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【編集後記】ヴァネッサ・チャン『わたしたちが起こした嵐』品川亮訳

アジア文芸ライブラリーの3作目として、ヴァネッサ・チャン著、品川亮訳『わたしたちが起こした嵐』が6月27日に発売されました。

作品について

この作品は2024年1月にアメリカのMarysue Rucci Books(Simon & Schuster)、イギリスのHodder & Stoughtonから発売されたVanessa Chan, The Storm We Madeの日本語訳です。

舞台となったのはイギリス植民地時代と日本占領下のマレーシア。当時はマラヤと呼ばれていました。主人公となるのはユーラシア系(ヨーロッパにルーツを持つ現地との混血)の主婦セシリーと、その子どもたち。イギリス植民地時代に日本軍のスパイ・フジワラに惹かれ、彼の唱える「アジア人のためのアジア」という理想に共感して間諜行為に協力する1930年代のタイムラインと、日本占領下で子どもたちに数々の悲劇が訪れる1940年代を往復しながらストーリーが語られます。

著者はマレーシア出身の華人で、現在はアメリカ合衆国在住。本作がデビュー作で、来年には短編集The Ugliest Babies in the Worldが発売される予定です。

作品との出会い

この作品は発売前から欧米やマレーシアで話題となり、アメリカではオークションにより高額なアドバンスで版権が売られました。すでに20カ国以上で刊行が決定しており、版権取得は日本は18ヶ国目でした。

アジアに特化した海外文学のシリーズを立ち上げたい、と版権エージェントの方に相談したときに紹介していただいたのがこの作品でした。日本の戦争犯罪に触れているから難しいかもしれないと言われ、察するに他の出版社にも持ちかけたけどあまり好意的に受け止められなかったような物言いでした…。

この段階では完成原稿ではなく、編集されていない原稿を検討用に送っていただいたのですが、まだ比較的余裕があった頃で、自分で読む余裕がありました。

作品の魅力

読んでみると、なんうか歴史的にはツッコミを入れたくなるところは山ほどあるんだけど、戦争の語り方として新鮮だな、というのが第一印象でした。なんというか歴史的にはツッコミを入れたくなるところは山ほどあるんだけど、おそらく近年の映像コンテンツ(というか、Netflixとかのドラマ)の文法を意識して文学に採り入れているようで、手に汗握る、息もつかせぬ展開というのがぴったりのストーリー。

それから男性目線で語られてきた戦争のストーリーに挑戦するように、もし歴史を影で動かしていた女性がいたとしたら、というテーマ設定もなかなか良い着眼点だなと思いました。というのは、当時の時代背景からしてケア労働を割り当てられた女性と家族の関係が密接な訳で……これ以上言うとネタバレになるからやめておきましょう。男性主体の戦争の語り方でであれば、このような展開は生まれなかったであろうと。

著者による前書きに書かれているとおり、戦争を経験した著者の祖父母たちは、日本占領時代についてはほとんどなにも語らなかったといいます。少しずつ垣間見た戦争の記憶から、戦争の歴史を再構成してみたらどうなるだろう、という実験が、この作品だったのだと思います。実際、歴史的な考証はほとんどなされていないようで、おいおいそれはないでしょ、と思う箇所も多々あったんですが、それにしてもこういう作品が今、書かれて受け入れられていることの意味を、わたしたちは考えるべきなんだろうなと思ってアジア文芸ライブラリーに収録することを決めました。

日本での出版のこと

著者は日本での出版を望んでおり、エージェントの方は精力的に売り込んだようですが、おそらく日本軍の戦争犯罪を(歴史的には正しくないかたちで)描いていることから、日本の出版社は後ろ向きだったようです。

版権をオファー(取得の条件提示)するにあたり、(無名の出版社がオファーするわけなので、)この作品をどう位置づけているのか教えてほしい、と言われ、わたしは拙い英語で(謙遜ではない)自分で感想を書いて送りました。そうしたら著者が大喜びしてすぐにTwitterで紹介してくれ、そんなに良い条件じゃなかったと思うんですが快諾していただきました…。それくらい日本での出版を著者は喜んでいるようです。

本国での出版時のインタビューでも、日本版の出版については時折言及されていました(だいぶ脚色されているようでしたが…)。興味があれば探してみてください。

本作をどう読むべきか

とはいえ、歴史的には正しくない部分もありますからどう扱うかを結構悩んだのは事実です。日本では歴史小説というと、結構厳密な考証に基づいて、資料に現れない部分を作家の想像力で補うということが一般的だと思いますが、海外では日本のような厳密な考証が行われない場合が結構あります(考証どころか、物語の辻褄が合ってない場合も結構ありますから)。

たとえば本作について言えば、慰安婦となった少女があまりに幼い年齢であることとか、すでに1945年時点では完成していたはずの鉄道の建設に徴用されるとか、歴史的な時系列がごっちゃになっていることとか、この時点でこれはあり得ないだろうとか(詳しくはネタバレになるので言及しません)…。著者に相談して変更を加えようかとも思いましたが、多少翻訳で工夫する箇所はあったものの全て原書のまま出版することに決めました。

強調しておきたいのは、この作品は歴史の記憶をもとにサスペンスタッチで再構成したフィクションであって、数々の記憶された歴史をフィクションという形態に落とし込むにあたって生じた史実との差異はあるものの、作品から受け取るべきメッセージはそのような部分にあるのではない、ということです。気になる部分は大いにありますが、それを差し引いても日本の読者に紹介する価値があると思ったので、アジア文芸ライブラリーの収録作として決めた訳です。

なおかつ、本作に描かれているような歴史観(あまりに幼い少女への性的搾取や、現地住民のスパイ行為への協力など)というのは本作だけに見られる間違いばかりではなく、東南アジアの作品を読んでいると多かれ少なかれ散見されます。その意味では、おそらく本作は通俗的な歴史観に依拠した部分もあり、それはそれでわたしたちがそれらとどのように向き合うべきかが問題になるであろうとも思っていますし、そうした語りが生まれている背景にも思いを馳せる必要があるだろうと思います。また、日本軍の戦争犯罪をかなりどぎつく描いているものの、アジアの独立やヨーロッパ人による植民地支配といった観点からは、かなりフェアな立場から描かれているという印象を受けます。

史実との差異、そして記憶の物語として本作をどう読むべきか、ということは、日本占領期の東南アジア史がご専門の松岡昌和さんに解説を書いていただきました。とても読み応えのある解説ですのでぜひともお読みいただきたいです。

翻訳は品川亮さんにお願いしました。品川さんは文筆、映画、翻訳、編集など多彩なフィールドで活動されおり、わたしは2017年の著書『〈帰国子女〉という日本人』ではじめて品川さんの作品に触れました。タイトルから想像されるような「帰国子女」について分析したのではなくて、逆に、日本のローカルルールに従わない、異質な人を「帰国子女」として処理してしまおうとする日本社会の側に目を向けた本です。言語社会にたいする鋭い視線と端正な筆致は、本作の訳文にも遺憾なく現れていると思います。

一般にはどう受け止められるかは分からないけれど、個人的にはとても気に入っている作品です。ご興味がありましたらぜひお読みください。


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