世界遺産「富岡製糸場」の滋味
1 富岡製糸場とは
富岡製糸場は1872年(明治5年)に明治政府が設立した官営模範工場です。官営、というところがポイントで、政府によって運営されていたわけですね。
富岡製糸場ができた経緯には江戸時代末期の開国がありました。1859年には横浜をはじめとする神戸、長崎、新潟、箱館の5港を開港し、諸外国との交易を行います。その際の日本からの主な輸出品が生糸や蚕種でしたが、手作業の座繰(ざぐり)製糸法では大量生産ができず、粗悪品や偽物が出回るようになったのです。こうした問題を解決するため、国の資本を投資し、機械を用いた模範的な製糸場を作ることを決定したのです。
設立に関しては、大隈重信、伊藤弘文、渋沢栄一、尾高惇忠、韮塚直次郎らが関わっています。まさに歴史の教科書に出てくるような偉人ばかりですね。韮塚直次郎については後述しますが、渋沢栄一、尾高惇忠はもう少しここで掘り下げます。
【渋沢栄一】
渋沢栄一は第一国立銀行を設立したことで有名です。新紙幣(10,000円)の顔にもなっていますね。彼は尊皇攘夷の思想に目覚め、倒幕計画を試みることもあったようですが、議論の末、最後の一手には及びませんでした。京都へ逃れた渋沢栄一は伝手によって一橋(徳川)慶喜に仕えることになり、経営面で大きく力を発揮していくことになります。慶喜が将軍となった後は意に反して幕臣となりましたが、慶喜の弟昭武に随行したヨーロッパで大きな影響を受けます。1,969年(明治元年)には倒幕が起こりますが、大隈重道の説得により明治新政府に仕官しました。
彼は元々農家出身であったため、蚕桑業に詳しかったのです。富岡製糸場の設立が決定したとき、その担当として名前が挙がったのが渋沢栄一です。彼は富岡製糸場設置主任に任命され、さまざまな決議を行いました。設立の指導者として生糸に精通したフランス人のポール・ブリュナを雇い入れたのもその功績の一つです。彼とともに当時養蚕が盛んだった地域を実地踏査し、精査した結果、群馬県富岡の地に製糸場の設立を決定しました。
明治末期には生糸の生産量・輸出量は世界一になりますから、まさに近代日本経済の父と呼ばれるだけの由縁があるのです。
【尾高惇忠】
尾高惇忠は渋沢栄一のいとこにあたり、彼に論語とする学問を教えた師です。渋沢栄一と同じく尊王攘夷の思想を抱き倒幕計画を企てますが、彼が徳川慶喜に仕えるようになると、幕府を補佐する方へ考え方を変えていきました。
新政府に招かれた尾高惇忠は、富岡製糸場の設立に当初から携わります。また、初代工場長となったのも尾高惇忠です。工女募集が行われた当時、「フランス人が工女の生き血を飲む」といった噂が流れ、なかなか人手が集まらない状況にありましたが、尾高惇忠が娘を率先して入場させた結果(娘の尾高勇は父の心中を察するとともに、新たな技術の習得に胸を躍らせたと言われています)、33道府県から工女が集まるようになりました。
彼は「至誠神の如し」という言葉を掲げていました。たとえ能力や才能がなくても、誠意を尽くせば、その姿はまるで神様のようなものだという言葉です。彼は工女の教育にも力を入れ、規律の模範であろうとしました。そんな彼に人々は信頼を寄せ、自分の娘を富岡製糸場の工女にすることが誇りであると考えるようになりました。
こうして設立した富岡製糸場は1,987年の操業停止にいたるまで、115年間生産活動を続けてきました。なお、1,893年には富岡製糸場は官営から民間に払い下げられています。当初の目的は模範的な機械製糸工場の設立と技術者育成でしたから、十分に国の役目は果たしたということでしょう(1,891年に行った一回目の入札では、予定価格に達せず不調になっていますが)。ポール・ブリュナをはじめとするお雇い外国人がいた最初の4年間は大きな赤字だったようです。その先も必ずしも黒字が続いたわけではなく、生糸産業の衰退によってついには廃業となるわけですが、富岡製糸場の役割はその歴史的・文化的価値を持つ国宝として、現代にも続いています。
2 歴史的な建築物
当時、まず工女たちの目を惹いたのは西洋式の煉瓦造りの建物だったことでしょう。日本では煉瓦造りの建物はまだ数少なく、そもそも材料の煉瓦さえ富岡市周辺では製造すらされていなかったのですから。
ここに官営初期の工女の日記の一部を紹介します。
資材の調達役を任されていたのは韮塚直次郎でした。煉瓦の製造方法すらわかっていない中、韮塚直次郎はフランス人技術者から煉瓦の素材や性質を聞き、材料である粘土探しから始めました。そして、富岡市に近い笹森稲荷神社(現天楽町福島)付近の畑から煉瓦に適した粘土を発見し、その周辺に焼成窯を設け、試行錯誤の末に、煉瓦を焼き上げることに成功しました。
ガラスや鉄製窓枠など一部は輸入されていますが、その他の資機材は現地で調達されています。建築方法は木材で骨組みを造り、壁の仕上げに煉瓦を用いる「木骨煉瓦造」。明治初期に建てられた木造煉瓦建築で、大規模なものとしては唯一完全な形で残っています。梁、柱といった木骨に屋根の重みがほとんどかかり、壁の部分には力があまりかからないため煉瓦だけで作られた建物より壊れにくいという特徴があります。
また、「トラス構造」を採用することにより梁に直接力がかからず、柱と柱の間隔を大きく取ることができます。そのため、まだ照明設備が不十分だった当時でも、繰糸所のガラス窓から入る自然光を十分に取り入れて活用することができたのです(このことも計算され、建物は南向きに建てられています)。
それだけではありません。屋根は瓦で造られている上、繰糸所には日本の伝統的な建築様式「越屋根(こしやね)」が用いられています。越屋根とは、簡単に言えば屋根の上に乗っている小さな屋根です。越し屋根を採用することにより、蒸気抜きのための板戸を設置し、換気を行うことができました。
また、当時はセメントが日本になく、煉瓦は漆喰で固めていました。漆喰は酸化するほどに強度を増していく特徴があるため、それが美しい煉瓦の外観を保つのに寄与しているのかもしれません。富岡製糸場の建築には、こうした西洋と日本の建築様式の融合が見事に果たされているのです。
富岡製糸場の何が凄いのかと聞かれれば、こうした建築物が当時のままの形で残っているのが凄いのだという答え方になるでしょう。もちろん、近代日本産業発展のきっかけとなった文化的な意味合いありきですが、私たちがそこを訪れたときにまず目を惹くのが建築物の美しさです。広い敷地の中はまるで一つの村のようです。操糸所や繭の保管場所だけではなく、寄宿舎や診療所、社宅群などもあります。この敷地で生活が完結し得たのです。外周には製糸用の用水路や排水路が整備され、どれもが理想的な形に整備されています。わかりやすく、美しい。工場といえど、そこには広々とした職場環境や生活環境がありました。
3 生糸から絹糸へ
さて、日本の主要な輸出品目となった生糸はどのようにして作られるのでしょうか。蚕のことは聞いたことも見たこともある人もいるかもしれません。ですが、正直私にはピンときていませんでした。この機会に少しばかり蚕のことを勉強してみたいと思います。
そもそも蚕とは、野生の蛾を飼い慣らし、数千年をかけて家畜化したものになります。……数千年。想像もつかないですね。蛾と人間の間に数千年もの歴史が築かれていたなんて、嬉しい事実というわけでもないのですが(蛾が好きな人には申し訳ないけれど)、人類の好奇心や探究心の底のなさは窺えます。より効率的に生糸を取るために品種改良が重ねられてきたようです。近頃では遺伝子組み替え技術を利用し、クラゲやサンゴの蛍光タンパク質を取り入れることで光る糸を吐く蚕の開発に成功したとか! ここまでくると、ちょっと怖いくらい人間は蚕にのめり込んでいますね。
幼虫はほとんど動かず、成虫は羽があるのに飛べません。人間が世話をしないと生きてはいけない家畜なのです。そのため、豚や牛のように1頭、2頭と数えます。蚕蛾が産卵し、孵化すると、脱皮を繰り返しながら大きくなり蛹になります。このときに蚕は糸を吐き、繭の中に籠もるようになるのです。蛹化してから10日ほどで蛾になりますが、生糸にする場合はその繭を収穫し、乾燥させることで生糸を採取します。
ちなみに、繭糸の構造はフィブロインとセリシンという2種類のタンパク質でできています。セリシンは乾燥することで固まり、お湯に溶けるという性質を持っているため、繭を煮ると糸が取りやすい状態になります。生糸の状態ではまだごわごわとした固さが残っていますが、繭を煮る工程を経ることで(精錬)、絹糸特有の柔らかな手触りに変わっていくのですね。
なお、生糸については単に織物へと変わるだけでなく、さまざまな用途に実用化されています。たとえば洗顔料やシャンプー。これはセリシンが溶けることを利用し、コーヒーを抽出するようにして液体化するようです。そのほかは食べるシルクなんてものもあります。ゼリーやパウダーにしてヨーグルトにかける食べ方がありますが、それこそタンパク質でできていますし、アミノ酸も含まれるということなので、美容にも良いらしいですね。また蚕の脂はせっけんにもなりますし、蛹は鯉の餌として活用されるとのことなので、蚕にはまったく捨てるところがないのですね。
4 富岡製糸場に行くことで
富岡製糸場については、世界遺産の中でも地味ですよね。屋久島のような深遠さや、原爆ドームのような歴史の悲惨さに行き当たることもありません。きっと富岡製糸場よりも魅力的な観光地はほかにいくらでもあるでしょう。
でも、そのほかのさまざまな観光地が、富岡製糸場の代わりになれるわけではありません。富岡製糸場には富岡製糸場の魅力や知見があり、その役割がもたらした近代産業の歩みや、進歩があります。それらは複合的で、調べれば調べるほどかなり奥深いものです。噛めば噛むほど味が出てくるというか……。現地に行かなければ、もっと富岡製糸場のことを調べてみよう、深掘りしてみようとは思わなかったでしょう。生涯において繭や生糸のことについて、まとめてみたいと思う機会なんてきっとなかったはずです。世界の解像度を一つ上げる機会を持てたのは貴重な収穫でした。そうした積み重ねが、私の思想や感じ方に影響を与えていくのでしょうから。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?