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【編集後記】朱和之『南光』中村加代子訳〈アジア文芸ライブラリー〉

「日本で一番高い山ってどこだと思いますか?」

わたしの恩師のひとりである東洋史の先生は、学期の授業のはじまりに、こんな質問を投げかけて学生たちをキョトンとさせていました。

ああ、あれのことね、とすぐにピンときた方もいらっしゃるかと思いますが、「富士山」以外の答えを思いつかない方は、ぜひこの本を読んで答えを探してみてください。

朱和之『南光』中村加代子訳、アジア文芸ライブラリー

朱和之『南光』について

アジア文芸ライブラリーの第二作目として、朱和之しゅわし南光なんこう』(中村加代子訳)が5月15日に発売されました。

この作品は鄧騰煇とうとうき(1908–1972、愛称は「南光」)という実在の人物をモデルとしてその生涯を描いた小説です。南光は当時日本統治下にあった台湾の、山あいの町で裕福な客家の商家の三男として生まれます。旧制中学から東京に内地留学をし、中学時代にはじめて自分のカメラを手に入れ、進学先の法政大学ではカメラ部に所属。そこででライカのレンジファインダーカメラと出会い、写真家の道を歩み始めます。在学中から『月刊ライカ』や『カメラ』誌に入選を果たしました。

大学卒業後、台湾に戻ってからは写真機材店を営みながら写真を撮り続けますが、やがて戦争によって統制が厳しくなると、総督府の登録写真家として撮影を続けました。戦争が終わっても、今度は国民党政権下で厳しい政治的弾圧が行われ、自由に写真を撮ることも許されませんでした。こうした厳しい時代の中でも南光は、独自の視点で街並みや人々(特に接待を伴う飲食店の女性)、風俗などを撮影し続けました。

作品では、数々のクラシックカメラが登場してそれだけでもカメラ好きにはたまらないのですが、芸術家の生涯や写真への情熱や哲学だけではなく、客家ハッカの家族のこと、宗教儀礼と信仰、それになにより台湾の近現代の歴史のなかで人々が経験したことが、一つの小さな人生の視点で描かれています。読みどころがたくさんあって、わたしも原稿を読みながら、自分の仕事を忘れて夢中になってしまうことが何度もありました。

本書の企画を出すにあたって、台湾から鄧南光の写真集を取り寄せて観ていたのですが、女性の写真がとにかく美しい。それは女性の顔かたちが美しいとかじゃなくて、むしろ容貌にあらわれないその人の魅力までまるごと写し取っているかのような美しさでありました。それに東京や日本統治時代の台湾の写真も、歴史を感じ取ることができて、観ていて飽きなかったです。

カフェの女性 (©鄧南光 不許複製・無断転載)
台北第一高等女学校の生徒たちによる行進(©鄧南光 不許複製・無断転載)

美術家の奈良美智さんも、南光さんの写真のファンなんだとか。


作品の背景と著者について

しかしながら、49年から87年まで戒厳令が続いた台湾では、彼の写真が正当に評価されることもなく、近年再評価が進むまでは忘れ去られた存在でした。それに彼についての文字資料はほとんど残っていないため、この作品は彼が残した写真をもとに作者の想像力でひとりの生涯を想像したものです。

本書には巻末に南光さんによる写真12点が収録されていますので、作品を読んだ後に写真を鑑賞すると、いっそう楽しめますよ。

著者の朱和之は台湾における歴史小説の名手で、本作以外にも数々の歴史小説を手掛けている多作な作家です。おなじ〈アジア文芸ライブラリー〉では、日本統治下台湾に生まれて、中国に渡って活動した音楽家の波乱に充ちた生涯を描いた《風神的玩笑》が2024年に刊行される予定です。今後も一層の活躍が期待される作家です。

日本語版刊行にあたって

アジアの文学に特化したシリーズを作ろう、と思い立ったきっかけの一つがTBSラジオ「荻上チキ・Session」の台湾文学特集であった、ということは前に書いた通りです。台湾文学を日本に紹介するユニット「太台本屋 tai-tai books」の方が出演されていたのですが、ウェブサイトには版権を紹介中の書籍がたくさん紹介されています。そのなかにあったのが、この一冊でした。

わたしの祖父も父もカメラが好きで、その影響か、わたしも若い頃からフィルムカメラを首から提げて世界中を旅しました。そんなわけで、ライカを愛した写真家の生涯を描いた小説、というだけで興味を惹くには充分でした。それに芸術家の生涯から台湾の歴史が描かれた作品ということですから、アジアの歴史や文化を考えるシリーズ〈アジア文芸ライブラリー〉にはうってつけの作品です。

翻訳は太台本屋 tai-tai booksの一員である中村加代子さんにお願いしました。中村さんの翻訳は、一言一句を丁寧に選んでいることがよく分かる清澄な日本語で、翻訳っぽさがほとんどない、とても読みやすい文章です。写真用語や歴史、宗教に関することなど、調べながら翻訳するのは大変なご苦労だったと思いますが、そんな難しさも感じさせないくらい綺麗な文章ですし、日本の読者のために付けた訳註も非常に充実していますし、訳者あとがきでは本書の背景や台湾の歴史が詳細に解説されていて、作品世界の理解を大いに助けてくれるでしょう。あとがきは春秋社のウェブマガジン「web春秋 はるとあき」で全文が公開されています。

装画は柳智之さんに描いていただきました。実は4種8枚の絵を描いていただいたなかで、この1枚を使うことになったのですが、それでは使わなかった絵があまりにもったいない……と思い、柳さんにお願いして使わなかった絵のうち2枚を巻末に収録させていただき、また宣伝目的で使用させていただく許諾をいただきました。実在するライカの名機を、柳さんのイラストで楽しめるのは本当に嬉しい。電子版ではカラーでお楽しみいただけます。

本書収録の柳智之さんのイラスト

現在、神保町にある東京堂書店の2階(旧カフェスペース)では本書の刊行を記念したパネル展示をしています。本書に収録した写真以外にも、南光さんの撮った写真の数々と、柳さんのイラストが展示されていますので、ぜひどうぞ。

悲しい話やつらい話が多い〈アジア文芸ライブラリー〉ですが、本作はそのなかでは珍しく安心して読める作品です。読み物としてとても面白いし、日本統治時代やその後の台湾のことを知るきっかけとしても最適の一冊です。

注意:この記事でご紹介した鄧南光による写真は、南光氏の関係者の方より本書の販促目的でご提供いただきました。無断での転載、複製は禁止します。

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