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いつもそこにいる

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 テーブルにバッグをひょいと投げ出してから、有音は冷蔵庫を開けた。レモンサワーの缶を取り出してプルタブを引く。
 カショッ。
 小気味よい金属音に続いて、ピチピチと炭酸の跳ねる音が耳をくすぐってくる。
 エアコンのスイッチを入れた。暑さはまだそれほどでもないが、湿気が酷い。このまま夏になったらどれだけ暑いんだろう。
 有音は何もない壁をぼんやり見ながら缶を口に近づけた。やっと週末なのだ。今週もいろいろあったが何とか乗り切った。
 レモンの苦みが強い炭酸でよりいっそう苦く感じられる。ゴクリと音を立てて二、三口ほど空っぽの胃に落とすと一気に酔いが回ってきた。
 ふと目をやると玄関ドアのポストからこぼれたチラシが床に何枚か落ちている。レモンサワーの缶を片手に持ったまま、有音はチラシを拾い上げてバッグの横へ置いた。
 あなたの体重、二度と増やしません。
 最初の行に大きな赤い文字でそう書いてあった。どうやらダイエット指導の教室らしい。
 一人暮らしの女性が多いと思われているのか、年中無休のジムだのホットヨガだのポールダンスだの糖質制限だのと、このマンションのポストにはやたらと健康やダイエットのチラシが入る。
「でも、減らすとも書いてないからなあ。増やさないけど減らさない」
 そう呟いた有音は、いったい何がおかしいのか一人でぷっと吹き出した。
 食品棚で見つけたクラッカーを一枚囓り、もう一度チラシに目を落とす。
 最近流行の総合的なトレーニングメソッドから食事指導の部分だけを切り離したサービスのようだった。周りでも似たようなことをやっている子は何人かいて、以前から有音も気にはなっている。
 有音の目が留まったのは粛々と書かれた次の一行だった。
 二週間の無料モニターを募集しております。
 ほかの文章と同じ大きさで地味に書かれているので、うっかり見逃してしまいそうな一文だ。
 あ、これはいいんじゃない?
「だって無料だし」
 酔った勢いにも後押しされて、有音はすぐにバッグからスマホを取り出し、チラシに書かれているフリーダイヤルの番号を押した。

 説明は簡単だった。
「当社ではお客様のために専属チームを編成。二十四時間体制でお客様を影からサポートします」
「じゃあ、私は何をすれば?」
「何もする必要はありません。気になるようでしたら、いつもより少しだけ健康に気を遣った生活スタイルで過ごしていただければと」
 どういうこと? 有音は首を捻った。
 この手のダイエットをやっている友だちはみんな、毎回の食事をメモしたり写真をメールで送ったりして、食事トレーナーからの細かなフィードバックを受けている。トレーナーに褒められたり叱られたりしながら、二人三脚で進んで行くのが長続きする秘訣なのだという。
 それなのに、このサービスでは——
「本当に何もしなくていいんですか?」
「はい」
「だって私、暴飲暴食するかもしれませんよ」
「ええ」
「そうしたら体重だって増えませんか?」
「大丈夫ですよ。そのために専属チームがおりますので」
 ううん。有音は唸った。よくはわからないが、とにかく相手は自信たっぷりなのだ。
「影からサポートってどういうことですか?」
「お客様には見えないところで、こっそりと健康管理のお手伝いをいたします」
「本当に体重は増えないんですね?」
「はい。サポート期間中は増えません」
 それが二週間。しかも費用はかからないのだ。
「じゃあ、お願いしようかな」
 どこか怪しげではあるが有音は何もしないで、ただいつも通りの生活を過ごせばいいのだから、結局は損も得もない。
 有音は先方の指示に従ってスマホの画面を操作し、無料モニターに登録したのだった。

「えー、だったらお昼はケーキバイキングに行こうよ」
 茂禄子は両手をぱんと叩いた。給湯室に残響が跳ね返る。
「だって食べても体重は増えないんでしょ?」
「うん、そう言われた」
「じゃあ、決まりじゃん。ほら四丁目の角のホテルでやってるやつ。最近、みんな糖質制限とか言ってるから誘いづらかったんだよね」
 茂禄子の勢いに押されるように、有音はこくりと頷いた。

 なかなか来ないエレベータに乗り込み、昼休みの会社員たちでごった返すビルのエントランスまで降りると、茂禄子はすでに入り口の横に立ってスマートフォンを覗き込んでいた。巨大なガラスの向こう側には初夏の眩しい光が跳ねている。
「お待たせ」
 有音が胸の前でパタパタと手を振ると、茂禄子はハッと我に返ったように険しい表情を有音に向けた。
「ほら見て。ちょっと大変なことになったんだよ」
 茂禄子はスマートフォンの画面をこちらに向けた。
「六角煙道の角にトラックが突っ込んだんだって」
「えっ? それって」
「そうだよ。今から行こうとしてたホテルだよ。あーあ、せっかくケーキバイキングに行けると思ったのになあ」
 うんざりした声を出す茂禄子に、有音は戸惑いつつ肩をすくめる。
「しかたがないよ」
「じゃあ、お昼どうする?」
「何か買ってこようか」
 このあたりの飲食店は一斉に混むから、二人のようにタイミングを逸してしまうと、昼休みが終わる直前まで席が空かない。
「だね」
 二人は建物を出た。ビルの間を抜ける風がエアコンの排熱を運んでくるせいか、妙に暑い。
「あのタイの車、いないんだ」
 いつも向かい側の道路に駐まっているキッチンカーは、どうやら今日は休みらしい。
 ときどき行くお弁当屋さんも今日はもうほとんどの商品が品切れで、結局は近くのコンビニで簡単な野菜サラダとおにぎりを買ってすませることになった。
「ケーキバイキングの予定がコンビニのおにぎりかあ」
 公園のベンチに腰を下ろし、茂禄子はあからさまにがっかりした表情を見せた。仕事は妥協するが、食べることに関してはあまり妥協しないタイプなのだ。
「そういうこともあるよ」
 そう言って有音は、食後のデザートにと買ってあったエクレアの包装を破ろうとした。
 バンッ。
 どこから飛んで来たのか、いきなり目の前でサッカーボールが跳ね、有音の手に当たった。地面に落ちたエクレアからクリームが飛び出す。
「すみません!」
 小学生の男の子が二人、有音に駆け寄ってくる。二人とも地面に落ちているエクレアを見て鳴きそうな顔になった。地面と有音の顔を何度も何度も交互に見る。
「あの、おれたち、弁償します」
「ううん、平気だから。気にしないでいいよ」
 有音はそう言って男の子たちにそっと笑いかけた。

「あああっ」
 しばらく黙っていた茂禄子が突然叫んだ。目がまん丸になっている。
「もしかして、有音にケーキを食べさせないようにって、影のサポートがトラックを突っ込ませたんじゃない?」
 茂禄子の目が妙な光を帯びた。
「だってキッチンカーは休みで、お弁当は品切れで、エクレアは地面に落ちたわけでしょ」
 何が何でも有音に高カロリーな食事をとらせまいとしているのではないか。茂禄子はそう言うのだ。
 実は一瞬、有音も同じことを考えていた。

 とはいえ、有音がケーキバイキングへ行こうと決めたのは、つい一時間ほど前のことだし、しかも二人しかいない給湯室でさらりと会話を交わしただけだから、たとえ専属チームといえどもそれを知るはずはない。それにキッチンカーやお弁当はまだしも、小学生のサッカーボールはコントロールのしようがない。いやそれ以前に、誰かの食事を妨害するために、ここまで大がかりなことをするだろうか。
「ううん。考えすぎだと思う」
 有音は首を振った。なまじっか二十四時間体制だとか影からサポートだなんて言われているものだから、何でも結びつけたくなってしまうのだ。きっとそれがこのサービスの秘密なのだ。
「そうか。別に向こうは何もしていないのに、いろいろしてもらっているのだと、こっちで勝手に思い込んじゃうんだ」
 茂禄子は感心したように大きく頷いた。
「なるほどねぇ」
 そうやって守られていると思えば、逆に暴飲暴食はしづらくなるはずだ。せっかく大切に守られているのだから、それにちゃんと応えようと自分でも生活を律するにちがいない。
「そうやって思い込めば、向こうは何もしなくても減量できちゃうのかもね」
「褒めて伸ばすってヤツだ」
「違うと思うけど、だいたいそんな感じかな」
 ちょっとした仕掛けに気づいた二人は、満足そうに頷き合った。

 一週間が経ち、ようやく週末が訪れた。そう言えばあの日以来、レモンサワーも飲んでいないし、クラッカーも囓っていなかった。どことなく体が軽くなった気もする。もちろん気のせいかも知れないが、計ればすぐにわかることだ。
 サポート期間中は体重が増えないと言われているのだ。本当かどうか確かめてみよう。もしも増えていたら契約違反だ。
 有音は洗面所の壁に立てかけてあった薄い体重計を床に置いた。体をかがめ、指先で電源スイッチをオンにする。
 ピポポン。
 玄関のチャイムが鳴った。
「はあい」
 インターフォンのモニタには背の高い女性の姿が映っていた。その後ろにも数人の姿が見え隠れしている。
「専属サポートチームです」
「え?」
「健康管理の」
 そう言って全員が身分証をモニタ越しに見せた。
 どうぞと言ってドアを開けると、三人の女性が軽く会釈をして部屋に上がり、そのまま洗面所へ向かった。三人ともグレーの上下つなぎ服を着ている。
 ガシャン。
 激しい音が鳴り響いた。
 慌てて有音が洗面所を覗いたのは、ちょうど鉄パイプが体重計に振り下ろされた瞬間だった。砕けたプラスチックが床に散らばり、剥き出しになった電子回路がリード線だけでぶら下がる。
「いったい何なんですか!」
 驚いて大きな声を出そうとした有音の背中に、背の高い女性がすっと手を触れた。
「大丈夫ですよ」
 優しい声が有音を包む。
 一人がポケットから取り出した袋に体重計の残骸が次々に入れられ、小型の掃除機が床の上の細かな破片を吸い取った。
 もう一人がバックパックから新しい体重計を取り出し、元と同じ位置に置く。メーカーも型番も有音が使っていたのと同じものだ。
「お待たせしました。さあどうぞ」
 女性はそう言ってにっこり笑うと、二人を連れてあっというまに部屋から去って行った。
 カタン。
 玄関ドアの閉まる音が聞こえたあとは、最初からここには有音以外に誰もいなかったかのように、静寂だけが残されていた。
 ようやく有音は指先で新しい体重計の電源スイッチをオンにした。液晶画面にゼロの数字が表示される。恐る恐る足を乗せてみた。
「減ってる」
 たしかに減っていた。それもかなり減っている。
「でも、これって」
 どう考えてもインチキだろう。ここまであからさまなことをされて気づかないほど有音も初心ではない。なんだかちょっぴりバカにされているような気にさえなってくる。
「だったら」
 有音は部屋に戻ってバッグから携帯電話を取りだした。
「どうしたの?」
 茂禄子はすぐに出た。
「今から茂禄子の部屋に行ってもいい?」
「なんで?」
 声がぼんやりしているのは、たぶん一人で飲んでいたからだろう。
「実は体重を計りたいの」
 有音は声を潜めた。
「あ、それって、例の?」
 茂禄子も釣られて声を潜める。
「うん、そう」
 ドドーン。ゴワッシャン。
 いきなり電話の向こうから重々しい音が聞こえた。
「どうしたの?」
 返事がない。
「ねえ、茂禄子?」
 何度も呼びかけるが、バタバタと物音が聞こえてくるだけだった。
 しばらく沈黙が続いたあと、やがて電話の向こうでサイレンの音が鳴り響き始めた。いったい何があったんだろう。有音は携帯電話を握ったままじっと体を動かせずにいる。
 ようやく茂禄子が電話に出た。
「あんたのサポートすごいわ」
「何があったの?」
「うちの体重計が爆発したの」
「ええっ?」
「もう、お風呂場から洗濯機から無茶苦茶になってる。今、消防と警察が来てるところ」
 有音はやけに手が痛いことに気づいた。それまで知らず知らずのうちに携帯電話を強く握りしめていたのだ。
「ごめん」
「あんたが謝ることじゃないから」
茂禄子はそう言うが有音としては責任を感じる。何度も謝ってようやく電話を置いた。
 まさかこんなことになるなんて。
 どうやら影のサポートチームは、何が何でも有音の体重を増やさないつもりらしい。
「ううん、そうじゃないな」
 むしろ、実際に増えたか減ったかに関係なく、体重が増えたことを有音に見せさえしなければ、それでいいと考えているらしい。
 壁の時計は一九時半を少し回ったところだった。四駅先の家電量販店はたしか二十二時まで営業しているはずだ。こうなったら、サポートチームがどこまでやってくれるのかを確かめてみたい。
 有音は上着を羽織ってバッグを肩に掛けると急いで駅に向かった。

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