう。声には何の感情もこもっていない。
 甲斐寺は再び踊り場の柵から半分身を乗り出し、下のほうへ目をやった。次々に落ちていく紙は、やはりどこまで落ちていくのかわからない。
「パーソナル・アーカイブ?」
「ええ」彼女はこくりと頷くと再び椅子に腰を下ろした。
 円筒形のダムを満たしているのは水ではなく紙だった。国民が毎日報告している日記が紙に印刷され、この空間の中に吐き出されていた。


ここから先は

1,510字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?