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翻訳書ができるまで② 翻訳出版の契約と編集、そして読者のもとに届くまで

さて、前回にひきつづき、翻訳書ができるまでにどういう仕事を出版社の編集者が行っているのかを、ご紹介します。翻訳書以外の本(主に人文書)ができるまでは、先日ご紹介しました。

また、前提知識として「版権エージェント」「出版エージェント」という仕事があることを、前回ご紹介したので、未読の方はまずこちらをお読み下さい。

翻訳書ができるまでのおおまかな流れは、翻訳以外の本と大きく変わるわけではありません。ただし、版権(翻訳権)の取得という手続きが含まれることに大きな違いがあり、その契約によって色々な差異が出てくる部分もあります。状況により手続きは多様なのですが、まずは、一般的なというか、わたしの周りでどのようにしているのかをご紹介します。

1.企画

通常の本の企画といえば、誰にどんなことを書いてもらうかを考えるのですが、翻訳書の場合は、どの本を、誰に訳してもらうかを決めることになります。つまり作品と翻訳者の選定をするわけです。これにはいくつかのルートがあります。

a. 編集者が作品を選び、翻訳を依頼する

編集者がネットで情報収集したり、海外出版社のカタログを見たりしてこの本を出したい、と思ったとします。

まずはエージェントに連絡をして、その本の翻訳権が空いているかどうかを問い合わせます。これをリクエスト(版権照会)といいます。前回、カズオ・イシグロの本を例に紹介した通りですね。どのエージェントに問い合わせるかをまず調べるのですが、原著者が過去に日本で邦訳出版されていれば、その本の仲介をしたエージェントに連絡します。そうでなければネットで現地エージェントを調べて、そこと取引のある日本のエージェントを探してみたり、適当に当たりを付けて聞いてみます(うちでは取引がないので別の社にお願いしますと言われることもあります)。

リクエストは同時に検討用の見本(リーディングコピー)を請求することになります。版権が空いていれば見本を送ってくれます。昔は実際に本が送られてきたのですが、いまはPDFであることがほとんどです。

この見本を、編集者自身が読むことはあまりありません……いや、読む編集者もいるし、そういう出版社もあります。しかし多くの場合は外注します。リーディングというのですが、翻訳家志望の人などに渡して、あらすじや感想をまとめたシノプシス(レジュメ)にしてもらいます。

余談ですがリーディングもなかなか搾取的なところがあって、報酬が3万円出れば良い方で、5000円とか、無償という場合もあるらしいです。納期は10日から2週間程度が一般的ですがたまに3日で読まされるという話も聞いたことがあります。翻訳者にとってはリーディングがキャリア形成のステップにもなるし、作品を読んで的確にまとめるスキルは重要で、それを養う機会が貴重ということで安くても引き受けられるでしょう。あまり書くと怒られそうですが、なんというか……。

さて、このレジュメをもとに出版するかどうかを判断し、出版する場合は翻訳を誰に頼むか決めて、依頼します。翻訳者もそれぞれに関心や得意分野があるし、翻訳の特性や過去の経歴などを考慮して適任を探すことが大事です。

b. 翻訳者からの紹介

翻訳者に作品を選定してもらう場合もあります。すでに付き合いのある翻訳者からこの作品を翻訳したいと相談される場合もあれば、編集者が翻訳者になにか良い作品はないですかと問い合わせる場合もあります。その場合も内容をプレゼンしてもらったりレジュメを作ってもらったりして、版権が空いているかを問い合わせ、作品を刊行するかどうかを決め、会社の会議に諮ります。

c. エージェントからの紹介

日本のエージェントから、こんな作品ありますよと紹介される場合もあります。前回書いた通り、エージェントは編集者の関心や出版社のラインナップを把握して、適切な作品を紹介するのが仕事のひとつです。エージェントが送ってくれる資料は簡単な英文のチラシPDFだけの場合もあれば、エージェントで(誰かにリーディングを依頼して)レジュメを作って送ってくれる場合もあります。いいかなと思えば見本を請求して検討し、翻訳者を決めます。

d. 持ち込み、その他

翻訳は出版社への持ち込みが結構多いです。この場合の持ち込みというのは、翻訳家の方が、この本を翻訳出版したいのだけどお宅で出しませんかと連絡することです。この場合は翻訳者が自分でレジュメを作って送ることになります。

それから編集者と付き合いのある書き手や翻訳者を経由して、別の翻訳者や作品を紹介してくれる場合もあります。翻訳スクールと付き合いがあってそこから企画が到来する場合もあるみたいです。

2. 版権取得

刊行することが決まった段階で、今度は翻訳権を取得する手続きに入ります。こういう条件で版権を取得したいです、という連絡をエージェントにします。これをオファーといいます。

前回、印税は日本では実売部数制か発行部数制、欧米ではアドバンス制という話をしました。日本でも翻訳出版にかんしてはアドバンス制が取られています。つまりオファーの際には、アドバンスがxxxドル、印税率はx%、という条件を提示するのです。

ちなみに原著者の印税率は6~8%(or6~9%)で、部数に応じて上がる契約になることが多いです。だいたい初刷の倍の数くらいで上がるのが一般的でしょうか。初刷2,500部なら、5,000部まで6%、5,001~10,000部まで7%、10,001部以上8%ということです。

オファー時のアドバンスの相場は初刷り印税の6~8割くらいです。2,000円で初刷2,500部で出版する予定なら、2,000×2,500×6%=30万円ですから、その6~8割といえば18~24万円相当の外貨でオファーします。いまの為替相場でいうと2000ドルくらいでしょうか。

版権取得の交渉

日本側エージェントは心強いパートナーでありますが、印税の一部が手数料として収入になるわけですから、お金に関しての交渉も行います。出版社としてはなるべくアドバンスを低く済ませたいのですが、あまり安いと定価と部数はどれくらいですか、と突っ込みを入れてくる場合があります。その部数ならアドバンスはこれくらいが相場ではないですか、とか、その部数なら印税率の刻みは3000部にしてもらえませんかとか、そういう要求が入ることもあります。それは必ずしもお金のためだけではなくて、原著者の権利を守るためであります。

さて、円安になればドル建ての額面はだいぶ少なくなりますから、相手にとってはそんな安いアドバンスでは版権を渡したくないということになりますよね。自分の書いた本がそんなに売れないと思われているのかと、馬鹿にされた気になるかもしれません。だから円安は翻訳出版にとってはかなりの痛手なんです。逆に円高なら同じ定価・部数でも3000ドルとかでオファーできますから、簡単に版権取得できるわけです。

問題は同じ作品を邦訳出版したい出版社が複数あった場合です。翻訳出版は基本的には独占契約ですから、版権を取得できるのは1社だけです。競合した場合は、基本的にはより良い条件を出した側が取得できる訳です(他にも、その出版社の知名度や、作品をどのように刊行してくれるか等も考慮されますが)。エージェントとしてもできるだけ多くの編集者に検討してもらって、良い条件で出してくれる出版社を探すのです。オファーが複数来れば、競わせて条件を上げてもらうことができます。ここでもアドバンスの額がものを言う訳です。そう、世の中は結局カネなのです。

したがって、わたしの所属先のような弱小が大手出版社と競合しても、多くの場合は勝てません。長く商売していると前作を出した出版社にオプション(優先交渉権)が設定されることがあるので、若くて将来有望な書き手の作品を早い段階で見つけて出しておくと、将来交渉が有利になります。早川書房や東京創元社などは、そうして長く続けているからこそ、あれほどのブランドを築くことができたのでしょう。続けるって大事です。続けていればそのうちラインナップの中からノーベル文学賞も出るかもしれないですし(その頃に版権が切れていなければよいのですが)。

たとえ競合がなかったとしても、相手が著名な作者・作品であればアドバンスが安すぎると文句を付けられる場合もあります。特に大きな賞を受賞したらアドバンスの期待値も上がります。BTSが読んでいる本とかも、アドバンスは高額になります。したがって話題になる前に、早い段階で良い作品に目を付けておきたいのですが(原書刊行前の原稿段階ですでにエージェントからの売り込みは行われます。原書刊行前に原稿が読めるのは役得ですね。)、売れ筋を見つける目を持っている編集者は稀です。そしてどんなに良い作品だからって、かならずしも売れる訳でもないのです。出版が水商売だと言われるゆえんです。

エージェントを介さない契約もある

ここまで、翻訳出版においてはエージェントが重要であるような書き方をしてきました(実際に本当に重要です)が、エージェントを介さないで契約する場合もあります。

ひとつは出版社の内部に著作権管理部門があって(ライツマネジメント部とか法務部とか言われます)、そこが現地エージェントや権利者と直接やりとりをする場合。エージェントに手数料を払わないので良い条件で取引ができます。しかし税務関係も全て自社で手続きをしなければならないので、結構な手間が発生します。部門があっても、エージェント経由で連絡しろと相手に言われる場合もありますが。

自社に管理部門がなくても、編集者が直接権利者とやりとりをして契約をする場合もあります。学術書は出版社が権利を持っていることが多いので、出版社同士で直接やりとりをします。当然外国語ができなければいけないし、契約書も外国語で作成する必要があります(会社がひな形を作っているとはいえ)。

現地エージェントによっては、日本側エージェントを通さずに直接出版社とのやりとりを希望する場合もあります。また、エージェントを付けない著者もいます(欧米以外ではエージェントを介さない場合が多いと、前回書きました)が、その場合は日本側エージェントに間に入ってもらって契約を手伝ってもらうか、それとも自社で直接やりとりをするかになります。後者の場合、翻訳者に手伝ってもらうことがあります。翻訳者には頭が下がります……。

その本、どうやって契約されたの?

ちょっとマニアックな話になりますので、興味がない方は次の節まで読み飛ばしてほしいのですが……、契約がどのようなルートで行われたかは、著作権表示を見ればある程度わかります。いまわたしの手元にある、ベルンハルト・シュリンク『帰郷者』(松永美穂訳、新潮クレストブックス、2008年)にはこのような著作権表示がしてあります。

DIE HEIMKEHR
by
Bernhard Schlink
Copyright ©2006 by Diogenes Verlag AG Zurich
Japanese translation rights arranged with Diogenes Verlag AG
through Japan UNI Agency, Inc., Tokyo.

最初の「DIE HEIMKEHR by Bernhard Schlink」は原タイトルと原著者表記です。つぎのCopyright以下は著作権者の表示。この場合、著者のシュリンク氏はチューリッヒの「Diogenes Verlag AG」というエージェンシーに著作権を委ねる契約をしているようです。契約によって著作権を原著者が保持している場合は、ここが原著者名になります。
次の「Japanese translation rights arranged with~」は、契約を誰が仲介したか、ここではシュリンクのエージェンシーである「Diogenes Verlag AG」が表示されています。著者にエージェントがついていなければ、「arranged with the author(著者)」等になります。
「through~」以下では、契約を仲介した日本側エージェントが日本ユニ・エージェンシーであることがわかります。日本のエージェントを介さなければ、この表示はありません。

この表示は概ね裏か奥付にあります。ない場合は、契約書に著作権表示せよという条項が含まれていないことになりますが、エージェントを介したらほぼ必ずこの条文が含まれるので、おそらくは権利者と出版社が直接契約をしたのでしょう。

3. 編集

編集から出版にいたるプロセスも、概ね日本語で書かれたものとあまり変わりません。書き手の執筆をサポートするように、編集者が翻訳家の翻訳をサポートします。書き方が特殊な場合はどのように翻訳するか、注の入れ方をどうするかとか、どういう文体で訳するかとか、相談しながら翻訳を進めてもらいます。訳の進め方は結構翻訳家によって異なるので、ベテランで信頼があればあまり口出しせずにお任せで訳してもらう場合もありますし、細かく打ち合わせしながら訳してもらう場合もあります。

翻訳のむずかしさ

(余談ですが)それにしても翻訳というのは世の中で正しく認知されていない職業で、言語ができれば翻訳ができると思われている節があります。全然そんなことはないのですが……。専門書であれば、たとえば哲学ではそれぞれに特殊に定義された言葉があり、どのように解釈すべきかという研究の蓄積があるので、専門知識がなければ翻訳できません。それはまだ納得いただけますよね。

小説でも翻訳はとても難しい。たとえばI am a cat.という1文があったとして、これは「私は猫です」「俺、ネコなんだけど」「僕、ねこなんだ」「あたし、ネコ」など様々あるでしょう。物語を読み込み、そのネコのキャラクターに合わせて適切な一人称を選び、文体を選び、語彙を選択し、文章を解釈していく必要があります。I am a cat(とうぜんお分かりとは思いますが漱石の『吾輩は猫である』の冒頭)は、鴻巣友季子さんが対談集『翻訳問答2 創作のヒミツ』のなかで奥泉光さんと実際に訳出して、対談されていますので、興味があれば読んでみてください。面白いですよ。

この問題にかんして、『かくも甘き果実』を訳された吉田恭子さんが、今年の表象文化論学会で印象深いことを言っていました。記憶を頼りに書いてみますと、

『かくも甘き果実』は小泉八雲/ラフカディオ・ハーンが主人公で、八雲をとりまく3人の女性の視点で描かれています。ハーンの母と、ハーンを愛したふたりの女です。その3人目というのが八雲の日本での妻、小泉セツなんですが、ここではセツが墓にいる八雲に語りかけるというかたちで書かれているんです。
この小説の作者は、モニク・トゥルンという、ベトナム出身でアメリカに戦争難民として渡った人です。
八雲とセツは「パパさま」「ママさん」と呼び合っていたのですが、これを訳するときに、ベトナムという文脈では「パパさま」「ママさん」という言葉は使えません。それはアジアのサービス業の女性が、アメリカの軍人や軍属にたいして使う言葉だからです。
だからここでは、セツは墓の中の八雲にたいして、「八雲」と語りかけます。「パパさま」と「八雲」では、ふたりの関係は違ってきますよね。翻訳っていうのは、セツが八雲に「八雲、」と語りかける、そういう言語世界を作っていく作業なのだと思います。

たんに両方の言葉が分かって、文学に親しんでいれば翻訳ができる訳ではなく、知識も、調べる能力も、様々な文体を使い分ける表現力も、著者が日本語で書いたらどうなるだろうかという想像力も、細部を結びつける論理的思考力も必要で、専門の訓練、というか修行をしていないと翻訳はできないのです。

ノンフィクションなら小説より簡単かと言えば、ぜんぜんそんなことはありません。求められる性質が違うだけです。特に英語圏のノンフィクションはそもそもの構成の仕方が日本とは違い、独特のレトリックがあるのでそれを日本の読者に読みやすく訳出することは簡単ではありませんし、事実だからこそごまかしがきかないので、書き手と同じくらいの知識をもって(なければリサーチして)翻訳にあたらないといけません。翻訳は、自分でオリジナルなものを書くよりも難しい部分があります。小説を書くなら、自分が知っていること、自分が書けることしか書きませんし書けません。しかし翻訳は、自分が知らないこと、書けないことも翻訳して書かなければならないのです。

それなのに翻訳者の印税は、正直どうやって生活できるのか分からないくらい安いですし(原著者にも翻訳者にも払わないといけないので、出版社としても非常に心苦しいけどなかなか上げられません)、世の中からは言葉ができれば翻訳ができると思われている、有閑な主婦の副業程度に考えられていることさえあります。書籍全体の売上が落ち込んでいますが、翻訳書はそのなかでも厳しいです。

売れる本を訳せばいいと思われる人もいるでしょう。でもわたしは思います。多くは売れなくても、その国の文化のなかで人々が苦悩しながら紡いできた文学を、違う国のわたしたちが読めるように翻訳する、そこには重要な価値がある。日本は明治時代から盛んに翻訳を行ってきた歴史があって、他の国と比べても翻訳出版が盛んです。遠い異国の言葉で書かれたものを、母語で読めることは非常に貴重なことなのです

その灯が消えてしまわないように、という思いでこんなことを長々と書いてしまいました。さて、話を戻しましょう。

翻訳出版の特性

翻訳出版で特殊な事情のひとつが、刊行期限と出版期限が定められていることです。

刊行期限は契約から24ヶ月とか、18ヶ月であることが多いです。契約からその期間中に出さないと契約違反になるのです。いくらか追加でアドバンスを払えば待ってくれる場合もありますが、出さないと契約解除という厳しい措置が取られる場合もあります。当然、支払ったアドバンスは返ってきません。

もうひとつは契約期間が5年とか、7年と定められています。7年なら、その期間は印税報告をして支払いをする限り、自由に重版して販売することができます。期間中に印刷した本は終了後も販売できますが、増刷はできないので、在庫が尽きたらそれで終わりです。しかし契約が7年でも、契約日から出版までに2年掛かってしまうと、実質的に契約期間は5年しか残らないということです。

したがって出版社としては、なるべく契約を遅くしたいのです。理想としては翻訳原稿が完成した状況で契約をするというのがベストですが、そんな上手い話はそうそうありません。契約しなければ、他社に版権を取られてしまう恐れもありますし…。

学術書なんかでは、翻訳に時間が掛かるので2年ではとても出版できませんから、とりわけ契約のタイミングは悩みどころです。翻訳を進めているうちに、他社に版権を取られてしまったという話も何度か聞いたことがあります。

契約期間の7年が満了したら、契約を終了するか、契約期間延長するかを決めます。長く売れるなら延長しますし、売れそうになければ終了します。延長の場合はまた改めてアドバンスを支払う必要があります。紙版の契約が終了すれば、電子版も販売できなくなることがほとんどです。

なぜ海外文学は品切が多いのか?

さて、ちょっと前に出た海外文学の小説が、新刊では手に入らなくて困ったことがありませんか? (俗に「絶版」と言われるそれが、「絶版」ではなく「品切」だという話は以前書きました。)その本は、売れ行きがあまり好調ではなくて契約を終了してしまって、重版できないという状況である可能性が濃厚です。つい5年ほど前に出た本でも、契約期間5年ならばすでに契約が切れている可能性があります。(なお、出版社にとっては版権が切れていてもまた契約すれば出せるじゃんということでこれも「絶版」ではなく「品切重版未定」扱いになります。)

出版社にとって契約期間延長というのは結構ハードルが高いのです。日本の出版慣行では(日本語で書かれたものなら)、出版契約は期間が定められていてもどっちから解除を申し出ない限り自動更新になることが多いので、事実上無期限の契約みたいなものです。そうすると要望があって売れそうであればいつでも重版できます。しかし翻訳書となると、一度契約期間が満了になると、契約を結び直す必要があるし、この際に改めてアドバンスを払う必要があるのです。再度契約する手間とアドバンスの負担があるので、なかなか重版に踏み切れません。重版には当然印刷・製本代も掛かりますから、出版社にとっては結構な額を投資することになりますが、更にアドバンスという負担があるなら重版へのハードルは更に高いのです。だから翻訳書は気になったときに買っておかないといけないのです。いずれ入手困難になるかもしれないのですから。

翻訳書の校正

翻訳書も当然、校正が入ります(プロの校正者の手を経た本ばかりでないのは、以前も書いた通りですが……)。理想としては、原文と付き合わせて1文ずつチェックするのが望ましいのですが、お金のある出版社でないとそこまでは難しいでしょう。校正のポイントは、訳文がちゃんと理解可能な文章になっているか、不自然でないか、誤訳がないか等はもちろん、訳語の統一や、訳し落とし(うっかり飛ばしてしまっていること)がないか、等のチェックも重要です。訳者の訳文は最大限尊重するという原則もありますから、誤訳の判定は難しい。原文から離れてしまっても、著者が日本語で書いたらこういう書き方をするだろうと訳者が判断して、微妙に違う言葉に訳する場合も結構な頻度であるのです。また、原書が間違っていればどう訳するかという問題もあります。翻訳において何が正しいかという答えはないので、そこは編集者が翻訳者と相談しながら方針を立てることが大事です。

さいごに

前回から翻訳出版の事情を洗いざらいお話しました。翻訳ものは書き下ろしとは違って、外国語で書かれたものを翻訳して出すだけだから簡単な仕事なんじゃないかと思っていた方も、いらっしゃるかもしれませんね(かつては、わたし自身がそうでした……。)。しかし翻訳には翻訳なりの難しさと奥深さがあることが、みなさまに伝わるといいな、と思います。

上でも書いた通り、翻訳出版はいまとても厳しいです。中国SFなど一部の人気あるジャンルを除けば、ほとんどの出版社は翻訳出版には前向きではありません。アドバンスという投資もそうですし、そうでなくても原著者と翻訳者の両方に印税を払うので、コストが掛かるのです。それでいて翻訳書が売れなければ、今後の売上予測も厳しくなりますからさらに後ろ向きになっていきます。よしんば出たとしても売上見込が低ければ定価を上げざるを得ないのです。最近の海外文学の値上がりは著しいものがあり、読む人がますます減っていくのではないかと危機感をいだいています。

しかし文学とは、それぞれの国や地域の、歴史や文化のなかで人々が考えてきた道筋を示しています。遠く離れた国々のことを、技術の発展によって、いくらでも、すぐに情報を得られるようになったとしても、そこで人々がなにを考え、どのように生きてきたのかを理解することはできません。時間を掛けて向き合わなければ理解できないことだってあるのです。文学は、その糸口になります。

とくに感受性が豊かな若いうちに、文化も言葉も常識も歴史もまったく異なる国々のものごとに触れておくことは、人生を豊かにするのだと思います。海外文学が高価な贅沢品になって、学生なんかには買えないものになってしまって、親しむ機会が減ってしまうのなら、それはこの社会全体にとって損失であると思います。

それでも。翻訳なんてお金になる仕事でもないのに、そのために労力を掛ける翻訳家がいて、情熱を注ぐ編集者がいて、出版する出版社があるのです。みんな、伊達と酔狂でやっているんじゃないかと思います。そしてわたしも、そのひとりです。

買ってくれとは言いませんが、ふだん素通りしてしまう、本屋の海外文学の棚に並ぶ本の1冊1冊の背後には、ここに書いた(紹介しきれなかったそれ以上の)たくさんの人の努力があることに、思いを馳せてもらえればうれしいです。そして次の世代に、海外文学のバトンをつないでほしいと思います。

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