進むも地獄、退くも地獄 映画『ミッドサマー』評
2018年、『ヘレディタリー/継承』によって世界を震撼させたアリ・アスター監督。
その最新作は「明るいホラー(監督はかたくなにホラーと呼びたがりませんが)」。
舞台が白夜の村なので、ほぼ全編光に満ち溢れているのです。
私はホラー映画を観るたび心の中で「頼むから電気を! 電気を点けろ!」と叫んでいるので、これはありがたい――とか思うわけないですね。だって『ヘレディタリー』の監督ですよ? たまに人を嫌な気持ちにさせることに命懸けてる作家がいますけど、そういう類の人だと理解してますからね、アリ・アスター監督。
いつものことなんですけど、私の映画記事は基本ネタバレをあんまり気にしません。
特に今回は、核心部分に触れずに語るのが難しい作品でもあるので、未見の方はブラバ推奨です。
観終わった感想としては、黒の『ヘレディタリー』に対して白の『ミッドサマー』といったところですかね。
といっても、黒トミノ白トミノというほどの違いはなく、おなじ話を違った角度から撮った印象がありました。
宇野維正さんは“『ヘレディタリー』ではラスト数分で終わった儀式の様子を(村に着いてからの100分余りの時間を費やして)ひたすら事細かに描いていく作品と言ってしまうこともできる”と評しておられますが、正鵠を射ていると思います。
本作が怖いかと訊かれると難しいというか、人によってはぜんぜんかもしれません。
すくなくとも『ヘレディタリー』と比べると、超常的な存在も出てきませんし、大きなどんでん返しもありません。
監督自身は本作を「ブラック・コメディ」や「失恋映画」と呼んでおり、そういう見方も十分できます。
失恋映画として観た場合、主人公ダニーを内心疎んじていた男どもがことごとく酷い目(かなり抑えた表現です)に遭ってスカッとできるわけで……。
でも、画面の明るさとは裏腹に、常にじんわりとした不安を感じさせられますし、描かれていたものを反芻してみると、やっぱり怖いなあ、という結論に至ります。
では、本作のいったいどこが怖いのか。
私が注目したのは3つのポイントです。
①ルールのわからない場所に放り込まれる
本作の主な舞台となるスウェーデンのホルガ村は、北欧神話の息づくコミュニティで、ダニーらの属するキリスト教社会とはまるで違った価値観に支配されています。
詳細は省きますが、そこで起こる出来事は彼女らの常識に照らせば信じがたいものばかりで、次々と衝撃を受けるわけです。
さらには、ルールを知らないばかりにうっかりタブーを破ってしまうかも……一見穏やかなシーンであっても、常にそんな薄氷を踏むような雰囲気が漂っています。
そして案の定、男子の中でもとりわけ空気の読めないアイツが! やらかしちゃうわけですね。
余談ながら、この辺りのシーンを観ながら思い出していたのが『ウルトラマン』第12話「ミイラの叫び」というエピソードなんですが。
七千年前のミイラが蘇り、逃走の果てに殺されてしまうお話。
たった一人、知らない世界に放り出されたミイラ人間の心情を思うと哀れでなりません。
警備員が襲われるシーン等ホラー演出が随所に見られますが、本当に怖がっていたのはミイラ人間のほうでしょう。
登場する怪獣も妙に弱っちくて、ウルトラマンがトドメを躊躇するほどでした。
②行ったら戻ってこれない
本作のラストは、実は『ヘレディタリー』と同じです。
要するに、境界線を踏み越えて「あちら側」――ルールの異なる世界にいってしまう、ということですね。
よくゾンビ映画などで、さっさと噛まれてゾンビになったほうが幸せなんじゃね? というような意見を目にしますが、あえて脅威の対象と同化することで不安や恐怖を解消してしまおうという考え方です。
『ヘレディタリー』も、ふつうに観ればバッドエンドなものの、どこか祝祭めいた高揚感がありましたが、本作ではそのものズバリ「祝祭」でした。
ただし、一度境界線を踏み越えた者は、二度と元の世界には戻れません。
たとえ物理的に帰還を果たしたにせよ、見えている景色は以前とまるで違ったものになるはずです。
また『ヘレディタリー』でいうなら、悪魔に憑依された自分は果たして自分なのか? という問題もあります。
③ホルガ村の抱える欺瞞
個人的には本作のラスト、ぜんぜんハッピーエンドに見えなかった派なんですが、キリスト教的価値観からの解放を良いように捉えている人も多いようですね。
異なる文化や価値観を否定しないという姿勢はまあ、いいんです。
藤子・F・不二雄の名作短編『ミノタウロスの皿』を始め、様々な作品から我々は文化を相対化する視点を学んできました(バラックシップの1エピソード『蓑皿』のタイトルは、もちろんここから来ています。みんな、読んでね♡)。
とはいえ、ホルガ村のやってることは、どう考えてもカルトのそれです。
彼らにとっての聖典を記している人物がいましたよね。
中世であれば、ああした人間に役目を持たせることに理があったのでしょうが、科学知識を持った者からすれば、彼は単なる障害者です。
そのことはもちろん、ホルガ村の人間もわかっている。
百歩譲って昔ながらの伝統を守るのはいいとして、意図的に障害者を生み出しているとなると、それはもう欺瞞です。
時代の変遷。
伝統の形骸化と、それを取り繕おうとして生じた歪み。
こうした例が、他にもたくさんあるわけですよ。そもそも殺人がアウトですし。
ダニーにしても、ストレスや薬物で正常な判断力を奪われた状態でのアレですから。『ヘレディタリー』でいうところの「悪魔に憑かれた状態」です。
かといって、とっとと村から逃げ帰ればそれでOKともならない。
何故なら我々の社会にも、それを維持するために敢えてスルーしている欺瞞がいくらでもあるからです(ダニーも元の社会に適応できずにいたわけですし)。
“みんなちがって、みんないい”ならぬ、“みんなちがって、みんな地獄”
だとすれば、逃げ場なんてないじゃあないですか。
★★★★☆
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