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サラダつきのランチ

illustrated by スミタ2022 @good_god_gold

 もう夕方近いのに店内はそれなりに混んでいた。客の半分ほどはスーツ姿のいかにもサラリーマンといった雰囲気の男性たちで、ぼんやりとした表情をしたまま目の前の料理を機械的に食べている。あとはカップルか女性のグループだ。
 端から見れば井塚と甲斐寺もくたびれたサラリーマンに分類されるのだろう。朝から得意先をいくつも回ってこんな時間になれば、ぐったりもする。
 テーブルの隅に置かれた紫色のボタンを押すと厨房でベルの音が響き、店員がすぐにやってきた。髪を短く切った小柄な女性で、細い目でにっこりと笑ってみせる。白いカッターシャツに黒いパンツが店の制服なのだろう。首には赤いスカーフが巻かれている。
「まだランチメニューはやってる?」
 井塚はグランドメニューを開きもせず、ラミネート加工されたランチセットのチラシを覗き込んで聞いた。チラシには大きく四つのメニューが載っている。どれも艶のある写真ばかりだった。
「はい、ご注文は十六時までです」店員は子供のような声を出した。
「じゃあ、オレはこのBランチで。あとドリンクバー」
「僕も同じものを」甲斐寺はそう言って店員を見上げ、軽く頷いた。
「ハンバーグのランチがお二つとドリンクバーがお二つ。以上でよろしかったでしょうか」
 店員は手元の端末を見ながら注文内容を確認する。こんなに簡単な内容をいちいち確認するのかと不思議に思うが、そう決まっているのだからしかたがない。
「はい、大丈夫です」木寺が答える。
 店員の後ろの壁は黄土色のレンガを模したもので、掛けられた時計はまもなく十六時を指そうとしていた。
「Bランチにはサラダがつきますが、ドレッシングはいかがいたしましょうか」
 店員は二人を覗き込むように軽く膝を折りながら聞いた。
「あ、サラダがつくのか」
「選べるんですね?」
「和風ごま、イタリアン、フレンチ、タルタル風がございます」
「だったら和風だな、和風。オレは和風で」井塚は即答した。
 甲斐寺は再びランチメニューを覗き込み、小さな円で囲まれたドレッシングの写真を見比べてから、その一つを差した。
「僕はこのタルタル風をお願いします」
「かしこまりました。和風ごまとタルタル風ですね」
 店員はまたしても確認をしながら、手にした端末のボタンを素早く押す。
「かけ手はどうしますか?」
「かけ手?」木寺の鼻に皺が寄った。
「はい。ドレッシングのかけ手です」
 そう言って店員は時計の下に掛けられた黒板に顔を向ける。
「本日は井間賀俊哉、飯尾拓也、砂原茂禄子の三人が待機しております」
「じゃあオレは飯尾さんで」井塚は慣れた口調で言った。
「えーっと、それってどう違うんですか」
「井間賀は気が短いタイプ、飯尾はスポーツマン、砂原は無神経です」
 スラスラと返事が出てくるのは一日に何度も答えているからなのだろう。
「ううん」甲斐寺は首を傾げて腕を組んだ。
「気が短いタイプとスポーツマンと無神経って、方向性が違いますよね?」
「え?」店員の細い目がさらに細くなた。
「待てよ甲斐寺、方向性ってなんだ?」
「ほだ、ベクトルが違うというかさ、ジャンルが違うというかさ」
 考え込む甲斐寺を見ながら、井塚はニヤニヤしている。
「またおかしなことを言い始めたぞ」
「だから、その三つって同居できるでしょ。気が短いスポーツマンとか。ね?」
 そう言って店員を見た甲斐寺の眉がピョンと跳ねた。
「ええ、まあ」
 ふいに店内に流れるBGMがポップソングからジャズに変わった。十六時になったのだ。誰が選曲をしているのかはわからないが、チェット・ベイカーの吹く、もの悲しいトランペットの音色は晩秋の夕暮れ時に合っている。
「そういう人はいないの? 気が短くてスポーツマンで無神経な人」
 甲斐寺が尋ねると店員は細い目をいっぱいに開き、慌てた様子で周囲を見回した。
「いちおう街野彩が控えておりますが、ですが、あのう、こちらはかなり危険でして」
 店員は二人にだけ聞こえるほどの小さな声で言ったので、最後のほうの言葉はBGMのトランペットにかき消されてよく聞こえなかった。
「街野さんって人が、気が短くてスポーツマンで無神経なの?」
「ええ、まあ」
「じゃあ、僕はその人にドレッシングをかけてもらおうかな」
「かしこまりました。和風ごまを飯尾、タルタル風を、そのう、街野で」
 そう言ってごくりと唾を飲み込んだあと、店員が端末に指を乗せようとしたところで、井塚がさっと手を上げた。
「あ、ちょっと待って」そのまま店の奥を指差す。
「あの人は? ほらあのダンディな人」
 赤いスカーフの代わりに蝶ネクタイをつけた男性店員が、コーヒーカップを客に手渡しているところだった。きれいに整えられた口ひげとがっしりとした顎が、意志の強さを感じさせる。
「可児です。可児治夫」
「オレはあの人がいいな。あの人にドレッシングをかけてもらいたい」
「ですが、可児はドリンクバーのマスターなので、ドレッシングはその」
「バーのマスター?」
「はい。ですからドリンク以外のものはお出しできません。申しわけございません」
 店員はそう言って丁寧に頭を下げてから、端末を押し直した。きっぱりとした態度は、これ以上いくら話しても無駄だと言っているようだった。
「和風ごまを飯尾、タルタル風を街野で。それでは少々お待ちください」
 店員が去ったあとも、井塚は体の向きを変えてじっとマスターを見つめていた。
「あの人が良かったな」
「しかたがないだろ。ともかく僕たちはドリンクバーも頼んでるんだからさ、とりあえずマスターにドリンクを入れてもらおうよ」甲斐寺が言うと井塚は首を振った。
「いや、オレはいいよ。悪いけどオレのぶんも貰ってきてくれないか。ホットコーヒーでいいから」心なしか井塚の耳が赤くなっているように見える。
「なんで?」
「だって照れくさいだろ」
「ドリンクバーを頼んでドリンクを取りに行くのが、なんで照れくさいんだよ」
「あのマスターにさ、なんだこいつ単なるホットコーヒーなんかを飲むのか、なんて思われたらどうするんだよ。恥ずかしいじゃないか」
「ホットコーヒーは大人の飲み物だぞ。恥ずかしくないよ」
「もっと複雑な飲み物を頼んで、こいつなかなかやるなって思われたいじゃん」
「井塚。お前、惚れたな」
「うるさいな」
「ドリンクバーのマスターに」
「やめろ」
「可児さん、ねえ、可児さん」甲斐寺がマスターに向かって手を振った。
 名前を呼ばれたマスターは怪訝な顔になってこちらを見る。
「おい、甲斐寺。やめろってば」
「こいつが、あなたにドレッシングをかけて欲しいそうなんです」
 一瞬、目を丸くしたマスターはやがて軽く肩をすくめてから静かに笑った。その笑みは、どこか困っているようでもあり、同時に喜んでいるようでもあった。
「違います! そんなことありませんっ! ドレッシングなんて要りませんからっ!」
 井塚は店内に響くほどの大声を上げた。それまで談笑していた客たちが一斉に黙って二人に視線を向ける。チェット・ベイカーの悲しくも力強いトランペット・ソロが天井のスピーカーから流れていた。
「あのう、ドレッシングは要らないんでしょうか?」
 すぐ後ろから男性の声が聞こえた。思わず二人が振り返ると、さわやかな笑顔を浮かべた男性が、銀色の盆にガラスでつくられた丸いドレッシングサーバーを乗せて立っている。
 筋肉の盛り上がった胸にあるネームプレートには飯尾と書かれていた。ドレッシングサーバーにはオレンジ色の液体が底の方にほんの少しだけ残っている。
「僕にドレッシングをかけて欲しくないんですね」
「いや、そんなことはありませんよ」井塚が慌てて首を振る。
「でも今、ドレッシングなんて要りませんって、あんなに大声で」
「要る。要ります。もちろん要りますとも」
 井塚の言葉を聞いて飯尾はホッとした表情になった。
「かしこまりました。それでは和風ごまをご用意して、のちほどお伺いします」
 井塚もホッとした表情を見せたあと、甲斐寺を睨み付けた。
「お前が余計なことを言うから、話がややこしくなるだろ」
 甲斐寺はキュッと口をへの字に曲げただけで何も答えず、おもむろに席を立った。そのままゆっくりとドリンクバーへ向かい、ケースの中で逆さまに置かれているグラスを二つ取り出して水差しの水を注いだ。コポコポとリズミカルな音を立ててグラスが満たされていく間、マスターは何か言いたそうに甲斐寺の動きをじっと見ていた。
「何か?」二つのグラスを両手それぞれに持って、甲斐寺はマスターに顔を向けた。
「お客様は街野を?」
 マスターは確かめるような目をしていた。
「はい、街野さんを」
「そうですか」
 ドリンクバーのマスターは低い声でそう言ったあと、ぐっと口を硬く結び、一人で静かに何度も頷いた。
「はい、水。コーヒーはあとで」
「おお、サンキュー」
 甲斐寺がテーブルにグラスを置くと井塚はすぐに手を伸ばし、一口でグラスの水を半分ほど飲んだ。
「まだ来てないのか、Bランチ」
「そうなんだよ。いくらドレッシングやかけ手を選んでも、肝心のサラダが来なきゃ意味が無いよな」井塚が頭の後ろで手を組んだ。まだ、ときおり視線をチラチラとドリンクバーに向けている。
「さっきの飯尾さんだっけ。いかにもスポーツマンって感じだったよな。どんなかけ方をするんだろう」
「オレは、お前が頼んだ街野さんが楽しみだよ」
 そう言う井塚の頭越しに、何やら白い塊が飛んでくるのが甲斐寺の視界に入った。
「あっ」
 ブシャン。
 避ける間もなく塊は甲斐寺の胸に直撃し、潰れて辺り一面を濡らす。飛んできたのはタルタル風ドレッシングだった。
「何だよ」
 おしぼりで顔についたドレッシングを拭いながら、甲斐寺は井塚の向こう側に目をやる。井塚も組んでいた腕を解いて慌てて後ろを振り返った。
「ああ、外れた」
 キッと目を細く険しい表情をした女性が両手に小さなカップを持って立っている。
 二人が何かを口に出す前に、女性は片手を大きく振ってカップの中のドレッシングを放った。カップから飛び出したタルタル風ドレッシングは、白い塊となって再び甲斐寺をめがけてまっすぐに飛んでくる。
「うあっ」
 今度は顔に直撃した。刻んだタマネギが鼻の穴に入る。
「ちょっと、あんた何するんだ」井塚が怒鳴った。
 唖然とした顔で女性を見ていた甲斐寺の目がふいに丸くなった。あれは最初に注文を取りに来た髪の短い小柄な店員じゃないか。
「あなたが街野さんなの?」甲斐寺が聞く。
「ああ、また外れた」
 二人を無視したまま、街野はもう片方のカップを振った。またタルタル風ドレッシングの塊が宙を滑り、今度はテーブルに落ちた。跳ね返ったドレッシングが再び甲斐寺にかかる。もう甲斐寺の上半身は真っ白になっていた。
「よし」
 街野は小さくガッツポーズをして、クルリと体の向きを変えると厨房へ戻っていく。
「何だよ今のは」井塚が呆れ顔で甲斐寺を見た。
「あれが、スポーツマンで職人気質ってことなのか」
「僕にはわからない」
 甲斐寺は両手で顔のドレッシングを払いながら甲斐寺は咳き込んだ。タマネギと強い酢の匂いが鼻の奥を痛めつけるように広がっていく。
「だって、まだサラダは来ていないんだぞ。それなのにドレッシングだけ先にかけるのかよ」
 わざと厨房に聞こえるような声で井塚が言う。
「でもほら、街野さんは短気だから」
 甲斐寺はテーブルのカトラリーボックスから、新しいお手拭きを抜き出して、手や服を拭き始めた。
「サラダが来るまで待てなかったのか」井塚の目が丸くなる。
「たぶんそうなんだろうね」
 全身にかかったタルタル風ドレッシングをなんとか拭き取ったあと、甲斐寺は水の入ったグラスを手に取った。グラスの水にもドレッシングが浮いている。
 一口飲んで、また咽せた。水で薄められたドレッシングほど不味いものもない。
「オレが水とってくるよ」
 そう言って井塚はゆっくり立ち上がると、緊張した様子でドリンクバーへ足を進めたあと、グラスの入ったケースの前に立ったところで立ち止まり、すっと体の向きを変えた。
 ドリンクバーのマスターが正面に立っている。
 井塚がマスターに向かって何か言ったようだったが、何と言ったのかは甲斐寺には聞こえなかった。マスターは優しく微笑んで井塚に何か答える。二人が一歩ずつ互いに近寄ったのがわかった。甲斐寺は苦笑いをした。どうやらしばらく水は来なさそうだ。

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