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愛は開放と孤独

 多くの人々が孤独に盲目に、得体のしれない不安や衝動を秩序化された結婚というものに依存することで逃れようとしてきた。生活の為に。愛すら受動的に。子へは欺瞞的な愛へと変貌し。愛の生成ではなく錯覚として。愛は呪縛ではない。しかし情動が愛を呪縛へと変容させる。親は敬うものという慣習を美徳化して。その結果、心を壊される子が大量に発生しているのに。壊されてない子も壊された子の多くも気づかずに大人なるものに安住し繰り返す。
 ポピュリズムな情報は恋を安易に結びつけようとさまざまな価値を垂れ流す。孤独や恋愛・結婚という煽動された衝動に付け込むようにである。そこに縋るように蠢き同調と錯覚をもとに恋愛をする。人なるものの多彩さが欠如したまま。妥協や寛容さがなければ、あっという間に失敗するもとがすでに組み込まれているようなものなのに。価値観が愛の多様性すら創造できるかのような錯誤である。多彩な愛の閉塞化を招いているのだ。個々人が必要とする愛の構築ができないのである。たしかにそれは不毛である。不毛であるがそこにしか愛の創造はできない。
 「世界は愛に包まれている」(物語ではない)。その愛を理解はできるがこの言葉を発した者にしかその愛をクオリアとして生じることはない。ただ、多彩な愛なのに、愛が一つであるかのような忽滑感に包まれたはずだ。世界と繋がってる感覚とともに死や孤独は和らぐ。精神が麻痺し消えることではない。しかし寂しさからの愛や結婚願望からの愛や孤独とは違う世界を得る。恋愛や慈愛を探求してたのではない。各自それぞれの探求の過程に愛が入り込むのだ。世界がそこにあるから。言葉にできない愛が。

幸福は他者に求めるものではない
そのうえで愛を創造せよ 愛し続ける覚悟も必要


 最後にエッチ大好きwww

追記:これらは20代中頃には考えてたことである。個人的にはほっとこということにしたことw。数十年経って結構酷いことにもなってるなということで書いてみたのね。


以下は書かないでおこうと思っていたのだが記す


人のせつなさが理解できない人の愛は気持ち悪い。

愛は個人的なものである。そうであるから相手の愛の有無やあり様が快楽や幸福の度合いに影響する。
相手の気持ちから「相手」が無い「気持ち」を大事にするというのが家族愛や社会的な愛など内集団バイアスからの愛である。内集団バイアスを暗黙に強要する愛でもある。同調圧力に使われている愛は欺瞞である。

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