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怖いことが、当たり前。

私はレイプが怖かったから、海外留学しなかった。

私は痴漢が怖かったから、スカートを履かなかったし、満員電車に乗らなかった。

私は薬を盛られるのが怖かったから、決して食事の席を離れなかった。

大きめの夢から、日常の一コマまで、私は襲われないように、狙われないように、自分の行動を制限してきた。

自意識過剰と思われるだろうか。でも、この社会では、性被害にあったら、被害者の”落ち度”が責められる、そう知っていたから、こうするしかないと思ってきた。


「なんで海外留学しなかったの?すればよかったのに」私の経歴を見た何人もの人に言われた。レイプが怖かったから、と言っても理解されないだろうなと思って、いつも理由は言わなかった。専門分野の最先端の研究ができるアメリカの大学に、私は留学したかった。でもしなかった。

10代の頃に何度か欧米の大学を見学する機会があって、私は気付いてしまったのだ。女性で、アジア人で、アセクシュアル(だから性的な文脈を読み取るのが苦手)で、英語がネイティブでない私は、容易に標的にされるということを、そしてきっと自分で自分を守りきれないだろうということを。使い捨ての性的な道具として、ギラギラした視線にさらされた私は、「あ、私はここではまともに勉強できない」と思ってしまった。

アメリカでは、女性の44%が、生涯において少なくとも一度以上、レイプやレイプ未遂の被害に遭っているというデータがある(『女の生、男の法』という本が詳しい)。大学在学中に女子学生の4分の1以上がレイプ被害に遭うというデータもある。(いずれも、男性の被害者のデータは見つけられなかった)

レイプは現実に、日常のなかに、普通に潜んでいる脅威なのだ。(別にアメリカに限らない。日本でも、日本の大学でも安心はできないよ、と今だったら思う。だから、海外留学をしないという私の選択が、レイプ被害に遭わないという目的に照らして適切だったとはいえないことも注記しておく)

海外に留学した知り合いが被害に遭ったと聞いたとき、「ああ、やっぱりね」と心のどこかで思ってしまった自分がいた。被害者の落ち度を、探そうとしてしまう自分がいた。

そんな自分にぞっとした

レイプに遭いたくないのなら、留学しなければよかったのに。痴漢に遭いたくないなら、スカートを履かなければよかったのに、満員電車に乗らなければよかったのに。薬を盛られたくなかったら、料理から目を離さなければよかったのに。

こうすればよかったのに、と被害者を咎めることはできる。誰にだってできる。辛い事実を受け入れることよりも、ずっとずっと簡単で、だから気軽にしてしまいそうになる。

だが、それはものすごい悪だ。


学ぶことに、レイプをされるという危険が伴うこと。移動することに、痴漢をされるという危険が伴うこと。食事をすることに、薬を盛られるという危険が伴うこと。多くの女性は(一部の男性も)その危険を日々感じながら生活していること。

これって、間違っていない?変じゃない? 私はようやく、気付いた。

咎められるべきは、加害者と、この危険を「当たり前」「仕方ない」と問題にしてこなかった人びと、あるいはこの危険の存在に無頓着で気付いてすらいない人びと。

私は被害者が責められるこの社会を、当たり前に受け入れていてしまっていた。そのことを、今、後悔している。


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