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メンヘラ女こそ大学へ行け

 有り難いことに、Twitterもnoteもほとんど触っていなかったのにも関わらず未だに過去記事にスキが付いたりフォローされたりしている。まだ書いてみたいこともあるにはあるので、余裕のあるときには少し執筆を再開しようかと思う。前回の記事から大分時間が経ってしまったが、私個人は体調不良だとかそういうことではなく、単に大学の方が忙しくなってしまったからというだけである。


多忙な大学生活で気付いたこと

 私自身の話が続き申し訳ないが、ここ最近の大学生活で個人的に気付いたことがある。

あれ、気付いたらメンヘラ治ってね?

 私はTwitterを始めた当初は自他ともに認める、いわゆる「メンヘラ」であった。鬱病と診断されて1ヶ月程入院もしていた。だからこそフェミニズムという毒にも染まりやすかったし、Twitterにも「沼って」行き、恋人にも多大な迷惑をかけた。

 しかし、2年後の現在、このときのことを振り返ると驚くほど自分が変わったということに気付いた。まだ「メンヘラ」が完全に治ったわけではないと思うが、それでも2年前よりずっとましになったはずである。一体なぜ、このような変化を遂げたのだろうか。

2年前の私

 上述の通り、私は鬱病と診断されていた。退院して大学には普通に通っていたものの、病み上がり状態だったのもあり、思うように体が動かせなかったり疲れやすかったりしていた。前期(4月〜8月)の定期試験では、元々苦手だった物理等の3科目を落とし、結局体調不良で再試験でも合格できなかった。

 後期(9月〜3月)は、鬱状態がひどくなって一日中寝ていることも多くなり、とても大学どころではない状況になってしまった。当然、そのときの成績はとてもひどいもので、6科目の再履修。つまりその年は通年合わせて9科目の再履修いう散々な結果だった。

 私は大学を辞めるか大学の学科(私の通う大学には6年制の薬学科の他に4年制の学科もあった)を変えるかという選択肢を迫られた。休学することも考えていたが、それ以上に大学が私に合わないのではないか、6年制は厳しいのではないかという思いがあったのである。

 しかし、そのときの私は勉強をする体力もなければ、自ら責任を持って何かを決断する力もなかった。この責任というのが特に厄介であった。大学を決めたのは私ではなく父親であったため、このときはある意味自分の失敗を「人の責任」にすることができたのだ(正当化してはいけないことだが)。

 しかしこのときは違う。自分で決めなければならないため、その全ての責任を自分で負わねばならない。私はその責任を負える気がしなかった上、その責任を負ってまでしたいこともなかったので、結果的にその「選択肢」を全て放棄した。すなわち、学校も学科も変えずにそのまま続けるという選択を取ったのだ。

去年と今年の私

 ここで忘れてはならないのが、「現状維持」も選択であり、その選択にも当然責任が伴うということである。私はそのことは理解していたので、このままではいけないと思い習慣をガラリと変えた。

 毎日きちんと大学に行き、授業の内容を毎日復習する。また、試験を見据えて早めに教授のところに行きアドバイスをもらうなどしていた。その過程で良い教材を教授から頂くこともあった。

 もちろん、これらのことは「健常者」であれば当たり前にできていることである。しかし私はひどいストレスに苛まれ、体調不良を引き起こした。毎日のようにひどい腹痛を抱え、白髪が増え、姿勢も悪化し頭痛に苦しんだ。

 体調不良を抑えるために私は小休憩を挟んだり薬に頼ったり優先順位を付けるなどして何とか耐えた。そしてその年で再履修科目と追加の新しい科目の単位を回収し、次の年は通年合わせて全ての科目の単位を取得した。

私の大学用アカウントでのポスト

 これは、再履修9科目という絶望的な状況だった2年前からは考えられないほどの回復である。私は多くの人に助けられつつも、何とか立ち直ることができたのだった。

大学で学ぶ「大人の社会」

 言うまでもないことだが、大学は義務教育ではない。就職に大卒はほぼ必須であるものの、強制されるわけではない。現に、私の知り合いでも高卒で働いている人は少なくない。

 ではなぜ多くの人が大学に通うのか。それは就職に有利だからだけではない。

 確かに、大学に行く理由として就職に有利になるからというのは事実である。

進学を希望する理由として最も多かったのが「将来の仕事に役立つ専門的な知識・技能を身につけたいから」でした。

大学に行く意味やメリットとは?行かない場合のデメリットも解説 - ハタラクティブ

 しかし一方で、「学校生活を楽しみたい」「まだ働きたくない」などの理由も少なくない。

 確かに仕事は辛いことの方が多いだろうし、働きたくないと思う気持ちは理解できる。大学とは、このような軟弱な精神を持つ人々へのいわゆる人生のモラトリアム期間」を提供する場なのだ。

 しかしながら、大学はモラトリアム期間を提供しつつもいろいろなことを教えてくれる。その一つが「自己責任」である。

 高校は義務教育ではないと言いつつもほとんど義務教育のようなもので、出席日数さえ足りていれば試験の点数がどれだけ悪くても進級できる。出席日数が足りていない者でも補習等の救済措置が存在する。

 しかし大学にこのような措置は当然ながら存在しない。試験の点数が基準に満たなければ容赦なく不合格になるし、それで進級も決まる。もちろん、これでも実際の社会に比べたら随分と生温いものであるのだが、高校までの甘い措置に慣れた軟弱な若者はこの大学の洗礼に戸惑いを覚えるだろう。私が去年苛まれていた体調不良の原因となったストレスは、この「自己責任」を求める「厳しい」措置によるものだったのだ。

 高校受験時や高校時代でも毎日寝る間も惜しんで勉強するということはあったが、鬱病と診断されてからこの程度の勉強をしたのは去年が初めてであった。私が折れずに続けられたのはただ「去年の二の舞になりたくない」というたったそれだけの思いがあったからだった。私は「自己責任」のストレスに晒されることで立ち直ることができたのである。

メンヘラは社会の洗礼に耐えられない

 ここでタイトルの「メンヘラこそ大学へ行け」という主張に移る。私は大学のおかげでメンヘラが改善したと言っても過言ではないからだ。大学という「自己責任」のストレスにより私は立ち直ることができたのだ。

 ではさっさと社会に出ればいいではないかという批判が聞こえてきそうである。それは正しいと私も思う。しかし、私のような軟弱な精神を持つメンヘラは、高校まで甘やかされた後にいきなり社会に放り出されても耐えられないのだ。そこで奮起して立ち直ることができるのなら良いが、精神をさらに病んで自殺未遂など起こされては目も当てられない。そのような多大な迷惑をかけるくらいなら、大学に行った方がましであろう。

 私自身、あのまま社会に出ていたらまず間違いなく大学生だったときより大きな迷惑をかけることになるだろうと思う。もちろん金銭的な問題もあるので、絶対に大学に行くべきだと断定するつもりはない。重要なのは、大学がメンヘラを治す手段になり得るということである。

 但し、どんな大学でもいいというわけではない。高い学費をドブに捨てるような真似は避けたいが、楽な大学に行っても意味はない。個人的にお勧めするのは、単位取得が比較的厳しめで実習が多い理系の学部の大学もしくは専門学校である。社会よりはかなりマイルドだが、まだ取り返しのつく内に大きな挫折を味わえるという意味では有効だと考えられる。

 もちろん大学に行けたからといって慢心せず真面目に取り組まなければならないのは当たり前である。私の友人のようになったり以下の画像のようになったりする可能性もあるので注意は必要である。

メンヘラは何をすべき?

 私一個人の意見だが、まずは社会について知るべきだと考える。私のような温室育ちの純正培養メンヘラは、社会の辛さを知らない。だからこそ、社会の解像度が低いお気持ちをドヤ顔で全世界に披露するということをやってしまいがちである。

 このような、真顔で話すと失笑を買うようなことを大真面目に言う人は、やはり社会を知らないのである。そして知らなくとも困らないように甘やかされてきたからこのような特級呪物が生まれるのである。私も一歩間違えていれば上記の画像に名を連ねていたかもしれないと考えると恐ろしい。

 ここまでの特級呪物に成り果てた人々を矯正するのは難しい。しかし、まだここまでになっていない単なるメンヘラであれば、社会の厳しさを実体験に基づいて教えていくことで矯正できるのかもしれない。特級呪物については救いようがないのだが。

 その選択肢の一つとして、ハードな大学や専門学校に通うというのは有効であろう。

 メンヘラも含め一人でも多くの人が、しっかりと「まとも」になれることを願っている。

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