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[推し本]話の終わり(リディア・デイヴィス)/小説が生まれる過程を経験する

リディア・デイヴィスを知ったのは、翻訳者の岸本佐知子さんが手がけたルシア・ベルリンの「掃除婦のための手引書」のあとがきで、リディア・デイヴィスがルシア・ベルリンを羨望と言っていいほど絶賛していると書いていたのがきっかけでした。
ルシア・ベルリンもめっちゃおすすめ、ぜひこちらもどうぞ。

サミュエル・ジョンソンが怒っている

そんなわけで最初に読んだのが、この変わったタイトルの本。
ルシア・ベルリンも、数ページだけの短編などかなり短いものがあるので、その不定形と思える様式に少し慣れていたものの、「サミュエル」は最初はやや戸惑うほどの不定形さです。
タイトルにもなっている「サミュエル・ジョンソンが怒っている」の章ではセンテンスが一文だけで、これは何かのメモの断片集だろうか、あるいは小説のネタのプロット集なのだろうか、と思ってる頃に、脈絡なく脳天を貫くようなこんな章が出てきます。

二重否定
人生のある時点で彼女は気づく。自分は子供を持つことを望んでいるのではなく、子供を持たないことを望まない、あるいは子供を持ったことがない状態になるのを望まないのだということに。

こんな短い中に、これほど真を突く表現ができるこの人は何物だ、となるわけです。
マリーキュリーの一生を描く比較的長めの章では、多くを説明しないのに、マリーの一生のある瞬間をコラージュのような断片で積み重ね、なんとも印象深い章となっています。
ルシア・ベルリンもそうですが、なんてことのない表現に、どれだけの推敲があり、どれだけ文章をそぎ落とす決断が繰り返されているのかと思います。
他にも、忖度など一切なしの歯切れよさに、いつしかリディアファンになることでしょう。

話の終わり

続けて読んだこちらは、一転、一冊まるごとの長編です。
これがまた、噛めば噛むほど味がでる、読めば読むほど発見がある、というような不思議な小説です。
ん、小説?・・・なのか?
いや、小説が生まれる過程を一緒に経験している、のだろうか?

付き合っていた年下の男が自分のもとを去り、去ってからもどこかで再会できるのではと実際探したり幻影を求めた数年を経て、いよいよもう関係は終わったのだ、と悟るところから話は始まります。
というか、年下の男に去られ、忘れられず消息を探るけれども結局終わったのね、というだけの話なのです、言ってしまえば。

「彼」としか出てこないその男と出逢った時のこと、惹かれていた仕草やふるまい、何度かの喧嘩、それらの記憶を呼び起こし、しかし細部はちょっとずつぼやけ、何が本当なのか読者も「私」の記憶のもやの中を一緒にさまよいます。
そして、パチッと断ち切るようにとても客観的に、もやの中にいる「私」を観察し、この物語をどう書いて、何を書かず、どう終わらせるか計算している「私」がいます。
もやの中にいるのが演者なら、そのシーンの撮影を監督している視点が入ってくるようなものです。
最初誰がどういう立場で何を書いているのだろうとこんがらがるのですが、それこそがリディア・デイヴィスがこの長編で実験した、小説が生まれる過程そのものを再現して読者に経験させる、というものです。
メイキング、というにはその構成自体も緻密に計算されていそうです。
回収されそうで回収されない感じが続いた最後に、演者の「私」と監督の「私」が重なり、あーー、そこで冒頭とつながるのね、うぉぉぉーー、う、うまいーーー、というかよくこんな本を書こうと思ったなと、ただただ感嘆します。
文章のそぎ落としテクニシャンであるリディア・デイヴィスを、野暮にも多くの文章で紹介してしまいました。

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