【長編小説】清掃員の獏(1)
夢の中ではお前の信じたものが真実になる。
目覚めたければ黙って俺を信じろ。
◼あらすじ
自分の夢の中に閉じこめられた沙凪。
夢の住人・イミューンに襲われたところを、突然現れた男・神谷に助けられる。
他人の夢に入る力がある神谷の導きで、沙凪は自分の夢を進んでいく。
ふたりが目覚めるために、夢の出口を目指して。
空へ落ちていく。
灰色の雲の中を、ぐんぐん降下していく。
いくら手を伸ばそうと、足をつっぱろうと、つかまれるものは何もない。虚空に投げだされた体は、なす術もなく落ちていく。
悲鳴が止まらない。口の中が一瞬でからからになる。
風圧で、髪の毛も服も皮ふも、すべてが上に引っぱられる。
涙があふれてきた。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。こんなの嘘だ。
こんなめにあうなんて。
どうして私が。
時間を戻したい。
全部なかったことにしたい。
でも、不思議な既視感があった。
この恐怖も、足場がない心細さも、後悔も、覚えがある。
いったい、いつだろう。こんな強烈な体験、忘れられるはずがないのに。
急に視界が明るくなった。
雲を突き抜け、視界が青に染まる。
やっぱり、この景色を見たことがある。
いつのことだ。どうしてそんなことになったのだ。
目の前に海面が迫る中、必死にそれを思いだす。
落ちていく。
海から空へ。
空から海へ。
1
なんだ、夢か。
かすみの中から覚醒した新島沙凪は、ゆっくりと目を開ける。
見渡す限り一面に、赤い大地が広がっていた。
風が吹くたびに巻き上がる土煙の向こうに、白い塔がひとつ建っている。それ以外は何もない。乾いてひび割れた岩肌が地平線まで延々と続いているだけだ。
自分がまだ夢を見ているのかと思ったけど、砂混じりの風が頬に当たる感触は、あまりにリアルだった。
ここはどこだろう。
なぜこんなところにいるのだろう。
目覚めたてのぼんやりとした頭に、ぽつりぽつりと疑問が浮かぶ。けれどあたりには人の気配はおろか、虫一匹、草の一本も生えていない。
とりあえず、塔に行ってみることにした。あそこならだれかいるかもしれない。
遥か遠くに見えたのに、歩き始めると塔はみるみる近づいてきて、拍子抜けするくらいあっという間にたどり着いてしまった。
近くで見ると、ますます不思議な塔だ。きれいな円柱形をしていて、装飾はおろか窓もない。正面の大きな両開きの扉がなければ、煙突だと思ったかもしれない。こんな環境だというのに、まぶしいほど白い壁には、砂粒ひとつ、ついていない。触れてみると陶器のようにつるりとしていて、近づけると表面に顔が写りこんだ。
勝手に入っていいものだろうか。呼び鈴を探してみるが、どこにもない。ノックしてみるしかないか。
ふと、視界の端で何かが動いた。
首をそちらに向けると、土煙の向こうに人影を見つけた。
「あ、あの! すみません!」
沙凪の声に振り返った人影が、こちらへ走ってきてくれる。
よかった。やっと人に会えた。沙凪はホッとして人影に手を振る。
「あの、ここってなんなんですか? 入っても大丈夫で……」
言い終わらないうちに、沙凪は異変に気づいた。
人影は、土煙を抜けても人影のままだった。
違う。
あれは、人じゃない。
影がそのまま実体を持ったみたいな、真っ黒な何か。
それが、全速力でこちらに向かってきている。
何、あれ。
なんなの。
マッチ棒のようなひょろりとした人型のそれは、もう沙凪の目の前まで迫っていた。そのままスピードを緩めずに腕を振り上げる。
無意識に引いたかかとが地面に引っかかり、尻もちをつく。それと同時に、頭の上で空気が裂ける音がした。
はらり、と何かが顔の前に落ちてくる。
それが自分の髪の毛だと気づくなり、全身の血が凍った。
顔を上げると、文字通り沙凪の目と鼻の先に、黒い錐のような鋭いものが突きつけられていた。人型のそれのひじから先は、いくつもの細長い錐に枝分かれしていて、その間を魚のヒレのような膜がつないでいる。
そいつは、なぜはずしたのか? と考えこむようにゆっくりと首をかしげる。
かしげた首の上には、顔がなかった。
頭部はあるが、体と同様に真っ黒だ。首から上だけ曇りガラスがかかっているような感じで、輪郭や顔の凹凸すらも判然としない。
ダメだ。話が通じる相手じゃない。
逃げなきゃ。
殺される。
本能がそう叫んだ。
それなのに、体が動かない。
足はがくがく震えるばかりで、ちっとも言うことを聞かなかった。
必死に手で地面を押し、尻を引きずってそいつから離れる。
目がないというのに、そいつはちゃんと沙凪のことが見えているようだ。沙凪が苦労した移動した距離を、たった一歩で振り出しに戻す。沙凪が離れたらまた一歩進む。獲物の獲得を確信したのっそりとしたその動きに、恐怖はますますふくれ上がっていく。
心臓がめちゃくちゃに鳴っている。のども肺も縮み上がってしまって、うまく呼吸ができない。腕がしびれて、どんどん動けるペースが落ちていく。
どうして。
なんで、私が、こんなめに。
鼻のあたりがつんとして、涙がにじんでくる。
「やだ……」
涙で揺らぐ視界の向こうで、そいつが再び腕を振り上げるのが見えた。黒くて長いヒレの先端が、沙凪の顔を捉える。
死にたくない。
吐息にかき消され、声にすらならなかった。
ヒレが振り下ろされ、沙凪は目を閉じる。
肉を打ち据える鈍い音が響いた。
だが、一向に痛みはやってこない。
おそるおそる、まぶたを開ける。
目の前に、男が立っていた。紺色のつなぎを着た男だ。
男の脚の向こうで、さっきの黒い何かが立ち上がって両腕を構え直すのが見えた。
男が前に出る。
黒い何かがヒレを横になぐと、男は上体を反らしてヒレをかわす。空振ったことで、黒い何かの動きが一瞬止まった。男はすかさず、そいつのひざに前蹴りを放つ。がくんと地面にひざをついたそいつの頬に、男はひざ蹴りを打ちこむ。
横へ吹っ飛んだ黒い何かは、そのままごろんと一回転する。ところがそいつは一瞬ひるんだだけで、ヒレを地面に突き立ててすぐに立ち上がった。うなるでも怒るでもなく、無言のまま、まっすぐに男へ向かって突っこんでくる。
黒い何かはヒレをすぼめて錐の束を作った。ヒレを広げている時よりも突き出す速度が上がり、男は胸に穴が開く寸前のところで回避した。男は少し下がって距離をとる。黒い何かが両手で繰り出してくる素早い突きを、一撃ずつ確実に回避していく。
相手の動きが大ぶりになった瞬間、男が踏みこんだ。胸をねらってまっすぐ伸びてきた突きを、男は体を回転させて受け流す。その勢いに乗せて、回し蹴りを側頭部に叩きこんだ。
黒い何かの首が、がくんとぶら下がる。頭の重みに引っぱられるように、ゆっくりと体が傾いていく。
地面に倒れた黒い何かは、顔を沙凪の方に向けたまま動かなくなった。
沙凪はそれと、目が合った。
目がないはずなのに、はっきりと視線を感じたのだ。あまりの不気味さに、悪寒が背筋を駆け上がる。
男の脚が、その視線を遮った。
顔を上げると、今度は男と目が合った。その鋭い目つきに一瞬ひるんだものの、きちんと顔がある人だという安心感の方が今は大きかった。
少し体を屈めた男が、沙凪に手を伸ばす。
手を貸してくれるのかと思いきや、沙凪の襟首をつかみ、乱暴に引き上げた。
「走れ」
「えっ、ええ?」
そのまま男に引きずられるように、塔へと走る。
足音に気づいて後ろを振り返る。
さっき人型の何かが来た方角から、同じような人影がたくさんこちらに向かって走ってきていた。ぱっと見で二十はいる。嘘でしょ! 胸の中で悲鳴を上げながら、懸命に走る。
つなぎ姿の男は、走ってきた勢いのまま塔の扉を蹴破る。勢いよく開いた扉に沙凪も飛びこんだ。
中は天井が高く、円形のホールのようになっていた。天井も壁も床も、外壁と同じく真っ白だ。
「手伝え!」
男が入り口を閉めようと肩で扉を押していた。慌てて沙凪も扉を押す。
開く時はスムーズだったのに、扉は信じられないくらい重たかった。急に蝶番が錆びたみたいに、なかなか動かない。体を斜めに傾け、足をふんばって肩で扉を押す。ふたりがかりで、ようやく少し動いた。勢いに乗せて一気に押しきる。
だが閉まる寸前、反対側から何かがぶつかってきた。扉のすき間から、何本も黒い腕が入りこんでくる。手は沙凪たちを探して空をつかむ。沙凪はできるだけ黒い手から顔を遠ざけて必死に扉を押すが、じわじわと押し戻されていく。
突然、男が手を放した。かと思うと助走をつけて扉を蹴る。
重たい音をたてて、扉が完全に閉まった。
ちぎれた腕がボトボトと床に落ち、陸に上げられた魚のようにのたうち回る。あまりの気持ち悪さに、沙凪は思わずあとずさっていた。
腕の断面からは、血のかわりに黒い霧のようなものがもれ出ていた。動くたびに霧が勢いよく噴きだす。やがて、腕全体がぼやけた。膨張したかに見えた腕は、砂絵を吹いたようにさらさらと細かい粒子になって流れていく。真っ白な床の上が一部、黒い霧に包まれた。黒い霧はある程度拡散したところで散り散りになり、あとかたもなくなった。
腕が、消えた。
あのヒレみたいなものを腕と呼んでいいのかわからないけれど、とにかく消えた。
そもそも、あいつらはいったいなんなのだ?
混乱して、ちっとも考えがまとまらない。
「まったく、とんだ悪夢だな」
男が低い声でつぶやいた。
言葉が通じるというのは、この状況ではかなりの安心材料だ。きっと男もそうだろうと思ったので、沙凪は「そうですね」と相槌を打った。
近くで見ると大柄な男だった。年齢は四十代か五十代くらいだろうか。よく見れば、短い髪や数日剃っていないらしいヒゲには、白いものが混ざっている。紺色のつなぎはかなり使いこまれていて、裾がすり切れていた。
「お前、名前は?」
男が沙凪に問いかける。
「あ、えっと、新島です」
「新島、何?」
「沙凪です」
「は?」
乱暴に聞き返され、沙凪はビクッと肩を震わせる。
「……沙凪、です。新島沙凪」
おびえたカメのように首をひっこませた沙凪を男がにらんだ。
「知らないな」
こっちのセリフです。のどまで出かけた言葉を飲みこむ。
窓も明かりもないのに、室内はしっかりと見渡せるだけの明るさがあった。壁や床が発光しているような不思議な、淡い明るさだ。柱や梁などはひとつもない。壁沿いに上へ行く階段が伸びている。
「まあいい。とっとと、ここから出るぞ」
男はなぜか扉に背を向けて歩き始める。当然沙凪がついてくると思っているのか、あるいは置いていくつもりなのか、男はすたすたとホールを横切っていく。
状況についていけていない沙凪は、慌てて男を呼び止めた。
「あ、あの! どこへ行くんですか?」
めんどうくさそうに立ち止まった男が、首だけ振り返る。
「上だ」
「上には、何が?」
「さあな」
俺に聞くな、とでも言いたげな、ぶっきらぼうな返事だった。
「この扉から出るのは、ダメなんですか?」
「やつらがまだ外をうろうろしてるぞ」
「もちろん、いなくなるまで待ってってことになりますけど」
「どうやって外の様子を見るんだ?」
沙凪は答えに詰まる。部屋をもう一度見回してみるが、他の出口はおろか、通風孔すらない。
「ほんのちょっとだけ扉を開けてみるとか……」
「外を覗く役はお前がやれよ」
男が真顔で引き返してきた。そのまま沙凪の横を通りすぎて、まっすぐ扉へ向かう。
「え、ちょ、ちょっと待って! 本当に開けるんですか? ダメ元で言ってみただけ……」
続きは、男が扉を蹴る音に遮られた。
余韻が部屋全体の空気を震わせる。音からして相当の力で蹴ったはずだが、扉は開くどころか靴跡すらついていなかった。
男は納得したように小さくうなずく。
「出口は消えたようだな」
まさか、と思い、沙凪は扉に駆け寄る。そもそもこの扉にはノブがなかった。つるりとした壁に切れ目が入っているだけで、すき間は爪の先も入らないほどぴったり閉じている。試しに押してみたが、やはりびくともしない。出られないと分かった途端、白い壁で密閉されたこの空間が恐ろしくなる。
そんな沙凪を見透かしたように、男が言う。
「他に行き場もない。だったら大人しく上へ行くべきだと俺は思うがね」
沙凪は男を見た。どうしてこの男はこんなに冷静でいられるのだろう。得体の知れないものに襲われて、塔に閉じこめられたというのに。
そもそも、この男はいったい何者なのだ。少なくとも沙凪に危害を加えるつもりはなさそうだが、さっきの動きを見る限り、ただ者ではなさそうだ。
「あの、あなたは……」
つなぎのポケットに手を突っこんだ男が、沙凪を見下ろす。
「で、来るのか? 来ないのか?」
沙凪の質問は無視された。
上へ行くと言う男に、沙凪はとりあえずついていくことにした。男の言う通り、他に道はないし、何より、ひとりになりたくなかった。
階段の上にはてっきり二階があるのかと思っていたが、天井をすぎたあともずっと階段が続いた。壁も天井も白い石のような素材に囲まれた螺旋階段を、延々とのぼり続ける。
窓も踊り場もないので、どれくらい上がってきたのか分からないが、かれこれ十五分は歩いている。それなのに、まだ次の階にたどり着かない。
沈黙に耐えきれなくなった沙凪が声をかけた。
「あの……さっきの人たち、なんなんですか?」
男は足を止めずに答える。
「俺はイミューンと呼んでる」
「イミューン?」
「呼び名はなんでもいい。とにかくやつらは集合体で、基本、単体では動かない。だから厄介だ。心がなければ感情もない。やつらを見たら、とりあえず逃げろ。捕まったら下へ引きずりこまれるからな。下からもう一度上がってこられる保証はない」
「地下ってことですか?」
「まあ、大体そんなところだ」
だけど正解でもないらしい。説明がめんどうだからそれでいい、という感じだろうか。知っているのならちゃんと教えてくれればいいのに。沙凪は自分の唇がとがるのを感じた。
でも、現段階でそこを掘り下げて質問するのはためらわれた。幹を理解していないうちにいくら枝葉の説明をされても、右から左に流れるだけだ。かといって、幹を理解するために何を聞けばいいのかも、分からない。
だから必然的に、男が一方的に沙凪に質問する形になった。
「お前、ここに来る前、どこで何をしてたか覚えてるか?」
沙凪は答えられない。
どこに住んでいて、どんな仕事をしていて、休日をどうすごしているのかは思いだせる。しかし、ここ最近の自分の行動がまったく思いだせなかった。昨日何をしたのかはおろか、今日の日付も分からない。
「俺もだ。ここに来る直前の記憶だけすっぽり抜け落ちてやがる」
「それって、変ですよね?」
「お前が忘れるのは珍しいことじゃない。問題は、俺が何も覚えて……」
男が足を止めた。沙凪もつられて顔を上げる。
階段がそこで終わっていた。行き止まりの壁には、壁と同じく白い扉がある。塔の入り口を小さくしたような、取っ手のない両開きの扉だ。
男が扉を開ける。
扉のすき間からあふれた白い光に、沙凪は目を細める。階段同様、床も壁も天井も真っ白な廊下が伸びていた。
「……っ」
男の動きが止まる。
「どうしたんです?」
男の背中越しに中を覗きこもうとした時、突然男がすごい勢いで腕を引いた。取っ手がないから、勢いだけで扉を閉めたのだ。危うくひじが顔に直撃するところだった沙凪は、文句まじりに男の背中に問いかける。
「なんなんですか?」
男は答えない。男の視線は、まだ扉の向こう側に向けられているようだった。
「あの……」
沙凪がもう一度声をかけると、男は後ろに下がり扉からゆっくりと離れた。
「お前が開けろ」
うわっ、押しつけた。何、何が見えたの?
「私が、開けるんですか?」
「その方がよさそうだ」
「開けたら急にイミューンが襲ってくるってことは?」
「ないとは言えないが、たぶん大丈夫だ」
その自信はどこから来るのだろう。とにかく男は自分で開けるつもりはないらしい。
でも、あまり長い時間一箇所にとどまっていると、イミューンがまた襲ってくるような気がして怖い。戻るわけにもいかないし。進むしかないか。
沙凪は諦めて前に出る。
小さく息を吐くと、扉に手をつき、ぐっと押す。初めは少し引っかかる感じがあったけど、少し開いてしまえばあとは軽く押すだけで開いた。
沙凪は、目の前の光景に息をのむ。
世界が上下ふたつに割れたみたいに見えた。水平線を境に、青空と、それを映す水鏡が広がっている。他には何もない。
一歩、中へ足を踏み入れてみる。
そっと水面に足を下ろすと、水たまり程度の深さしかなかった。安心して後ろ足も扉をまたぐ。靴を中心に波紋が広がった。それに呼応するように、小さな波紋がいくつも生まれていく。
雨が降っていた。霧みたいに細かく、さらさらと優しく降り注ぐ雨だ。
けれど上を見上げてみれば、空は青く晴れていた。お天気雨かと思ったけど、ぽつりぽつりと真っ白な雲が浮いているだけだ。ぐるりと周囲を一周見回してみたけど、やっぱり雨雲はない。
無意識に顔の上に手をかざしていた沙凪は、違和感に気づいた。その場でもう一周してみるが、なんの躊躇もなく目を開けていられた。やっぱりそうだ。
この空には、太陽がない。
後ろを振り返ると、水たまりの上に、白い扉と枠だけが立っていた。その様はなんていうか、格式高いどこでもドアという感じだった。開いた扉の向こうに白い階段が見えて、沙凪はここが塔の中であることを思いだした。
男も扉をまたいで水たまりに立つ。
「何か思いだすか?」
意味が分からず、沙凪は首を傾げる。
「えっと、すみません、それってどういう……」
突然、子どもの笑い声がした。
バシャバシャと水を蹴散らしながら、傘を差した子どもが走り抜けていく。ドアの後ろから、色とりどりの傘を持った子どもが次々に現れ、ふたりの横を通過していった。
思わず身構える沙凪に、男が囁く。
「心配するな。敵じゃない」
「でも……」
「爪や牙みたいな攻撃的なもんが表に出てなければ、大抵は無害だ」
確かに、無邪気にじゃれ合いながら駆けていく姿は、普通の子どもとなんら変わらない。ただ、顔だけはイミューンと同じようにぼやけていて見えない。キャッキャと笑う声がするのに、顔のどこからその声が発せられているのか分からないのは、なんとも不気味だった。
横から広がってきた少し大きめな波紋が、沙凪の靴にぶつかった。
波紋が来た方向に視線をやると、沙凪のすぐ横に、男の子が立っていた。
沙凪はその子に見入ってしまう。
その子には、ちゃんと顔があったのだ。
あごのラインは細く、顔の真ん中にちょんとかわいい鼻がついている。瞳は透き通るような明るい茶色だ。
そのままおたがいの顔を見合っていると、男の子が傘を差しだした。入れてくれるということだろうか。
沙凪は体を屈めて、黄色い傘の下に頭を入れてみる。男の子はそれで満足したらしく、他の子たちの向かった方向へ歩き始めた。沙凪もそれに合わせて歩く。体を屈めたまま歩くのはなかなか大変だし、入りきらない腰からは下は雨にぬれているけれど、せっかくの気持ちを無下にしては悪いので黙ってついていく。
ふと、視線を感じた。
少し離れたところに、ふたつ結びの女の子が立っていた。ビニール傘を差してたたずむその子も、男の子同様、顔をはっきりと認識することができた。こちらに寄ってくるでもなく、ただじっと私たちのことを見つめている。無表情だけど、一瞬たりとも目を離そうとしない。
「ねえ、あの子、知り合い?」
男の子は答えない。女の子のことなど目に入っていない様子で、ぐんぐん歩き続ける。
その時、クスクス、と笑い声がどこからか聞こえた。
沙凪は後ろを振り返るが、そこに人の姿はなく、だだっ広い水たまりが広がっているだけだった。
不思議に思っていると、また背中の方から、クスクスと聞こえてきた。
今度はさっきよりも素早く振り向いてみる。やはり、だれもいない。
どっちを向いても、あざ笑うような笑い声は背中にはりついて離れなかった。笑い声が鼓膜の奥でこだまして、だんだん、どっちから聞こえてくるのかわからなくなってくる。あたり一面、笑い声に包まれているみたいで、耳が、頭が、くらくらする。
耳を手で塞ぎ、固く目を閉じて、すべてを拒絶する。
その途端、笑い声がやんだ。
笑い声だけじゃない。
小雨が水面を叩くかすかな音以外、何も聞こえなかった。
目を開けると、横にいたはずの男の子の姿がなくなっていた。離れたところでこっちを見ていたはずの女の子もいない。そこら中を駆け回っていた子どもたちも、いなくなっていた。
あたりを見回した沙凪の視線が、水たまりに浮く水色の何かを見つけた。
自然と足が吸い寄せられていく。
それが何か分かった瞬間、沙凪ののどが引きつった。
ハンカチだ。
胸がぎゅうっとしめつけられ、うまく呼吸ができなくなる。
水色のタオル生地のハンカチを拾う。水を吸ってずっしりと重たくなったハンカチは、持ち上げると水が滴った。
その時だ。
水面を突き破って黒い手が伸びてきた。沙凪の手首をつかむなり、水面の下へと引きずりこむ。とっさに反対の手を地面につくと、もう一本黒い手が伸びてきてそっちもつかまれた。氷を踏み抜いたみたいに、手の平が触れていた地面が突然消えて、ひじまで一瞬で水に沈んだ。体を支えるものがなくなり、顔から前へ倒れていく。
落ちる。
そう思った瞬間、がくんと体が揺れて止まった。上半身が何かにつり上げられている。
「ふんばれっ」
頭の上から男の声が降ってきた。
首を回そうとしたけど、シャツの襟で首がしまった。男がシャツの背中をつかんでいるのだと、遅れて理解する。
けれど沙凪の両手をつかんだ何かは、引っぱる力を弱めない。腕がちぎれるのが先か、シャツがちぎれるのが先か。襟が首に食いこんで、息が止まる。
水面にはあせる自分の顔が映るだけで、腕が沈んだ向こう側は見えない。いくら腕を引っこめようとしても、手首のところで何かが引っかかる。いったい何が、と思ったところで、沙凪は右手につかんでいたハンカチを離した。
すぽんと水たまりから腕が抜けた。急に解放された反動で、男ともども後ろにひっくり返る。
水たまりに尻もちをついた沙凪は、すぐに立ち上がり後ろへ下がった。またあの黒い手が伸びてくるのではないかと思ったが、そこら中が水たまりでは、手がどこから来るか分かったものじゃない。水たまりに足をつけていることすら怖くて、体を縮こませる。
クスクス、と笑い声が聞こえた。
まただ。
笑っている人間がどこにいるのかは、やはりわからない。常に沙凪の視界の外から聞こえてくる。耳を塞いでも、指のわずかなすき間から滑りこんできた。
笑い声はどんどん大きく、人数も増えていく。
たまらず、沙凪はその場から逃げだした。
目を閉じ、がむしゃらに腕を振り回しながらひたすら走る。どこに向かっているのかなど気にしない。とにかくあの声から少しでも離れたかった。
けれど、笑い声はまだ背中にはりついてくる。声だけじゃない。追いかけてくる足音も聞こえて、沙凪はスピードを上げた。
放っておいて。
私に構わないで。
お願いだから、ひとりにして。
ぐん、と強引に腕を引っぱられた。バランスを崩して地面にひざをつく。
「何考えてんだ、バカっ!」
目を開けた沙凪は、驚愕した。
座りこんだひざの数十センチほど先で、地面が途切れていた。
いや、地面ですらない。
沙凪は透明な傘の上にいた。すぐ脇では川のような勢いで水が流れており、傘の縁から轟音を響かせて流れ落ちていく。滝の下は別の傘が開いていた。水はさらに下の傘へと落ちていくが、そのあたりは水しぶきで煙ってよく見えない。
いつの間に、こんなところに移動したのだろう。
空は相変わらず晴れたまま小雨を降らしているが、あたり一面、びっしりと傘で埋め尽くされていた。絵の具セットにある色を全部使ったってまだ足りないくらい、さまざまな色の傘がひしめき合っている。大きさも通常サイズから、軽い丘くらいあるものまで、まちまちだ。それらが群生する花のように重なり合っていて、地面を覆い隠している。
弾む息を整えながら、沙凪は男を見上げる。滝のしぶきを顔に受ける男が沙凪をにらんでいた。
「いいか、覚えとけ。世界が変わり始めたら絶対に動くんじゃない! 一歩先に地面がある保証はないんだぞ。おい、聞いてんのか」
沙凪は男の手を振り払っていた。
またそうやってわけの分からないことを、当たり前みたいに並べ立てる。ろくに説明もしないくせに、怒鳴って、命令して。何がしたいのだ、この男は。唇が震える。
「世界とかイミューンとか、そんなの私には関係ない! 私はただ帰りたいんです!」
言い終わったあとも震えが止まらなかった。感情任せに大声をだしたことなど、人生で数えるほどもない。
「お前、まさか、気づいてなかったのか?」
今までと違う男の口調に、沙凪は顔を上げた。
男の顔はもう怒ってはいなかった。じっと沙凪の顔を見つめている。そして、沙凪がまったくその言葉の意味を理解していないと見るや、大げさにため息をついた。
「夢だ。この世界も、できごとも、全部お前の夢なんだよ」
沙凪はただただ言葉を失った。
男の言葉が頭の中で何度も反響するが、なかなか言葉が頭になじんでいかない。
ようやく理解が追いついても、そこから新たな疑問が湧き、思考が止まる。
これが、夢?
ならば、いったい、いつ眠った?
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