試験官
慣れてくると試験官もそれほどたいへんではない。もちろん教員になったばかりのころは試験のたびに胃の痛くなるような思いをすることもあったが、いつしかそのようなことはなくなった。いちいちじっくり目を凝らさなくとも不正行為はそれとなくわかるのだ。それは定期試験だけでなく入学試験でも同じことだ。
一斉に袋から紙を出す音が大教室の中に響き渡る。比嘉は一度壁の掛け時計に目をやってから自分の腕時計に視線を落とした。
この季節は天候が荒れやすい。悪天候に振り回されると、もちろん比嘉たち試験官もあれこれたいへんだが、何よりも受験生たちがかわいそうだ。予報では雪が降ると言われていたので定刻に始められるかどうか不安だったが、何とか天気は持ち堪えたらしい。
比嘉は胸の内で安堵の溜息を吐き、会場をゆっくりと見回した。
真剣に答案用紙に向かっている者もいれば、最初から諦めムードの者もいる。寒さで悴んだ手に息を吹きかけている者もいれば、机に突っ伏して眠っている者もいる。毎年見かけるお馴染みの光景だった。入学試験は単純でいい。ほかの受験生よりも多く正答できれば合格だ。どんな理由があれ、正答出来なかった者は落ちるしかない。
比嘉は通路を歩きながら、受験生たちをゆっくりと見て回る。見るのはあくまでも受験生で、答案用紙に視線をやることはない。ほんの僅かな挙動でも、答案のヒントになりかねないからだ。
「ん?」
前方にぽっかりと空いている席を見かけて、比嘉は首を傾げた。今朝、全体確認をしたときには欠席者がいるという情報はなかったはずだ。試験が始まる前に帰ったのだろうか。
警戒していることが周りの受験生たちに伝わらないように気をつけながら、比嘉は静かに空席へ近づいた。椅子の上に何か乗っている。
銀色のアルミ容器だった。そっと覗き込むと、中には茹でられたうどんが入っている。比嘉の背中に緊張が走った。
「まさか、替え玉受験か」
それにしても――。
昔に比べると最近の大学はずいぶんレベルが低くなった言われるが、替え玉受験に本当の替え玉を持ってくるほどだとは思いも寄らなかった。
「うどんに受験させても意味がないじゃないか」
比嘉は迷った。大教室の試験官は比嘉を入れて四人いるが、不正があった場合には速やかにほかの試験官に伝えた上で、本部の指示を仰ぐことになっている。
だが。
「この替え玉は、替え玉受験として成立しているのだろうか」
不正を摘発しても、このまま放置しても結果は変わらないだろう。うどんに合格できるはずがない。比嘉は見て見ぬフリをすることにした。
欠席した受験生の椅子にたまたまうどん玉が置かれている。ただそれだけのことだ。
「たまたま玉が置かれている」
自分でそう言ってうっかり噴き出しそうになったのを何とか堪えた。
ひと月半が経った。
あれほど寒かった日々もいつしか溶けて、春の足音が近づいている。
比嘉は校門をくぐり抜けたところで自転車を降り、キャンバス内のゆるやかな坂を自転車を押しながら上がり始めた。坂の上に人だかりが出来ている。合格発表だ。合否はネットでわかるのだが、こうやって掲示板に貼り出された番号を見に来る受験生も少なくはない。おそらくキャンバスで実際に番号を目にすると合格したという実感が湧くのだろう。
坂を登り切ったところで比嘉は、掲示板の前で記念写真を撮っている受験生たちを静かに眺めた。みんなネットで合格を確認してからここへ来ているので、掲示板の前では誰もが嬉しそうに満面の笑顔を振りまいている。さっそく新入生の勧誘を始めているサークルもいた。
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