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1年間のノルウェー生活で宿った考察 〜後編

前編に続き、福祉国家と言われる北欧の一国に住んでみて、私自身が感じ、得たことを主観たっぷりに綴る。

前編の主な内容〜
・福祉国家に身を置いたら自分がどう感じるか知りたかった。
・ノルウェーの福祉社会システムは優れているが、決して万能ではない。
・結果として築かれた北欧の福祉社会と、なぜそのように考えるようになったか。ある島のおじいちゃんを見て思ったこと。
・北欧の人々の目の前にある、自然環境という厳しい現実と、そこから生まれた「主張する」という文化。北欧が福祉国家たる背景を知れた気がする。

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自分を大切にして、生きたいように生きる

私がノルウェーに住んでみて意外に感じたのは、
「他人に対して優しいのか優しくないのかよくわからない、人との関係性」
があること。
(ノルウェーの友よ、こんな言い方してすまぬ、だけど外国人として感じたことを表現すると私の語彙力ではこういう感じになってしまうのだ。)

要は、社会としてあらゆる属性の人(移民・難民・障害者・LGBTQなどのマイノリティ)にオープンという点で、優しい。けれど、各々が自分を大切にして、自分の生きたいように生きている点では、他人に興味がないように見えて、なんか優しい感じがしない。

私は日本で生まれ育っているから、どうしても「おかげさま」の協力し合う精神を持っているし、他人に対する「思いやり」なんかの教育も受けちゃっているもんだから、この「自分のことを第一に考えている感じ」が、ちょっと不思議に、時に寂しく感じられた。

注意:
ノルウェーの人たちが「自分第一!」と意識して生活しているわけでは決してない。わかりにくいけれどこれはもう潜在意識レベルの話であり、ノルウェーの人々がいわゆる”ジコチュー”に生きているという意味ではない。
また、ノルウェーでは私のような外国人を気遣ってくれる友達も見知らぬ人もたくさんいたし、信仰上の精神に基づいて社会的弱者を支援する活動を行なっている人もたくさんいる。

究極的には、地球上のすべての人間が自分の幸せを追求して、自分の生きたいように生きられれば、この世界は平和なのだと思う。互いに干渉し判断し始めるから、いさかいや争いに発展し、不幸が生まれる。(理論上はね。)

そういう意味で、ノルウェー社会は、高度に精神的に健全な社会なのだと思う。
よそはよそ。わたしはわたし。

一方で、ノルウェーは重大なメンタルヘルス問題も抱えている。
↓ノルウェーがどれほど真剣にメンタルヘルス問題に取り組んでいるか
、という話。
https://note.com/asnoopy/n/n4022fd54e73d

ものすごく正直に言うと、ノルウェーでは人とつながり切れない感覚があった。心と心でつながれないというか、お互いに心が開き切らないというか、なんというか。

コロナ禍の社会の閉塞感、シャイだっただけ、私が出会わなかっただけ、出会った人の数が少なかっただけ、タイミングの問題…いろんな要因があるけれど。

「わたしはわたし。」

人からそんな一線を引かれてしまうと、それ以上その人との関係に踏み込みにくい雰囲気があることは否定できない。

逆にノルウェーにいる外国人と接していると、つながれない感覚はそれほどなかったので、育った環境や文化が大きいのかなと思った。ただ、それも私が外国人としてノルウェーに滞在していたからに過ぎない、という可能性はある。

みんなが自分として生きることに集中できていて、かつ幸福感に満ち溢れているなら、そんな社会は最高だと思う。

けれど同時に、ノルウェーには「人が他人とつながれない孤独で苦しんでいる」事実もありそうだ。孤独を感じて苦しんでいる人がこの国にたくさんいるのだとすれば、私がノルウェーで暮らして感じた”つながり切れない感覚”も、あながち間違ってはいないんだろう。

人々が自分と自分の人生を大切にして、最大限自分の生きたいように生きる。ノルウェーでは、その権利に対して、他人がとやかく言うことは基本的にない。
あなたはあなたの思うように好きにやったらいい。そんな許容の眼差しはまた、他人に対して優しい感じもする。

私にはそういう感覚があって、「他人に対して優しいのか優しくないのかよくわからない関係性がある」という表現をしている。

なぜ他人に対する許容度が高いのか?

ノルウェーにいる人々の優しさと、他人とちょっと距離を取る感じにつながり切れない感覚を覚えながらも、なぜ人がここまで他人に干渉しないで自由にいられるのか、考えてみた。

おそらく、個人レベルでの抑圧が、日本に比べると圧倒的に少ないのだろうと思う。
(もっともコロナ禍においては、ノルウェーでも、マスクをしていない人に注意するなど、風紀委員のような、少しお節介な人も増えたかもしれない。)

人は、自分が我慢していることを他人がやっていると、自然と、無意識に否定したくなる。
抑圧は病気や依存症といった自分への攻撃になることもあれば、いじめ・モラハラ・セクハラ・ネグレクト・DV…など、様々な形で人間関係に投影されることもある。

ノルウェーにも間違いなくそれらの問題はあるけれど、やはり「わたしはわたし」の文化がベースにあるので、日本と比べると、家族などの親近者を含めた他人からの干渉、その干渉から感じるストレスは少ないように感じた。

だからと言って「どこが・何が1番!」はない

ノルウェーが良いとも、日本が良いとも言えないし、きっとどこに住んだとしても、それなりの満足感と、それなりの不満が出てくる。

だからと言って、社会を放棄して山の中に独り生活するのも違う。そうするには、私は人間に興味がありすぎる。

どんな社会でも時代でも、誰もがその瞬間を精一杯に生きているということ。そこを尊重せずして、(私の願う)豊かな社会は成り立たないのだろう。

かつての私は
「なぜもっとこうしないのだろう?」
「もっとできるはずなのに」
と、自分に対しても人に対しても、もどかしさを感じ、憤っていた。その憤りを、日々の原動力にしてしまっていたかもしれない。

今なら、そこに自分を満たせていない抑圧があるとわかる。
私には、自分も何かに挑戦できる!という自己肯定感はあっても、失敗を含めどんな自分もOK!という自己受容感がまったくなかった。

いくら未来を心配しても、自分ではない誰かのことを不安に思っても、たった今自分にできることは、より良い未来・より良く生きる自分を目指してこの一瞬一瞬を、精一杯に生きること。

みんながそれぞれに、そんなふうに自分を大切にしながら生きられたら、社会は必ず今よりも生きやすい方向に変わっていくのだろう。
そしてそれは、自分が生きている間とも限らない。

ノルウェーに行って、何者でもない自分になれたとき、自分の何もなさに恐れおののきながらも、自分を見つめ、社会を眺めることができた。

こうして揺らぎ、流れ、宿った自分なりの考察に、この1年があったことの納得感を感じつつ、とても満足している。

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最後に

最初に書いた通り、今回は私が感じたことを敢えて主観たっぷりに書き残している。私がたった1年で感じたことなど、私以外の誰にとっての真実でもない。

だから欲を言えば、もっともっとノルウェーを見てみたかった。もっとたくさんの人に会ってみたかった。障害者施設や特別支援学校といった福祉の現場にもっと入って、自分にできることをしながら現場を見てみたかった。もっとノルウェー語を話す機会をつくって、上手くなりたかった。地元の人に編み物を習ってみたかった。他の北欧諸国やヨーロッパの国を訪ねたかった。

コロナ禍でどんな挑戦もしづらかった点は大きい。
けど、この1年の私に必要だったのは、自分の外側の世界を広げること以上に、自分の内側を観察するという挑戦だったのだと思う。

そんなふうに、自分が比較的閉じたタイミングであっても、幸運にもノルウェーでこの先の人生でもつながり続けたい人たちに出会うことができ、彼らの眼差しを通して、私も一緒にノルウェーや日本、自分自身を観察することができた。

彼らに対し、私の疑問や思いを日々表現することができなければ、今 私がこのような考察を得ることもなかった。

言葉では言い表せないくらい、幸せなことである。
みんな、本当にありがとう。

この場を使って、ノルウェーを通じて出会えた全ての人に感謝したい。
そして、あの地でそれぞれの覚悟を持って、たくましく生きている友たちにありったけのエールを送る。

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