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食への関心と生命力

科学的にも医学的にも立証されていないと思うし
私以外の誰かが同じことを思っているかもわかりませんが
アスペルガー症候群、すなわち発達障害を持っていると
生命体として障害があることで、生命力がぐっと強くなり
生きるために試行錯誤する力が障害なく生まれた人間よりも強いのではないかと思います。

私は人生の中で、到底生き抜くことが難しそうな状況に何度か立たされたことがありますが、それをやりきったことを「あなたはすごい」と言われても、そうなの?と感じます。その時は辛かったのかもしれませんが
私の人生に辛いことなんて何もなかったと心から思っているのです。

生命力が単純に相対的に強い、そう感じています。

そしてそれはアスペルガー症候群の
こだわりの強さにもあらわれていると思います。

アスペルガー症候群はこだわることはこだわるが、
こだわらないことへは一切興味を持たない。

例えば私は食に興味がありません。

もちろん食欲・睡眠欲・性欲は生きる上で必要な行為なので、
食事はします。
例えば、人参をかじったり、その辺に植えてあるきゅうりを食べて昼飯としたり、それで全く問題がないのです。

私の関心は生命を維持することだけにあるので
例えば食べることができない状況には憤慨するし、パニックも起こします。

拘束時間が長かったり、
相手の思いやりのなさで私の食事の時間がなかったり
ジュースの一本与えるだけで良いから腹に何か入れる時間だけ与えてくれというこれは、私のこだわりでしょう。

しかしご飯を食べさせて!と言った時
私は豪華なご飯を食べたいとは言っていません。
別に高級なところに連れて行かなくてもいいし、むしろパン一つで十分満足する。ここにこだわりはありません。
しかし私の食欲についての表現(食べたい!)を聞いただけでは
食事に貪欲な人にみられることもあるかもしれません。

そして私はあまりの食への関心のなさに「贅沢舌」だと言われます。

適当なお菓子やポテトチップスを持ってこられても
「へ〜」としか思わないし、食べたいとは特に思いません。

その代わり、美味しくてもまずくても30種類の野菜が入った煮込みが目の前にあれば食べたいと思うでしょう。これが私の、食事をとるなら栄養を取る必要がある、というこだわりです。


ここまで食に興味がないと「美味しい」という感想にはなかなか至りません。

これは夫と生活をすることになってわかったことですが
私は色々なところで理性と自己抑制で脳を潰して、自己の感情論を表現しないようにできているようです。

例えば、目の前の食べ物が美味しいか聞かれた場合、私は

・この料理は衛生的に調理されただろうか(強迫性障害)
・この料理には栄養価があるだろうか(生命維持のこだわり)
・この料理は価格相応だろうか(欲の無さ)
・美味しいと答えた時どのような反応をされるだろうか(自閉)

主に上2つですが、それ以外にもたくさんのことが一気に頭の中を押しつぶし、返答には時間を要します。

例えば、シェフが携帯をいじりながらサラダを素手で盛っていたら私はそれだけでどれだけ美味しいサラダでも吐き気をもよおすと思います。
逆に、徹底的に衛生管理をしているお店での食事はなんでも美味しいと認識するでしょう。

栄養価については栄養がなくても何かお腹にいれなくてはいけないときは気にはしません。
(半径数十メートル以内にパン屋しかなく、パンには炭水化物しか含まれていないようなものだが、生命の維持に何か食する必要があればパンでも何でも気にせず食べる)
しかし選べるのならば、ごくわずかの私の食事にジャンクを食べる必要はとくにありません。

そして私が「美味しい」と言ってしまった場合の周りの反応について
これは私がとても気にしていることで
アスペルガーによっては「美味しい?」と聞かれて「普通」と答えるなど、相手がいらっとする返答をすることがあるという話を聞きましたが

私は美味しいか美味しくないかは私にはわからないので、基本的に「美味しい」というようにはしています。(私が食べられないぐにゃっとしたもの、バリバリで口の中が傷だらけになりそうなものを除く)

例えばレストランで

「美味しいですか?」と聞かれたら、おそらく満足ですか?という意味あいでアンケートをとっているだけだろうと認識をするので、美味しかろうが美味しくなかろうが「美味しいです」というと思います。

しかし、例えば私の身内が「美味しい?」と聞いてきたとき
私が「美味しい」と言ってしまうとさらに別の料理をもってきたり、美味しいんだったら私のも食べていいよ!なんて言って自分の分までくれるかもしれない。
つまり、美味しいと一言返答するにも他のことを全て考え合わせて返事を決めないといけないため、相当な時間を要します。

この問題が発生するのは、私に美味しいという感性がそもそも備わっていないからなのかもしれない、ということも同時に考えてはいます。


私は、料理に塩を10倍入れていても
何の味もなくても「美味しい」あるいは「まずくない」と思うと思います。

これは私の食へのこだわりのなさからきているもので
「この食事野菜が30種類も入っていて、肉も入ってるし栄養があるんだから美味しいに決まってるじゃない」という思いが私にあるから、味についてなんとも思わないのだと思います。

逆に食感には異様に過敏で、
餅やマシュマロ、グミなどは気持ちが悪くて見ることもできないので
食べている人がいるとその場を離れるほどの拒否反応があります。
もちろんその食感の食べ物は食べません。
そして私の中でその食べ物たちは「まずい」という認識になるのでしょう。

私にとって味は大切ではなく

・衛生的であるか
・食するに値するものであるか
・食べて社会的に問題がないか
(人が絡んでこないか 等)

と言った疑問・不安・恐怖が解消されて初めて
「美味しい」とか「美味しくない」とかという話になるので

まずトイレに行って手を洗わないで調理を始めた人を見ればその食事は私にとってまずいし
逆に、レストランのオーナーが世界の善に全力で尽くしていて、最高の哲学のもと安価で最高品質の食べ物を調理し、栄養のある食事を提供してくれたらその味が美味しかろうとまずかろうと、私は美味しいというんです。

私の脳みそは全力で理性に押しつぶされています。

「楽しい?」と聞かれたとして

その時の気温で、寒いからこの後風邪をひくのではないかとか
いつ帰れるのだろう、体力が持つだろうかとか
このあとどこまで連れて行かれるんだろうとか
これに費やした費用や労力の対価はあるのだろうか
この時間に他に何が達成できたのだろうか
私がこれを経験して何になるのだとか

そんなことを解消しなければ感情論には至らない。

しかも感情論に至ったところで
「楽しいって何?どういう状態?」という疑問にぶつかります。

良い言い方をすると、理性でがんじがらめになっている脳みそで
自己抑制で出来上がった人間性であり
要件と状況からしか物事を判断できない
失感情症の要素も入っているのかもしれないとも思うし

「私が食べ物を美味しいとも美味しくないとも思わないのは
味覚音痴だけが問題ではない」と夫が言ったことで思い出したことが色々あったのでまとめましたが、あまり良いまとめにはなっていないかも。

しかし理性と自制心で縛り付けられた
生命維持にしか関心がない私には
感情論にたどり着くには1億年早いという話なのです。

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