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ヌオニーを見た者はいない

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 名前のつけられている生物の数は実に二百万種を超えているから、人類はもう地球上の生物をほとんど知り尽くしたのかと思いきや、未知の生物はまだまだたくさんいて、実際、毎年数千以上もの新種が発見されている。
 考えてみれば発見とはずいぶんおこがましい言い方で、彼らはもともとそこに暮らしていて、ただ人類と出会っていなかっただけの話なのだが、とにかく人類にとってはそれが発見ということになる。
 たとえ記録や目撃例があっても、実在が確認されていない場合には未確認生物として扱われる。ネス湖のネッシーやダカタウア湖のミゴーといった水棲生物から、オーストラリアのバニップや中国の翼猫などの哺乳類、日本のヒバゴンやヒマラヤのイエティといった類人猿に近いものまで、人々の興味関心を集めてきた未確認生物は数多くあるが、エル・パティオス島のヌオニーもまたその一つだ。
 ヌオニーは島民の噂の中だけに存在する生物で、色も形も大きさもわかっていないどころか、哺乳類なのか昆虫なのかも不明である。
 島に来てから二年あまりが経つものの、未確認生物の専門家である比嘉でさえまだ何もわかっていなかった。
「でも比嘉先生は研究者なんでしょう?」
 しのぶニュースの三葉記者がメモを覗き込みながら聞く。未確認生物の特集を予定しているらしく、今朝、島に着いたばかりなのにさっそくあちらこちらを取材して回っているようだった。
「わかっているのは、ヌオニーはいるという事実だけです」
 比嘉は薬罐で沸かした湯を大きなマグカップに注ぎ込んだ。カップの中にはインスタントコーヒーが入っている。
 広く開放感のある研究室は、南国の島ならではの明るい日差しが差し込み、開け放しになった窓からは柔らかい風が流れ込んでいた。部屋を仕切るカーテンの向こう側に見える大きな金属製のドアだけが、この島の建物にはそぐわない異質な雰囲気を放っている。ゆらゆれと揺れるカーテンの隙間からは、銀行の金庫室にでもありそうな大きなハンドルが鈍く銀色に光るのが見えていた。
「どうしてヌオニーがいると言えるんですか?」
「ヌオニーは一度も記録されたことがないんですよ」
 カップを二つ机の上に置いて、椅子に腰を下ろすと一つを三葉のほうへ軽く押しやった。白いカップには赤い文字でアイラブニューヨークと描かれている。
「記録って、映像にですか?」
「静止画でも。どれだけ巧妙にカメラを仕掛けてもけっして写りません。いつの間にかカメラが壊されているんです」
 そう言って比嘉はカップに口をつけ、ズッと小さな音を立ててコーヒーを一口飲んだ。
「それが実在する証拠?」
「ええ。もちろんそれだけではありあませんが、さまざまな情報から勘案して私はヌオニーの実在を確信しています」
 窓の外で一羽の鳥が甲高い鳴き声を上げると、大きな木から一斉に鳥の群れが飛び立った。鳥がいなくなると、それまでこんもりと葉が茂っているように見えていた木には、枝しか残らない。あれはぜんぶ鳥だったのか。三葉の目が丸くなった。
 そんな彼女の様子を比嘉は楽しそうに見ている。
「島の人の中には、今までにヌオニーを見たことがあるって人はいるんですか?」
「いません」
「えっ?」
 比嘉の即答に、三葉は飲みかけのカップを手にしたまま固まる。
「見られるほどの距離にまで近づいたら、おそらく戻ってこられませんからね」
 比嘉は肩をすくめた。
「まあ、ぜんぶ噂に過ぎませんが」
 ヌオニーに出会った者は、自分がヌオニーを見たことに気づく前に、すでに餌食になっているのだという。気づいたときにはすでに何もかもが終わっているのだ。
 その素早さは、この地球上の生物の中でも、
「飛び抜けていると思います」
 比嘉は壁のカレンダーに目をやった。ツチノコのイラストがペン画で描かれている。
「あれだってそれなりに素早く動くとされていますが、その比じゃありません」
 ヌオニーは素早く動くだけでなく擬態の能力も持っている。
「完全に背景へ溶け込むそうです。おそらく数センチまで近づいても、われわれはヌオニーに気づけないでしょうね」
 そうして知らぬ間に餌食となるのだ。
「餌食ってのは、食べられるってことですか?」
「それはわかりません。なにせヌオニーに出会って戻ってきた者はいませんから。とにかく消えるんです。跡形もなく。体だけでなく装備ごと完全にね」
「消える?」
「ええ、これまでにも多くの研究者がこの島へヌオニーを調べに来ては消息を絶ちました」
 比嘉の顔が僅かに曇った。
「じゃあ、先生はどうやってヌオニーの調査をされているんです?」
「今は、餌です」
「餌?」
「今はヌオニーの好む餌を探っているところです」
 比嘉はそう言って立ち上がった。部屋の隅にある冷蔵庫のドアを開けて中を覗き込む。

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