見出し画像

蒼刀


  今、この部屋は、天井の明かりと枕元のランプを消してもまだ尚、白く光っている。天窓から差し込む月明かりが、狭い部屋全体を照らしているからだ。部屋の隅に置かれた本棚や、そこに並ぶ日記の数々。そして床に広げられた絨毯がはっきり闇の中で光っている。その上をレースのカーテンの影が静かに泳いでいる。翔平は仰向けで大の字に寝転がりながら、カーテンがうねるのを眺め、その動きに魅了される。まるで天女の衣が月明かりに照らされて湖面に映っているようだ。艶美な曲線を描きながら、誘うように広がって、それから静かに蕾のように縮こまる。春の夜風は、彼の心の深くに広がっていき、空想の世界へと誘う。乾ききった心の砂丘に雨を降らせ、蜃気楼が立ち現れる。祖母と水族館で見たクラゲの傘。晩夏の弱々しい蝉のこえ。記憶の断片が立ち現れる。流れ去っていく歳月は容赦なく翔平の記憶を打ち砕いてしまう。けれども忘却の彼方にあった想い出の砂塵たちが、春の夜風に誘われ立ち上がる一瞬の間、彼の過去と現在は渾然一体となる。窓の外に広がるブルーベリー畑、その向こうにあるブナの木立、そのさきにある小さな駅舎から続く線路、その行き着く先にある都市部の喧騒。ひとつひとつ煙のように、立ち現れて、それから消えていく。

  人生の一時代が終わった。翔平はそう感じていた。数年前、彼は「かつての彼」と決別した。もしかしたら一度気が付かないうちに死んだのかもしれない。そうまで考えた。危険な青春、無分別に自滅を選ぶ若さ・・・昔の彼自身を考えるたびに翔平の胸は張り裂けそうだった・・・。そして自分を恥じた。なぜこうなってしまったのだろうと、その原因の追求に勤しむあまり、過去を振り返ってばかりいる癖がついた。ところが世に蔓延る愚か者の典型であった彼は、無数の失態と汚辱に塗れた哀れな自己を受け入れるような潔さはなかった。そうしてことあるごとに、自分を取り巻く人を彼自身と同じように恨み、憎んだ・・・。他人からの褒め言葉を、侮辱と思いこみ、他人からの注意を、弱者からの羨望や僻み、あるいは負け犬の遠吠えとして受けとめた。訳も分からず人を恐れ、何かと口実をつけて、社交の場を避けて、どんどん友人を失っていっても、彼は何者か分からぬ彼自身に自惚れていた。そうしてそれと同時に恐れていた。疑いなく、彼が最も恐れていたのは、尊大さと矮小さの間で絶えず揺れ動く彼自身であった。

孤独になった彼は、ようやく冷静さを取り戻した。そうしてもう若くはないのだと思い知った。今宵も、月明かりは、机の影を西から東へ伸ばして翔平を蒼い記憶の彼方へと誘った。東の空が朝焼けに染まるまで、彼はずっと物思いに沈むのだった。

 2
  あれは確か、就学後まもない春の日のことである。長い間入院していた翔平の母が退院して久しぶりに家に帰ってくる。そう祖母から電話で聞いていた翔平は、家路を急いだ。放課後、早くも友人を見つけ校庭で遊ぶ少年たちを横目に、彼はひとりであった。外には排気ガスを浴びて黄ばんだプラタナスの並木道がまっすぐどこまでも伸びていた。
学校近くの工場地帯に並ぶそれぞれのバス停には、油で汚れた手の中に、受け取ったばかりの日当の入った封筒を握りしめた男たちがいた。この男たちは皆揃って疲弊しきっていた。世の不平等と自身の不幸を嘆きながら、夕焼けに染まる西の空とその下に広がる土手をぼんやりと眺めていた。
この男たちが向かう先はどこだろう?幼い翔平は空想に入り浸る。あと数時間で店先の提灯を灯し始める.「居酒屋か、隣駅の駅前のパチスロか、数駅離れた下町のキャバレーに行くのだろうか?男たちは日々の憂いを癒す憩いの場を求め、夜の街に繰り出していくに違いない。あるいは自分と同じように家路を急いでいるのであろうか。家には、愛する人がささやかな料理を食卓に並べていて、夫の家路を待ちわびているのだろうか・・・。」

   夕焼けはバスを待っている男たちの背中を照らしながら土手の向こう側に落ちていった。遠方に立ち並ぶ煙突は物悲しく陰鬱な煙を絶え間なく吐き出している。寂しい街全体が夜の闇に包まれるかと思ったら、街灯がぼうっと灯り出した。街灯の光は、工場を優しく包んだ。
遠く海の向こうの大国の住宅市場の崩壊が、この貧しく寂れた場末に及んだ日から、この街はますます寂れてしまった。そして誰もが、老体に鞭打ってあくせく働いているうちに老いていく運命を嘆き、心のよすがを求め、探し、あちらこちらを彷徨っていた。 翔平はなんだかひどくもの悲しい心持ちになって登下校道を歩いた。


   翔平が帰ると、家では母が暗がりの中で眠っていた。伽藍堂の部屋の壁にはキリストの十字架が窓から差し込む月明かりに照らされていた。机の上には小さな卓上ランプが点っていて、薬の山と半分ばかり水の入ったコップ、皿の上に切って並べられた蜜柑と共に、手紙があった。

「翔平。お母さんは具合が悪いので寝ています。お父さんは今夜帰りが遅くなるそうです。」

   幼い翔平は、キリストがやってくるのを毎夜毎夜待っていた。窓から臨むガスタンクの向こうから、小さな幸せを連れてきてくるキリスト。いつしか彼の中で、アメコミのヒーローとごっちゃになってしまったキリスト。そのキリストはいつかきっと現れて、病に苦しむ母に奇跡を起こし、家庭に愛の灯火を灯すのだった。そうすれば父も帰ってくる。そして家族団欒の日々が戻ってくる。

   翔平は暗闇の中で、十字架上のキリストの真っ黒な瞳が光っているのを見た。その目は翔平をひしと睨んでいた。艶が増し魂が宿ったような瞳だった。その眼差しは、彼の心に巣食う隠れた残酷さを見透かしていた。心の声を押し殺すことに慣れ切った彼は、いつしか心を偽る術を覚えた。しかしその罪深さには全く気づいていなかった。むしろ、心を偽ることを聖者の善行や、自己犠牲の美徳と履き違えていた。無論、彼にとっての優しさとは真心からのものでは毛頭ない。単に偽りの社交を円滑に進行するための潤滑油のようなものであった。彼にとっては、偽ることこそが正義であり、偽ることは、キリストに倣った犠牲の心であった。そうしてやはり、彼自身の優しさの背後には、絶えず、利他的な奉仕ではなく、恣意的に他者を操作しようとする欲ぶかさが見え隠れしていた。
  ところが、どういうわけか、この時ばかりは、キリストの瞳によって彼の心が克明に浮かび上がるような気がしてならなかった。その漆黒の輝きの中に、彼は遺伝の呪いと、自らの宿命があることを知ったのであった。

   この日、翔平は子供ながらに、闇の中に光るキリストの像の眼差しに怯えた。しかし、その怯えは、幼い彼には名状しがたいものであった。そうしてしばらくの間、その得体の知れない恐ろしさは彼の心を離さなかった。



 翔平は二十歳になった。街を練り歩き、地下鉄の轟音の中、人混みに身を任せる都市での生活をおくった。今日も彼は、憩いを求めることを忘れた人々の哀愁漂う灰色の背中と、暗がりを走り去っていく鼠の大群を横目に見ながら、地下鉄を乗り継いでいった。
体いっぱいに若さと残酷さを漲らせた青年になった翔平は、永遠に続くものと錯覚した若さへの驕りゆえに、反抗的かつ尊大であった。己の愛し方を知らず、心は猜疑心に満ちていた。鬱鬱とした、やり場のない怒りを胸に抱きながら、何もかもを壊して、悦にいった。破壊の後の惨憺なあり様を見て、病的な自尊心が満たされるのを感じて酔いしれた。気付かぬうちに得体の知れぬ呪いが常に彼を襲っていたのであった。貪欲な心と抑えられない怒りのせいで、彼の人格は崩壊した。

   無惨に月日が過ぎた。彼は彼を取り巻く全てを嫌った。そして、欲望の毒牙を持つ蛇と棘のある花々で飾られた街に毎夜、毎夜、なんの当てもなく出かけていった。刹那的な快楽は一時的に彼を癒した。ところがやはりどうしても彼の心の渇きを満たすものを見つけることはできなかった。そしてそれは至極当たり前であった。彼は常に何かを欲していたのだが、何を欲しているかは彼にもわからなかったのだから。

   窮屈で殺伐とした都会の雑踏の中にひしめき合っている無数の罪の数々を、彼は軽蔑していた。ところが、それと同時に奇妙な敬愛の念をも抱いていた。彼は、悪人が悪に染まって刹那に生きる荒々しさの中に、野性の美しさと儚さを発見した。その美しさとは、社会の辺境へおかしな運命に抗えず堕ちていった者が、綱渡りさながらのその日暮らしで、めいめいの人生を最大限謳歌し、一寸先は闇の危うい境遇を分かち合う、「奇妙な友情」と「連帯意識」の中にある愛の美しさであった。すぐさま、彼はその強くて脆い愛の絆に憧れたので、その中に自分を投じようとしたが、どうしてもそれができなかった。野生の美しさを身につける資格を彼自身が有していないことを、彼は強く羞恥した。見よう見まねで悪人の模倣した。甘美な悪に染まろうともがいたのだった。選民になるには神に愛されなければならない。清らかな魂が罪に人を走らせるのであれば、善であるということは一体なんであろう?善人の皮を被った世人の一人となって、危うい文明の歯車の一部に組み込まれ、集団自殺を図ろうとする人間社会に反骨精神をむき出しにした「永遠の若者たち」の一体どこが悪であろうか?ただ、もしその善なる悪人の一人になれぬのであれば、悪なる善人共に迎合するより他はないのだった。

  不安で眠れない夜はクラブへ行った。音の洪水に身を任せて踊った。一度、テクノのトランスの境地に入れば、一切の憂いや、迷いがなかった。美しく重層的な電子音を前にして無の境地に入る時、誰もが等しく孤独な友情をわかちあっていた。時が過ぎていくことを忘れてスポットライトで浮き上がる無数の人影は互いに他人同士であるのにもかかわらず奇妙な連帯感があった。皆で酒をあおり、タバコの煙を燻らせる。ステージ脇からのスモークが人々を優しく包んだ。全ての傷ついた魂が、闇の中で、音の渦の中と霧の中で、ひしめき合っていた。

   若いということはそれだけで危険であった。彼は若さに、永遠に続く生命の喜びの幻影を見ていた。若さは、清らかさと罪深さ、繊細さと凶暴さを兼ね備えていた。彼は、純粋な、透き通る鋭利な蒼い刃で、混沌とした自己を切り裂いていった。その蒼い刃は繊細であるが故に切れ味もよく、あっという間に翔平を転落させていった。

   翔平は全身に漲る生命力を讃えながら、躊躇うことなく自滅していった。絶望が待ち構えていることにも気がつかず、欲望の渦の中、己の心欲するままに突き進んでいった・・・・。


 ある日の夜、一人の女がホールの中央で操り人形のように手足をばたつかせながらチグハグなダンスを踊っていた。しばらくライトがその女を照らし、そうしてまた闇の中に消えていった。そのダンスは妙に美しく病的であった。翔平は、この女を幽霊ではないかと思った。この女を見るために翔平はカウンターに移動した。
クラブは、次第に人の気配がなくなっていた。気がつけばその女と翔平と二人だけになっていた。すると女は急に踊るのをやめて翔平を誘った。翔平は怪しげな魅力を讃えた女に付き従った。二人は名を明かすこともせず、夜の公園へと急いだ。


 公園に着くと満開の枝垂れ桜が揺れていた。二人の若い男女は桜の木の下で、まるで死人のように透き通っていた。

「夜の公園には心中した男女の亡霊たちがいるの。彼らは死んでもなお今も愛し合っているようだわ。そうして生きた男女を死へと誘うのよ。」
女はこんな妙なことを翔平に言った。

女の名前は舞といった。怪しげで奇怪な女であった。この世のものと思えぬような真っ白な肌。氷のように冷たい眼差しをこちらに向けながら、突き放す態度。透き通るような肌は死人のようで、その下を桜の葉脈のような血管が浮き出している。血の気を感じない病的な面立ち。

 「どこかで一緒に始発まで飲みませんか?」

女は翔平の方に一瞥もくれず、誘いにも応じずに歩いていった。ちょうど公園の中央にある湖を眺めるベンチに腰掛けてこう言った。

「こんな綺麗な花吹雪を見ているとなんだか不思議な気分になるわ」
「どんな気分に?」

「今夜、もう死んでしまってもいいと思うのよ」

   そういう女の声は桜並木を超えて、遠くの枝垂れ桜を震わせた。突如、強い風が吹いて、無数の桜の花びらが宙を舞っていた。女の手にはロープがあった。翔平はこの女が死のうと思っていること、そしてそれを手伝って欲しいと言っているのだということを推察した。

「あなたが死ぬのは今夜ではないでしょう?あなたは来年の春もきっと桜の木の下でロープを持って立っているはずですよ。」

翔平はそういってこの女と始発を待った。

 

 それから程なくして、翔平は舞と恋仲になった。魅力的な柳眉と白い肌は酒とともに生命力を取り戻した。酒は舞を現実世界に呼び戻す唯一の手段であった。
 舞はことあるごとに死にたいと言った。翔平は彼女が取り憑かれている死への執着と、怪しさに惹かれた。翔平は自己破壊欲求に取り憑かれた愚かな男であった。この女からタナトスの危険な香りがすればするほど、ますます惹きつけられていった。翔平は舞を愛した。それは奇妙な愛であった。壊れかけた男女がお互いが奈落の底に落ちていくのを手伝いあっていた。一人で落ちていくのが恐ろしいなら、二人で落ちて行けば良いのだ。翔平はそう錯覚していた。二人の頭上に死神がせせら笑っていることも彼は知らなかった。

何世代にもわたる遺伝の病は似た運命を持つもの同士を引き寄せていた。なんとか生き延びらえてきた二つの病んだ魂は、遥か昔、奇跡的に誕生した生命体がこの地球上に鳴り響かせていたであろう産声を、絶やすまいと躍起になっていた。決して愛しえない、劣った、かなしい遺伝子をこの世に残そうと、夜々二人は貪るように絡まりあい、お互いを味わった。

  翌年の春、舞は翔平を海に誘った。舞は翔平に「言いたいことがある」とだけ伝え、翔平を呼び出した。

 翔平は舞と海岸沿いを歩きだした。春の海に吹く陸風は野山の土の香りを運んでいた。その心地よさに身を任せ、上機嫌だった。そしてほとんど無邪気な少年のようにこう言った。

 「来年の春も一緒にここへ来よう」
舞はこう言った。
 「そうね、来れたらいいわね」
翔平はほとんど喚くようにこう言った。
 「来年も、再来年も、ずっと君の隣で海を見たい。君が笑うと、僕は今まで生きていてよかったと思う。たとえ君が元気じゃなくても、僕を本当に愛してくれていなくとも、君さえよければ僕は構わない。隣にいてもいい?」

舞は俯きながら、何も言わなかった。春の夜風に吹きとばされそうになりながら、二人は何も言わずに歩いた。そうして桜の木の下まで来て舞はこう言った。

「ごめんなさい。もう終わりにしましょう。私はあなたを全く愛してはいないわ。」

 その時翔平は、何も返す言葉が見当たらなかった。その言葉そのものが衝撃的だったからではない。むしろ自らの心に沸き起こる愛が、独りよがりのものであったことに薄々勘づいていた。そうして今、それが明らかとなったのであった。そんなわかりきったことをなぜ聞いたのだろう。彼は自身を嘲笑った。それでも愛するということ、彼は生まれて初めてその感情が自分の心にも宿りうるということを、翔平は今の今まで感じていた。

 翔平は女と駅で別れ、家に帰った。これでよかったのだ。彼はそう彼自身に言い聞かせた。


 

 それから程なくして翔平は、舞の訃報を知人から知ることになった。舞は25歳の誕生日を目前の夜、自室の8階のベランダから飛び降りた。桜の花びらが春の夜風に誘われて町中が薄紅色に包まれていた嵐の夜だった。

 翔平は驚かなかった。彼女の人生は死にとりつかれていたと言うこと。彼女の心の苦しみはどうしても翔平には拭いされない。そういう無力感を翔平は嫌というほど味わっていたからである。


 日々は案外と安寧にすぎていった。翔平はセンチメンタリズムに浸ることもなく、危険な青春からはきっぱりと見切りをつけた。誰もが経験する青春。たまたま翔平のそれは不健全であったと結論づけた。危険な青春と決別した時、翔平は自分の若さが永遠に続くことはないと気がついた。若さが見せてくれた幻影は、夢うつつの恋とともに、突如消えていった。そうして翔平は一人、喧騒から身を引くことにした。

 何か取り返しのつかない大きなものを失ったように感じられる日もあった。一人になってようやく、まず己を愛せるようになろうと努力した。ところが愛というのはどうやら高尚な技術と訓練を必要とするもののようであった。無償の愛を受けたものは、愛することを厭わない。愛は搾取するものと心得ていた彼にとって、愛は非常に成熟した人間が持ち合わせた、人間の武器であった。得体の知れないこの武器は人を無防備にしてしまう。たとえ搾取されようと、嫌悪されようと、渾身の愛の前では、幾ばくかの義侠心を持った愛なき者なら、到底太刀打ち出来ないのである。愛に対し、渾身の憎しみを向けてもなお、豊かな慈愛でもって受け入れられてしまった時には、今以上に自らを嫌悪しなければならない。


 翔平は愛を恐れ、ますます孤独になった。一人閉じ篭り、空想に入り浸るか、独り言に花咲かせるか、鏡に向かって暴言を吐くかして日々を過ごした。その度、もう今後生きていくことは不可能にさえ感じられさえした。

 耐え難い夜々が続き、死と隣り合わせに、なんとか生きながらえていた。それでも翔平は死を選ばなかった。思い返してみれば、彼は、生きることを拒絶して過ごしていたのだった。生きるということ、それは自分の宿命を愛し、境遇を愛し、弱さを愛することだった。それから人を愛する術を学ぶことだった。その愛とはキリストのような偏愛とは異なるものであった。この世で確実に老いて朽ちていく運命にありながらも、生きていかねばならない。それは本当に嘆かわしいことだけれどそれすらも愛おしかった。心を取り戻し、真人間らしい依怙贔屓を覚えた。彼の空想の世界に住む聖者に憧れることもきっっぱりとやめた。誰に対しても平等にふりそそぐ隣人愛は、神のみがなせる絵空事であることにようやく気がついた。

 あたらしい世界で生きることを誓った日に、ようやく彼は、果物が内側から腐食していくような奇怪な青春の病から解放された。負った痛手は徐々に快方に向かっていった。そうして自身の罪を洗い清め、真っ先に己を赦した。


「今夜、私は、もう何時間も絨毯の上のレースのカーテンが泳ぐのを眺めながら眠れずにいます。ちょうど二ヶ月くらい前から不眠が続いているようですがよく覚えていません。舞が、開け放たれた窓から、毎夜毎夜この部屋にやってくるようです。舞は月明かりに照らされます。しばらくすると静かにまた夜の霧の中へと消えていきます。」

今、翔平は枕元のライトをつけて日記にこう走り書きを残し、ライトを消した。 
 すると開け放たれた窓から忍び込む夜風が、ひとひらの桜の花びらを翔平の枕元に運んだ。翔平はそれに気付かぬうちに程なくして深い眠りについた。 


月は西の空に傾いてもなお、輝いていた。風はいつしか止み、レースのカーテンは静寂と月明かりの中に沈んでいた。
冷え切った夜明け前の東の空に、一羽のカッコウが飛んでいくと、間も無く血のように真っ赤な太陽が地平線を染め始めた。そうしてしばらくすると、桜の木々は新緑の息吹を纏い、あたり一面が美しい緑の彩りを讃えていた。気がつけばもう春が終わっていたのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?