多くの人々が孤独に盲目に、得体のしれない不安や衝動を秩序化された結婚というものに依存することで逃れようとしてきた。生活の為に。愛すら受動的に。子へは欺瞞的な愛へと変貌し。愛の生成ではなく錯覚として。愛は呪縛ではない。しかし情動が愛を呪縛へと変容させる。親は敬うものという慣習を美徳化して。その結果、心を壊される子が大量に発生しているのに。壊されてない子も壊された子の多くも気づかずに大人なるものに安住し繰り返す。 ポピュリズムな情報は恋を安易に結びつけようとさまざまな価値を垂
私(自分)らしくとは、「私らしい何かが存在することではない」。「周囲から強要された私らしさを捨てることに過ぎない」。「そして新たに私らしさを構築していく作業である」。場合によってはこの繰り返しになる。強要された私らしさなど存在してない人がいるのは拒否してペルソナとして利用してるだけだからである。
欺瞞な愛情しか知らない人が子供に愛を想像することを喪失させる。愛の喪失は弱者へのやさしさも欺瞞なものにし排除を平然と行う。社会的規範(そんな法律もなければ共通認識でもない)をもって社会的現実を喪失させ弱者に責任転嫁する思考にたやすく陥る。
慣習としてある精神安定とは精神麻痺のことにゃ。精神安定した大人など幻想にゃ。精神麻痺した人と落ち着きなんてない精神のコントロールをしている人がいるだけにゃん・・・Twitterじゃなくなんでここでつぶやく・・・なんとなく
裕福な人が困ってる人に投資をする。見返りなどどうでもいい華麗なパトロンのように。そんな社会がいいな。人は自己中なのに社会の役に立ってると錯覚してそうじゃないみたいなポジションに浸っていたくはないな。貧困を自己責任論で転嫁して役割を放棄するような政治家を生みだしてる社会に脳を依存させたくはない。どんな社会でも脳を依存させないけどね。 因みに投資という言葉を使ったのは、あまりにも投資という概念から支援しているということが抜け落ちているからである。また投資=投機としてしまって