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【短編小説】タイムリミット(『罠』トリビュート小説)

生きるために、命を差し出す。

■あらすじ
違法な臓器売買をおこなう組織に捕まった娘を救出するため、刑事は死神とともにアジトへ乗り込む。
娘の〈契約〉が確定する前に。
自身の〈返却期限〉が来る前に。
※流血表現あり

THE YELLOW MONKEY『罠』のトリビュート小説

「ブレーカーはどこだ」
「一階にそういうのまとまってる部屋があっただろ」
「一階のどこ!」
「知らねえよ、自分で探せ!」
 男たちの会話が非常階段を駆け下りていく。
 男たちをやりすごした俺は足音を忍ばせ、真っ暗な階段を駆け上がる。
 もともとラブホテルだった建物なので、通路にも階段にも窓は少なく、小さい。その窓も今はすべて板で塞いである。それがあだとなって、停電したホテルは暗闇と混乱に包まれていた。
 階段とフロアの出入り口に男が立っていた。男の目は客室の方を向いている。
 確信する。ここだ。
 俺は慎重に忍び寄り、背後から男の首に腕を回す。油断していたのできれいに頸動脈が決まり、男は抵抗もむなしく、数秒で意識を失った。廊下を見回すが、他に見張りはいないようだ。
 俺は一番近くの客室の扉を開ける。狙い通り、オートロックのドアは停電で解錠されていた。ベッドしかない無人の部屋に男に入れる。結束バンドで男の手首と足首をベッドの足にくくりつける。仕上げに男の口にシーツのはしを押しこんだ。
 廊下に戻り、客室のドアをひとつずつ開けていく。室内を懐中電灯で照らす。最近人が使った形跡はあるが、だれもいない。だがきっとこのフロアだ。警備の効率を考えるなら、監視対象は一箇所にまとめるはずだ。
 通路に敷いてある絨毯のお陰で足音がほとんどかき消されるので、小走りで移動ができるのは好都合だった。配電盤を壊したのですぐに電源が復旧することはないだろうが、侵入者に気づいて警戒するはずだ。相手の正確な人数がわからない以上、急ぐに越したことはない。それでなくとも、時間がないのだ。
「時間がないのは、お前もだがな」
 俺は足元をにらむ。ライトで照らすと闇の中に黒猫が姿を現した。まぶしがる素振りひとつ見せず、金色の目でこちらを見上げている。
「勝手に心を読むなって何度言えばわかる」
「我々には発声言語も思考言語も同等なのだ。致し方あるまい」
 構っているひまはないので、俺は部屋の探索を続ける。黒猫は俺の後ろをついてくる。
「今のお前に、他人にかまけていられるほどの余裕がないのは事実だ。返却期限はすぐだ。そろそろ決めた方がいいんじゃないか」
「急かすならお前も少しは協力しろ」
「お前の血縁なら、三つ先の部屋にいるが?」
「早く言え!」
 言い終わるより先に駆け出していた。
 三つ目のドアを開ける。
 暗い部屋の中、スマホの青白いライトが浮かんでいた。ライトで照らすと、ベッドの上にあぐらをかいた娘がこちらを向いた。
「まだ電気戻らないの? クーラーないと死ぬんだけど」
 のんきな言葉に、緊張感が削がれかける。だが自宅のテレビの前に寝転がっているときと同じ言い草に、ホッとした。
 部屋には娘ひとりのようだ。中に入った俺は静かにドアを閉め、ベッドに近寄る。すると急に娘は身を固くした。
「なに? 私部屋から出てないよ。なに、なにすんの」
「落ち着け、俺だ」
 娘に声をかけながら自分の顔にさっと光を当てる。それで娘も相手がだれだか気づいたが、警戒は解かなかった。
「うそ、なんで……こんなとこまで探しに来たの」
 明らかに歓迎されていない声音が、ボディーブローのようにずんと響いてくる。刑事という職業柄、他人から警戒心や敵意を向けられることには慣れているが、家族が相手だとどういうわけか、ささいなひと言でもガードをすり抜けて急所に入ってくる。
 だが今は悠長に家族関係を修復している時間はない。俺はライトで娘の体をひととおり確認する。タンクトップにショートパンツというリラックスした服装で、すらりと伸びた手足にも、顔にも、目に見える傷や異変はない。だがそれにすら娘は「なに見てんだよ」と声を尖らせ、シーツで体を隠してしまう。
「頼む、今はケンカしてる時間はないんだ。早くここから出るぞ」
「ほっといてよ」
 娘はそっぽを向いてしまい、取りつく島もない。娘が家出したときから、俺たちの状況は少し変わっていなかった。俺の言葉だというだけで、娘は受け取ることすら拒否する。
 だが違和感もあった。いつもどおりすぎるのだ。この異常な環境で最初に出てくるのが父親に対する嫌悪なのだとしたら、可能性はふたつ。すべてを理解し納得した上でここにいるか、あるいは捕まっているという自覚がないか。それ次第で、状況は変わる。
 俺は腰を落とし、娘の顔を見つめる。
「わかった。これだけ教えてくれ。大事なことなんだ」
 娘の目がこちらを向くのを待って、切り出した。
「契約したか?」
 娘の顔が凍りついた。それだけで十分だった。
 俺は思わず目を閉じる。遅かった。いくつかあったシナリオの中の、一番恐れていたものが現実となりつつある。どうして、よりによって。歯噛みした俺は、次へ切り替える。
「いつだ。なにを差し出した」
 娘は動揺するばかりで答えない。俺は黒猫を見る。
「間に合う。だが急げ」
 答えた黒猫に、娘が顔を引きつらせる。
「猫がしゃべってる……」
 黒猫は自分の体を見せつけるように、尻尾をくねりとする。
「人間になじみのある姿の方が警戒心が和らぐからな。どうだ、なかなかいい毛艶だろう?」
「あんた、なに……」
「私はこいつの担当死神だ。こいつとの契約更新が迫っているのだが、お前を救出するまでは手続きしないと言い張っていてな。仕方なくここまで一緒に来てやったのだ」
 余計なことまでべらべらと。しかし口をはさむ隙間もなく黒猫はしゃべり続ける。
「人間ではお前はもう一人前の年齢であろう? ならば自由にさせろと言ったのだが、聞く耳を持たんのだ」
「そうだよ。もう大人なんだから、私がなにしようが私の勝手だっつうの」
 娘は我が意を得たりとばかりに意気込む。黒猫は同調するようにうなづく。
「重要事項を聞いて、契約内容を理解した上で契約したのであろう? であればなんの問題もない」
 娘の顔からすっと表情が抜け落ちた。
「重要事項って?」
「聞いていないのか? 契約前に担当から説明があっただろう」
「いや、特に……」
 娘は本当に心当たりがないようだ。黒猫のせまい眉間にシワが寄る。
「お前はどういう契約を交わしたのだ?」
 娘はちらっと俺を見て躊躇ちゅうちょしたが、ここで隠しても意味がないと気づいたのかボソボソと答えた。
「臓器の悪い部分を売ったら、借金減らしてくれるって」
 娘の付き合っていた男が、勝手に娘を保証人して闇金から金を借り、消えた。闇金は娘に返済を迫ったが、とても払える金額ではない。するとこの取引を持ちかけられたのだという。研究目的で病気の臓器を必要としているやつらがいる。そいつらに臓器を売れば、その分、借金を減額してやると。売るといっても病気の部分を切り出すだけと聞いていたらしい。そしてここに連れてこられ、契約を交わした。残りの借金を返済するまでここで暮らすことを条件に、別の仕事の口も紹介してくれると言われたらしい。
 途中から俺は頭痛がしてとても聞いていられなかった。最初にひとこと俺に相談してくれていれば、返済の必要はないと教えてやれた。守ってやることができた。それができない状況を作ったのは、他ならぬ自分自身だ。やりきれないいらだちが腹の奥でぐるぐると渦巻いている。
 今回の件では、自分はあまりに無力だ。
 刑事としての自分もそうだ。捜査の過程で闇金が囲っている債務者の中に自分の娘がいると知っても、正当な手段で救える手立てはなかった。だからひとりで乗り込むしかなかった。
 去年から、臓器を抜き取られた死体が遺棄される事件がぽつぽつと起きていた。違法な臓器売買をやっている連中がいると見て捜査してきて、被害者は同じ闇金から金を借りていたことまではつかんだ。しかし肝心の臓器が取引された形跡がどこにもなく、捜査は完全に立ち往生になっている。それもそのはずだ。臓器は全部死神が持っていっていたのだから。証拠など残るはずがない。目の前に真相が出そろっているのに、捜査機関は手出しができない。歯がゆさに握りしめた拳が震える。
 ひととおり娘の話を聞いた黒猫は断言する。
「まず誤解があるようだが、借金と契約はまったく別の話だ。我々が契約を介して取引するのはただひとつ。命だ」
 暗闇の中でも、娘の顔が青いのはわかった。自分が思っていた以上にまずい状況にいることが、だんだんとわかってきたようだ。
 黒猫が続ける。
「お前が結んだ契約は自分の臓器を差し出し、別の健康な臓器を借りるものだ。もちろんタダじゃない。今は差し出した臓器の価値で相殺できているが、そう長くはないだろう。返却期間が来たら、選択を迫られる。延長するか、返却するか」
「返却って……」
「文字通りだ。その臓器がなくなる」
「私の臓器は返してもらえないの?」
「お前の担当は本当になにも説明していないんだな」
 黒猫が表情を変えずに話し続けるが、尻尾の先はいらいらと床を叩いていた。
「契約を交わした時点でお前の臓器はもうお前のものではない。だからかわりの臓器を借りるんだ」
「じゃあ、借り続けるしかないってこと?」
「生命維持に不可欠な臓器ならば、そうなるな。貸出期間を延長するには新たに費用が発生する。つまり、他の部位を差し出すことになる。見たところ残りの部位は健康そのものだから、大した価値はつかないだろうがな」
 死神は死に近い肉体、つまり病気やケガで傷んだ部位を好む。だから健康であればあるほど、取引の価値が下がる。一見すると、悪い臓器を取り除いて健康なものと取り替えてくれるのだから、人間に都合がよさそうに見える。だがこれは更新のタイミングでひっくり返る。生きるために別の部位を差し出さなければならず、健康であるがゆえに価値が低く、延長できる期間は短い。そうやってジリ貧へ追い込まれていく。
 娘はベッドの上で小さくなって黙りこくる。最初から騙されていたというショックを受け止めきれないのだろう。あるいは薄々気づいていたのかもしれない。目を背け、考えないようにしていたために、自分の体で代償を支払うはめになってしまった。家出をして悪ぶっているが、数年前まではごく普通の学生だったのだ。社会の裏側に広がる底なし沼の存在を知るはずもない。
 俺は俺で、そんな娘にかける言葉ひとつ見つけられず、ただ自分の不甲斐なさに立ちすくむしかない。
 いつの間にか、黒猫はベッドの上に上がっていた。黒い体は目を離した瞬間にライトの光をすり抜けて、闇にまぎれてしまう。黄色く光る目だけが、娘の正面に黒猫がいることを教えてくれる。
「幸い、お前にはもうひとつの選択肢がある。クーリングオフだ」
 死神とはあまりに不似合いな言葉に、娘は目をぱちくりさせる。気持ちはわかる。俺も初めて聞いたときは同じ反応をした。
「クーリングオフって、あの?」
 黒猫は、他にあるのか? という顔で続ける。
「我々の契約も同じだ。締結から一定期間であれば帳消しにできる」
「する!」
「ならば、まずはお前の担当を呼ぼう」
 黒猫は自分の言葉を娘に復唱させる。
「契約者として求む。契約の解消を」
 娘も俺もじっと待った。しかしなにも起きない。本当にこれでいいのか? と黒猫に尋ねようとしたとき、ふいに声が聞こえた。
「なるほど、貴様の入れ知恵か」
「おや、まさかあなたが担当だとは」
 黒猫は意外そうな顔で、部屋のすみを見やる。
 ライトの光が届かない暗闇の中から、白衣を着た男がぬるりと現れた。中肉中背、年齢不詳、長すぎず短くもない髪型に、どこにでも売っていそうな四角い眼鏡。平凡な人間を集めて平均を取ったような無個性な外見だ。それなのに、男が現れた瞬間から俺は鳥肌が止まらなかった。それは動物の剥製に覚える違和感に近い。ガワは本物だが、中身は決定的に違う。初めて黒猫を見たときにも感じたが、この男はもっとおぞましい。まるでいくつもの人間のパーツをツギハギしたような……。
「なんの用だ」
「ただの付き添いだ。私のことは気にせず、仕事をしてくれ」
 白衣の男はまだ言いたいことがありそうだったが、黒猫から娘へと視線を移した。男の目は、木のうろのようにうつろだ。口以外の顔の筋肉は力なく垂れ下がったまま動かず、まったく感情が読めない。
「解消と言ったか?」
 娘がうなずく。娘もまた白衣の男から異様なものを感じているらしく、目を合わせない。
 沈黙が流れた。
 俺はシャツの襟に指を入れて、汗ばんだ首に空気を入れる。空調が止まった部屋はじっとりと暑くなってきた。
 やがて、白衣の男は指をパチンと鳴らす。なにもないところから突如、羊皮紙のような少し厚みのある紙―契約書が現れた。白衣の男はその紙に目を通す。
「まあいい。この程度ではどうせ腹の足しにもならん」
 白衣の男がもう一度指を鳴らすと紙は燃え上がり、灰も残さず消えた。
「臓器は戻した。これにて契約は解消だ」
 当の娘はきょとんとした顔をしている。俺はおそるおそる声をかけた。
「体はどうだ? 変なとこないか?」
「わかんない。なんにも変わった感じしないけど。……これで終わりなの?」
 娘は黒猫に尋ねる。
「ああ。すべて元通りだ」
 その言葉を聞いた俺はホッと息をついた。これで娘は自分と同じ目にあわなくて済む。
 最大の懸念は回避した。あとはここから娘を連れ出すだけだ。ここまで思ったよりも時間を食ってしまったから、急がなくては。
 安堵の笑みを浮かべる娘に、俺はもう一度声をかける。今度はしっかりと、目を合わせて。
「ここを出よう。そうすればお前が抱えている問題は解決できる。正当な手段でだ。その先のことも、今度はちゃんと話を聞く。俺とは話したくないって言うなら、それでもいい。だから頼む。今だけは俺と一緒に来てくれ」
 娘の目が揺れる。
「でも……」
 娘が怯えの混じった目でドアの方を見た。おそらく、勝手に部屋から出たらひどい目にあわされると思っているのだろう。廊下に警備を立たせるくらいだから、こけおどしではないはずだ。
 だが言葉は届いている。娘が俺の言葉を受け止めようとしている。この部屋に入ってから初めてのことだ。なんとかなるかもしれない。ひと筋の光が射した気がした。
 水を差したのは、白衣の男だった。
「他人の商売を邪魔するのは道義に反するぞ」
「ではこのような品のないやり口を、ご自分の商売だとお認めになるので?」
 黒猫がはっきりとトゲのある言葉で白衣の男をにらみ返す。
 白衣の男の唇が歪む。片側だけが不自然に持ち上がり、機械的なまでに整った歯が見えてようやく、男が笑っているのだとわかった。
「私の商売ではない。――彼らのだ」
 その時、ドアを蹴破って男たちが飛びこんできた。
 男のひとりが腕を振り上げる。赤黒いその腕の先には、指のかわりに猛禽類のような鉤爪がついている。
 俺が立ち上がったときには、もう鉤爪が顔の目の前に迫っていた。
 

 騒がしい足音と男たちの怒号が廊下へと出ていったあと、部屋に残ったのは私とやつだけになった。飛び散った血が絨毯に染み込んでいく。
 人間同士のいさかいに興味はない。しかし今回はそうも言っていられないようだ。
 私はやつ――白衣を着た人間の姿をしている死神に視線を向ける。
「人間に悪魔の肉体を貸すなど、いったいなにを考えている?」
「彼らは上客でな。新たな契約者候補を連れてきてくれる。だから契約が成立した暁には、少しばかり謝礼を与えてやる。それが礼儀というものだ」
 言葉こそ丁寧だが、その口調は人間へのあざけりがはっきりとにじんでいた。
 悪魔の肉体に、人間の精神が長く耐えられるはずがない。おそらくそのことも、あの男たちには説明していないのだろう。上客ですら使い捨てということか。
 やつが短期間で急に位を上げた理由はこれだったのだ。人の欲に染まりおって、愚か者が。
「このことは理事会へ報告させてもらう」
 重要事項の説明義務を怠り、特定の契約者への過度な便宜べんぎ供与。いずれも重大な倫理規定違反だ。やつがこの間に上げた位は剥奪。さらなる降格もあり得る。
 だが今この場ではやつの方が格上だ。品格がすべての死神は、決して格上に逆らわない。それがやつの余裕となって態度に現れる。
「貴様こそ、ずいぶんと契約者を甘やかしているようじゃないか」
「私は人間に興味があるだけだ」
 おもしろい話をしてやろう。ある親子の話だ。
 親子三人で交通事故にあった。私は死にかけていた母親と契約するつもりだった。だが母親は、自分の命で息子の心臓を借りることを選んだ。生まれたばかりの息子の胸には割れたガラスが刺さっていて、こちらも死にかけていた。私は母親の傷ついた肉体すべてと、ガラスが刺さった小さな心臓と引き換えに、健康的な小さな心臓を息子に貸した。契約と同時に死んだ母親から契約を引き継いだ父親は、来たる契約更新の日のため、不摂生ふせっせいに勤しんだ。そうしてあらゆる病気と病気予備軍を蓄えた肉体を私に差し出し、息子の心臓の貸出期間を延長した。
「生への執着、種の存続。それは生命体に備わった本能だ。しかし人間は、自己を犠牲にして他人を守ろうとするときがある。死への恐怖と自己犠牲が同時に存在する不可解さに、私は強い関心を持っている。――だから私はあなたを軽蔑する」
 相手がだれであろうと、公平にその死を喰い物にすることが我らの矜持きょうじ
「死神でありながら死を軽視するなど、恥を知れ」
 

 外側からドアを叩かれるたび、部屋が揺れる。施錠したドアを棚やロッカーで塞いで、なんとか男たちの侵入を防いでいる。鉤爪や、岩のような硬い腕や、細かい鱗で覆われた尻尾など、人ならざる肉体を持っているやつらでも、無骨な鉄製のドアは簡単には破れないようだ。これで少しは時間が稼げそうだ。
 俺は壁を背に座りこんだ。左の目のあたりを押さえる手が緩むと、熱い血があふれてきた。アドレナリンが出ているのか、傷みはそれほど強くない。そのかわり、体が重たかった。じっとしているのに息が切れる。暗くて見えないが、ぬれた感触でかなり出血しているようだ。
 俺たちが逃げ込んだのはせまい用具室だった。俺のスマホのライトを使って部屋を見回していた娘が、リネンの段ボール箱を見つけ、中から新品のタオル引っぱり出す。
「これで押さえて」
 受け取ったタオルを左目にあてる。傷は手の平におさまりきらない大きさだった。眉尻あたりから鼻の近くまで、深い傷が三筋走っているようだ。眼球がどうなっているかは怖くて今は考えたくない。
 そんな俺のかたわらにしゃがみこんだ娘は、どう声をかけていいのかわからずにいる。単にわだかまりが邪魔をしているのか、容態を聞くのがはばかられるほど重症に見えるのか。あるいはその両方かもしれない。
「これからどうするの」
 ようやく口にした娘の言葉は、不安で震えていた。
 俺は改めて部屋を見回す。天井の近くに換気扇がついているだけで、窓はない。ドアの向こうには歩く凶器ども。完全に袋のネズミだ。どうやら外の手を借りるしかなさそうだ。仲間に迷惑をかけたくなかったが、そうも言っていられない。
「助けを呼ぶ。スマホを」
 娘が差し出したスマホを受け取ったときだ。
 胸から背中へ激痛が突き抜けた。
 スマホを取り落とし、床に崩れ落ちる。そのまま一ミリも動けなくなった。
 今まで感じたことのない痛みだった。左目の傷がかわいく感じるほどの激しい痛み、というよりも衝撃に近い。電球が明滅するように小刻みに、強烈な痛みが胸を締めつける。目の前が白黒する。
「なに、どうしたの、ねえ!」
 動揺した娘が俺の背中を揺さぶるが、返事する余裕はなかった。全身が強張って呼吸ができない。顔や背中から脂汗が噴き出す。
 なんだ。
 なにが起きている。
 鼓動がめちゃくちゃなリズムを刻み、そのたびに血管を通る血液が急ブレーキと急発進を繰り返しているのがわかる。
 体が熱い。
 このままじゃ、死――
「だから急げと言ったのだ」
 いつの間にか、床にうずくまる俺の顔の前に黒猫が座っていた。暗闇で怪しく光る金色の瞳が俺を見下ろす。
「で、どうする? 延長か、返却か」
 そうか、いよいよ返却期限が来たのか。なんだか妙に納得している自分がいた。
「その目玉はどうだ? 今なら高く引き取ってやるぞ。物理的に悪魔に傷つけられた人間の肉体は、さすがの私も味わったことがない」
 どこか楽しげな黒猫の言葉に娘が噛みつく。
「ちょっとあんたなに言ってんの!」
「私とこいつの取り引きだ。部外者は引っ込んでいろ」
「取り引きとか言ってる場合!? こんな苦しんでるんだからなんとかしてよ!」
 娘と黒猫の会話はほとんど耳に入っていなかった。意識が朦朧もうろうとして、音が遠かった。体は熱いのに、手足は氷水にひたしたみたいに冷たく、感覚があいまいになっていく。
 これまでずっと死ぬのが怖かった。その瞬間はきっと、劇的な、恐ろしいなにかが待ち受けていると思っていたから。だが実際は、こんなにあっけないものなのか。なんの前触れもなく、電池が切れるみたいに、あっさりと。このままなにもせずに床に伏せているだけで、その瞬間はやってくるのだ。
 動揺はある。痛みもある。だが不思議と恐怖はあまりなかった。
 父から契約の話を聞かされてから、ずっと決めかねていた。契約を更新しなければ死ぬ。だがそれは死を先延ばしにするだけだ。しかも、自分の尻尾を食うヘビと同じで、いつかは必ず限界が来る。もちろん両親のことは恨んでいない。ただ、頼る相手はもう少し慎重に選んでほしかったと思ったことは、一度や二度ではない。
 それも、ここで終わりにしてしまえば、もう悩むこともなくなる。開放されるのだ。本来ならとっくに死んでいた俺にとって、すでに今がボーナスステージみたいなものだ。もう十分じゃないか。そんな考えが頭をよぎる。
 でも。
 肩と背中に触れる娘の手の感触が、俺を引き止める。
 俺はここで死ねば、娘も道連れだ。もし生かされたとしても、もう二度と表社会へは戻れないだろう。そのあと娘がどんな目にあうか、それがなによりも気がかりだった。
 そして、あと少しでいいから、娘の手のぬくもりを感じていたかった。
 黒猫は、俺の目の前に契約書を広げる。読めない細かい文字の下に、大きさの違う手形がふたつ並んでいた。手の平も指もずんぐりしている方は、おそらく父だ。では、もう片方のすらりとした指の手は母か。
 もしかしたら、ふたりもこんな気持ちだったのだろうか。今では確かめる術もない。
 いいだろう。
 契約を更新する。
 俺の心を読んだ黒猫が目を爛々らんらんと輝かせる。興奮でヒゲが広がっている。
「ようやく決めたか。差し出すのは左目でいいのか?」
 ああ。
「かわりの目は?」
 いらない。貸出費用がふくらむだけだ。俺は一秒でも長く生きなきゃいけない。
 そもそも赤ん坊のときに死んでいた命だ。みっともなくても、苦しくてもいい。どこまでも生にしがみついてやる。
「いいだろう。では、そこに手を」
 俺は苦労して体の下から引き抜いた腕を、契約書へ伸ばした。他にスペースがないので、ふたりの手形の上に手を置いた。手を縁取るように一瞬光が走ると、契約書に俺の手形が残った。ふたりの手形が小さく見える。ふたりの手形は徐々に薄くなって跡形もなく消えた。
「契約成立だ。心臓の貸出期間を延長する」
 黒猫がまばたきすると、契約書がくるりと下から巻き上がり、一本の筒になると同時にどこかへ消えた。
 風が煙を吹き消すように、胸の痛みが消えた。冷たかった手足に血がめぐっていくのがわかる。
 ゆっくりと体を起こす。よろける俺の肩を娘が支えてくれた。
「大丈夫なの?」
「ああ。もう平気だ」
 左目はまだ痛むが、出血は止まったようだ。そっと触れると、眼窩がんかの内側にまぶたが落ちくぼんでいた。本当にないんだな、と事実をすんなり事実を受け入れている自分に少し驚く。実感が湧かないのだ。傷を受けたときからずっと片目を閉じていたから、視野が変わっていないことも大きい。だが今はそれでいい。まだ危機を脱したわけではないのだ。ショックはあとでいくらでも受ければいい。
「安心しろ。クーリングオフ期間がすぎるまでは、いつでも返せる状態にしておく」
 黒猫が胸をはる。死神なんて物騒な名前をしているが、契約に関しては一定の信頼が置ける。
 だから、ふと思いついたことを聞いてみた。
「クーリングオフを放棄したら、少し査定を上げられたりしないか?」
 黒猫が笑った気がした。立ち上がった猫は、期待するように尻尾をうねうねと揺らす。
「残念ながらそのような交渉はできない。それを始めると契約が意味をなくすからな。だが、私と君の間の個人的な約束としてなら、応じる余地はある」
 

 ドアを開けて廊下へ飛び出した。
 必死にドアを破ろうとしていた男たちは、急に開いたドアと突風に一瞬反応が遅れる。その頭上を飛び越えた俺は、娘を抱きかかえた状態で廊下を滑空する。
 背中から生えた大きな白い翼は天井や壁を突き抜けているが、翼が傷むことも、建物が壊れることもない。天使の翼だから人間の創造物には影響しないと黒猫は言っていた。なぜ死神が天使の翼を持っているのかは、なんとなく聞かないでおいた。理由はなんであれ、俺の身長を有に超える翼でも、ホテルの廊下を飛ぶのに不便がないのは大きな救いだった。
 だが翼はよくても俺は違う。スピードを上げれば壁に肩をこすり、高度を上げれば頭が蛍光灯をぶつける。おまけに視界が半分しかないので、どうしても左側の距離感があいまいになる。悪戦苦闘しつつ、抱きかかえた娘だけはなんとか守ろうと、腕に力をこめる。
 廊下の曲がり角が迫ってきた。ところがうまくスピードを落とせない。体をそらし、前方に力いっぱい羽ばたくが止まりきれない。ぶつかる。そう思ったとき、とっさに足が出た。壁に着地し、ひざで勢いを殺す。そのまま壁を蹴って方向を変える。
 だんだんわかってきた。肩甲骨の先にもう一本ずつ腕がある感覚だ。風をつかめる角度を見つけたので、そこをなぞるように動かし続ける。一瞬でも気を抜いたら墜落する。後ろからは男たちがしつこく追いかけてきている。
 俺は飛びながら出口を探した。しかしどの窓も人が通れる大きさではない。やはり一階まで降りるしかないか。下の方が人が多いだろうが、天井ぎりぎりを飛べば外に出られるかもしれない。
 壁を蹴って廊下から階段へ出た。踊り場から踊り場へジャンプするように下っていく。ようやく一階にたどりつく俺の目に、閉じた扉が飛びこんできた。いったん床に下りてドアノブを引くと鍵がかかっている。舌打ちがこぼれた。
 各階を回って大きな窓を探すか。だがあまり悠長にしている時間はない。翼の貸出期間は四分二十一秒。無料だからそこに不満は言えない。だがそれを聞かされた時点で、すでに二分半が経過していたことについては、あとでたっぷり文句を言ってやる。
「屋上に行って」
 娘の声に視線を落とす。
「喫煙所になってるから鍵は開いてる」
 階段の上の方から駆け下りてくる足音がする。迷っている時間はない。
「つかまってろ」
 俺の首に腕を回す娘の体をかかえ直す。
 羽ばたきながら床を蹴ったとき、追ってきた男たちと目が合った。俺は壁を蹴って飛び上がる。男の鉤爪が足をかすめてバランスが崩れたが、なんとか持ちこたえる。追手を振り切って、階段を上昇していく。
 心臓が破裂しそうな勢いで脈動し、息が上がる。
 せまい階段を飛ぶのは想像以上にキツかった。壁を蹴ってピンボールにように方向を変えつつ、翼は羽ばたかせ続ける。大人ふたり分の衝撃を受け止める脚も、常に動かし続けている翼も、俺からぐんぐん体力を奪っていく。娘をかかえる腕も、体を支える背中や腹筋も、とっくに限界だ。
 それでも俺は重たい翼に鞭打ってスピードを上げる。
 急げ。
 おそらくもう何十秒もない。
 永遠に思えた階段が、ようやく途切れた。その先に光が見える。
 丁度、屋上で一服し終えた男が中へ入ってくるところだった。驚いた男はドアノブを握ったまま凍りつく。
 俺はスピードを落とさず足を振り上げる。
 男ごとドアを蹴破って外へ飛び出した。
 間に合え!
 祈りながら俺は屋上の床を蹴る。転落防止のフェンスと隣の雑居ビルを飛び越え、夜の街へまっすぐ降下していく。
 浮遊感とともに、心臓が縮み上がる。俺にしがみつく娘の腕に力がこもる。
 恐ろしい速さでアスファルトが近づいてくる。下へ向かって力の限り羽ばたいてスピードを落とす。落下位置を調整する余裕はなかった。車が行き交う繁華街へどんどん落ちていく。
 あと少し。
 あと数メートル。
 ふいに、翼の感覚が消えた。
 全身から冷や汗が噴き出す。
 落としきれなかったスピードが戻って来る。
 悲鳴を上げる娘を強く抱きしめた。
 そのとき、俺たちの下でトラックが停まった。すさまじい音がして、背中から荷台に叩きつけられる。
 しばし、時が止まる。
 背中が痛い。息ができない。
 なにも聞こえなかった。
 夜のにごった灰色の空が見える。俺はその空を見るともなく見つめ続ける。
 娘の顔が視界を遮った。なにか言いながら、俺の肩を揺さぶっている。今にも泣き出しそうな顔をしているように見えるのは、俺の思い込みだろうか。
 空咳からぜきが出て、ようやく少しずつ呼吸ができるようになってきた。
 酸素が戻るに従い、耳元でごうごうと、血管が血をめぐらせる音が聞こえてきた。それがおさまると、徐々に娘の声と街の喧騒も戻ってくる。
「ねえってば!」
 返事をしない俺を、娘はますます強く揺さぶる。声が出なかったので手で触れて、大丈夫だと伝える。
 ところが、体が動かない。なにかが体の動きを邪魔している。周囲を見回そうと頭を回したら、顔のすぐ横に銀色の壁が現れた。どうやら落下の衝撃でトラックの荷台がへんこだらしい。
 体が荷台にめり込んでいる。そう考えたら、唐突に笑いがこみ上げてきた。笑うたびに全身が軋むように痛むが、止まらない。
 困惑と心配のないまぜになった顔をしている娘に、俺はつぶやく。
「死ぬかと思った」
 一瞬ぽかんとなった娘も、つられて笑い出した。泣き笑いの顔で、涙を拭う。
 俺たちはしばらくそうやって笑っていた。
 胸の上に置いた手の下では、心臓が一定のリズムを刻み続けている。

〈了〉

Photo by Guduru Ajay bhargav
Edited by 朝矢たかみ


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