井の中の蛙大海を知らず、されど空の蒼さを知る。
「井の中の蛙大海を知らず」
この言葉は中国から日本に伝わった、荘子の言葉でもある。イメージ通り、「見識が狭い人」「狭い世界のことしか知らない人」というネガティブな意味だ。
ここ最近、毎日多くの人とセッションをさせていただいて、新しい人その出会いもたくさんあり、ふと感じたことがあった。
誰もが「井の中の蛙」ではないか、と。
ある人は、サラリーマンに疲れ会社を辞めるも、自信を心底失ってしまっていた。ある人は、人付き合いに疲れ、やりたかったことを諦めてしまった。ある人は、自己表現ができずに、生きる感覚を失ってしまっていた。
カラチは違えど、みんな井の中で苦しんでいた。
インターネットやSNSができても、自分の興味のあるものや関心のあるものしか私たちの脳は認識ができない。レコメンド機能やアルゴリズムによって井戸はどんどん深くなっていく。それぞれの井の中から見える、狭い穴からしか世界は見れないのだ、と。
それは、私自身もそうだった。蛙のジャンプ力が少しだけあって、近くの井の中を覗くことはできるけれども、まだ大海は知らない。
世界を知ることが大切だとよく言われる。広い視野を持つことが大事だと私も言う。しかし、そもそも大海を知っている人が本当にいるのだろうか?
生きているうちに世界をすべて見て回れる人なんていないし、すべての人と会話することも不可能だ。1日に平均して3人の新しい人と会話したとして、80歳まで生きても、 せいぜい出会えるのは87,600人。世界の人口76億人には到底及ばない。
そのうち近い関係(同じ学校や職場、近所など)になる確率が3千人。さらに親しく会話を持つのが300人。友人と呼べるのが30人。親友と呼べるのが3人、と言われている。
「大海を知る」ことは、素晴らしいことかもしれないし、人生の目標にしている人もいるかもしれない。大海を目指さない人を人はバカにするし、サラリーマンやヲタクはいつも揶揄される。
だけど、大海を知ることよりも「大切だと思うもの」を選ぶ人だっている。それは子供の成長かもしれないし、親との時間かもしれない。地元のお祭り行事かもしれないし、庭に育つ椎茸の成長かもしれない。大きな海と比べれば、本当に小さな小さなものかもしれない。
大海を知ららないのは不幸だという考え方は、井の中でささやかな幸せを見出している人々の人生を、否定してしまわないだろうか。勇気さえあれば、誰もが大海を目指すことが出来る。それでも、大海を目指さないと決めた人がいたっていい。
じつは、このことわざには続きがある。
井の中の蛙大海を知らず、
されど空の蒼さを知る。
または、「されど天の高きを知る」「されど地の深さを知る」「ただ天の広さを知る」などがある。これは、中国から日本に伝わってから後で付け加えられたそうだ。
大海を目指さないからこそ、空の青さを知り、天の広さや高きを知り、地の深さを知ることができる。どの生き方が幸福かなんて、それを知った人にしかわからない。
私は、自分が「井の中の蛙」だと知っているからこそ、となりの井の中をのぞいてみたいと思う。まだ出会っていない井の中の蛙と話してみたいと思う。できれば、地上に出ることもできるということを伝えたいし、井の中の蛙同士一緒に外で飛び跳ねたい。
大海を知ることが出来なくてても、いつか地上の広さを知りたいと思う。けれど、井の中で空の蒼さを知るのも悪くないと思った。
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