孤独ともいうものについて
こちらを読んで思い出したのは
じぶんの大切な人の死であった
その人は、誰かの不注意や何かではなく
病であったため、わたしは誰かを憎むということはなかった
ただただ哀しかった
いかに、その人、その人間、一人の存在
それが近くなくても、離れていても
わたしという一人の人間を支えてくれていたのかということを
その人を失って、歩み出してから、一歩進むごとに思い知って行ったという感じであった
まるで遅効性の毒のようにその孤独はわたしを苛み
もとからあった神経症に拍車をかけて行った
なぜいきているのか、なぜがんばるのか
そんな深いことを考えていたわけではないが
ぱらぱらと人生のなかで何かが欠けて、わたしという人間の形成がままならなくなり
それをどうしていいかわからなかった
だれに話し、だれに聞いてもらえばいいのかもわからなかった
しばらくして、死が安寧に思えてそこに至ろうとした
でもいま、こうしてこれを書いている
わたしがふと、これを読み、少し涙をながし、それを拭いたときに思い出したのは
美しく生きるということだった
亡くなった人はわたしに
誰かと料理をシェアすることを教えなかった
これは、友人にケーキなどを少しずつ味見しあわないのか、といささか憤りを持って言われ、驚いて自分自身の傾向を知ったときのことだ
それをふと、その人に話すと
そういうふうに育てた(シェアしないように育てた)とはっきり言われ
さらに驚いた記憶がある
もう少しきくと、
自分が食べているもの以外をレストランで食べてみたいと思ったら、誰かから分けてもらうことを望むのではない(それが味見程度だとしても)
もう一度連れてくる
必ず連れてくるから、
自分は自分でそのとき選んだものを食べなさいということだったらしい
それが美しいという
スマートということなのだという信念を子供心に感じた
わたしの父はそういう人だった
正直、わたしであり、わたしの立場でないと付き合いづらい、気難しい部分のある人だったと思う
正直、父といると、人によってはノイローゼになっていたのではないかという部分のある人であった
良い意味でもその逆の意味でも
信念を持ち、やり遂げるには力強さが必要で
ときにそれは人を傷つけ、人を置いていくからだ
だけれど、きっと、美しく生きるということを
わたしに教えたのではないか、とふと思った
わたしは、自分が美しいと思っているのではないが
ふとしたときに、美しさを優先させていることにようやく気がついた
そんなお話
(自分も気難しいのかもしれない。不器用で、怠け者という自覚はある。コミュニケーションも人の何倍も何倍も下手とようやく、ようやくだ!気づいた)
なにが言いたいかというと
死ぬほど哀しみ、苦しみ、何かを憎んでいるひとには
死へはいくなと、どこまでも力強く
どこまでも信念を持って言ってあげたほうがいいんじゃないかということです
そこに完璧な理論や理由や言葉を用いるのは難しい
死とはそれほど境とする力を持っている
でも確かなのは、死へと向かわないこと
それは確実に明であるということだと思う