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コミュ力Lv.12が初めて海外セレブに会ってきた話(後編)

前回


12月10日:ユアンのサイン

 2日目、日曜日。同じ時間の電車で行ったが、一般待機列は昨日の3分の2程度だった。
 昨日の失敗から学んだ私は、開場と同時にダッシュでアーティストアレイに向かい、グリヒル先生のサインをもらってきた。覚悟はしていたがやっぱり大人気で、10時丁度くらいに会場入りしたにも関わらず1時間くらい待つことになった。
 無事にサインをもらって、時計を確認する。
 11時。ユアンのサインの開始時間である。
 はっはー!
 実は並んで待っている間、結構ハラハラしていた。だが同時に「まあ、なんとかなんだろ」という確信もあった。
 昨日の撮影で待っているとき、開始時間を30分くらいすぎた会のプラカードがまだ立っているのを目にしていた。スタッフが受けつけ締め切りの最終案内をしたのも、開始時間をだいぶすぎてからだ。なにより、今年のセレブエリアは待機エリアのすぐ横だ。だから開始時間ジャストくらいなら、まだまだ、全然、大丈夫。
 とはいえ、やっぱり早足になるよね。
 待機エリアに着くと「ユアン・マクレガーサイン11時」のプラカードのラインには当然だれも並んでいなくて、小心者はやっぱりちょっとヒヤッとした。
 セレブエリアに入ると、ユアンのブースの前にぎっしりと列ができ上がっていた。まだ始まったばかりみたいだ。間に合ってひと安心。
 最後尾に並んで、驚愕した。
 ユアンが、いる!
 ブースの前に設置されたテーブルで、ユアンがサインをしているのが見えた。一段上がったところにテーブルがあるらしく、人垣の隙間から顔を見ることができた。てっきりブースの中で、ユアンが書いているところを我々が見下ろすことになると思いこんでいたから、びっくり。並んでいる間、ずっとその姿を見られる。遅く来てよかった(本当はよくない)。
 撮影のときに比べると、サインはひとりあたりにかかる時間がずっと長い。目の前でじっくりとご尊顔を拝む時間があるのだ。セレブをじっくり見たいから、しゃべりたいからサインを選ぶ、と言っている人のツイートも見たことがある。
 昨日の惨状から学んだ私は、目標のハードルをぐぐっと下げていた。
 昨日はヒゲに向かってあいさつしてしまったから、今日こそは目をじっくり見ること。
 ユアンの言うことを聞き逃さないこと。
 このふたつだけに絞った。高望みはしない。自分がレベル12であることを忘れるな。
 もうひとつ肝心なのが、なににサインをもらうかだ。実は昨日の撮影のとき、ブースの前にサイン用のポートレイトが置いてあるのを見ていた(サインも撮影もやる場所は同じなので、撮影時はサイン用の机はわきによけてある)。その中に『スター・ウォーズ エピソード1』があったのを私は見逃さなかった。パダワンのころのオビ=ワンが一番好きなのだ。短髪に揺れるパダワン・ブレード(三つ編み)最高。
 それで昨日の夜からずっと、どっちにするか悩んでいたのだ。
 昨日撮った写真にサインをもらえば、コミコンでのユアンの思い出はこの1枚に集約される。非常に効率的だ。ただそこにはひとつ大きな問題がつきまとう。
 自分の写った写真を、私は家に飾れるのか?
 やはりサインをもらうからには、家に飾っておきたい。ユアンとの思い出は飾りたいが、ぶっちゃけ自分の顔はいらない。そう考えると、1枚に集約しても結局どこかにしまいこむだけになってしまうかもしれない。
 その点、ポートレイトなら堂々と部屋に飾れる。写真とサインで、思い出が2枚になる。おまけに写真は無料だ(はなから料金に含まれているともいえるが)。そっちのがお得じゃね?
 というわけで、現地でポートレイトをもらうことにした。
 ポートレイトはたぶん8種類くらいあったと思う。半分はスター・ウォーズだ。他にも『ムーラン・ルージュ』、『トレインスポッティング』など、ユアンの代表作、人気作が並んでいた。『ムーラン・ルージュ』のポートレイトがすごくよくて(満面の笑みで抱き合うクリスチャンとサティーンのバストアップ)で、対してエピソード1は本編から切り出した写真だけだったので、だいぶ心が揺れた。
 優柔不断が発動して悩んでいると、ふと、積み上げられたポートレイトの高さに気がついた。
 トレインスポッティングは残り数枚。ムーラン・ルージュもかなり減っていて、スター・ウォーズではたぶんエピソード3のオビ=ワンとアナキンがライトセイバーを構えている写真が一番人気。他のも結構減っていた。ところがだ。ひとつだけ、ずんとそびえたっていたのが、パダ=オビ。砂漠でコムリンク(通信機)で話している立ち絵だ。確かに顔が横を向いているし、まぶしくて目を細めているし、ライトセイバーを構えているわけでもない。パダワン・ブレードも腕に隠れて見えない。でも、いいじゃん。短髪のユアン最高だろうがよ。なんでこんなにいっぱい残ってるのよ。
「これで」
 私は確固たる決意でコムリンク・パダ=オビを指差した。
 手袋をしたスタッフがポートレイトを1枚取り、別のスタッフへバケツリレーしていく。サインするペンの色を聞かれたので、背景の青空に映えるかと思ってゴールドをチョイスした。
 あとふたりのところまで来て、ユアンの横顔が見えた。
 はわわ、いる。
 そこにいるー。
 遠くで見ている分には平気だったけど、近づくとやっぱりあわあわしちゃう。
 ユアンは撮影のときと同じく、参加者ひとりひとりに「Hi」とあいさつして、丁寧にサインをして、手渡していた。英語が話せる人だと、結構ちゃんと会話をしているようだった。だれか今すぐほんやくコンニャクを実用化してくれ。
 ついに、私の番が来た。ユアンの正面に進む。
 あー、やばい。
 丁度私の目の高さに、ユアンの顔があった。
 ユアンの水色の目に射抜かれる。澄み切った川面を思わせる透明感のある瞳に吸いこまれる。
「Hi. How are you?」
「Hi」
 横に座っているマネージャーと思しき男性が、私の選んだポートレイトとペンをユアンにパスする。
 一瞬、妙な間が開いた。
 ユアンはペンを手にサインを書き始める。
 そのとき、ユアンがなにか言った。でもなにかが違う。前に飛ばすのではなく、横にぽんと置くような話しかただ。おまけにめちゃめちゃ早口で欠片かけらも聞き取れなかった。私の頭にハテナが浮かぶのとほぼ同時に、横にもうひとりいた男性が小さくうなずいた気がした。
 そこで私は、ようやく気がついた。
 またやらかしてる!
 昨日とまるっきり同じてつを踏んでいるじゃないか!
 撮影のときはベルトコンベアに乗っていたから多少の噛み合わなさはそのまま押し流されていた。だけど今は、ちゃんと「会話」をする時間がある。私は今、確かに、ユアンのあいさつを無視した!
 せっかく話しかけているのに相手が答えなかったら寂しいに決まっている。次々に参加者がやってきてスタッフと話す時間もないから、だったらこいつ英語通じないみたいだし今のうちにこのあとの段取りの確認を、となるのも無理はない。
 あわあわあわあわ
 ユアンは黙々と、私のポートレイトにサインを書いていた。
 私はなにしているんだ。
 この人はユアン・マクレガーだぞ。サインを書きに来た業者じゃない。ファンと交流するために遠路はるばる日本まで来てくれたのだ。参加者にはその感謝を、あなたのおかげで自分は今めちゃめちゃ幸せですと表明する義務があるはずだ。
 このまま、ただ黙ってサインを書かせていてはだめだ。なんでもいい! なにか言え!
「ゆ、ゆああいず、いず、そー、びゅーてぃふぉー」
 なんだそれ。
 文字にするのも恥ずかしい。でも私のコミュ力と英語力ではこれが限界だったのだ。
 ユアンが顔を上げた。ハトが豆鉄砲くらったみたいな顔をしている。無理もないよね。ごめん。
 今思えばこのときのユアンは「ゆああいず、いず、そー、びゅーてぃふぉー」を「Your eyes are so beautiful」に変換していたのだろう。あるいは変換を試みるも有効な回答が得られず諦めた可能性もある。
 でもさすがはプロ。私の目を真っすぐに見て、微笑んだ。
「Oh, thank you」
 水色の目の真ん中にある黒目が、私の顔面から後頭部まで貫通する。
 ユアンが書き上がったポートレイトを差し出した。私は顔面を貫かれたまま「Thank you」を返し、ポートレイトを受け取る。
 私は通路を歩きながら、ポートレイトをフーフーしたり、優しくひらひらしたりした。サインはすぐに触ると伸びるから、しまう前によく乾かすべし。先人たちが教えてくれた知恵だ。
 コムリンク・パダ=オビのたなびくマントの上に、金色のサインがあった。嬉しいことに、ユアンの名前の下に「Obi Wan」と添えてある。マントに書いてくれるとわかっていたらシルバーのペンにしたのにな。ちらっとそんなことを思ったけど、そんな細かいことはもういい。
 あの目をじっくりと見られた私は、すっかり夢見心地だった。
 さらに言えば、あの瞳に自分が数秒でも映りこんだ、ユアンの人生のうちの数十秒を自分のために割いてくれたと考えると、嬉しさを通り越して恐れ多い気持ちになる。
 自分の繰り返したやらかしも、恥ずかしすぎるリカバリーも、全部浄化してくれるような透き通った目だったのだ。
 さっきから目のことしか書いてない気がするけど、だって、本当にきれいだったんだもん。

 12月10日:マッツと写真撮影

 当初の予定では、ユアンのサインが終わった段階で私のコミコンは終了のはずだった。
 ところが今朝、入場のために一般待機列に並んでいたときのことだ。
 Twitterにマッツ・ミケルセンの当日券を追加販売するという情報が流れてきた。会期中に突然、セレブの厚意で当日券が増えることはちょくちょくある。特に今回、マッツとベネディクト・カンバーバッチは、そ、そんなに大丈夫ですか? ってくらいバンバン当日券を出していた。昨日は結構予定が詰まっていたので手を出そうとは思わなかったが、今日は午後が丸々フリーだ。
 実は私は前売りの段階で、マッツを買おうかどうしようか悩んでいた。また例の「私ごときが行っていいのか?」が発動して、もたもたしてるうちに完売してしまったのだ。
 コミコンが始まると、Twitterではマッツに殺されて喜ぶファンの写真が続々と流れてきた。背後に立ったマッツに腕で首をホールドされ、反対の手に持った見えないナイフで背中を刺されたり。両手で首を掴まれたり。かと思えば、定番のハートとか、シーと口の前に指を立てるポーズとか、じっと見つめ合う横顔の写真もあったりして。
 いいなぁ……。
 そんなファンたちの感動感涙阿鼻叫喚ツイートを、私は指をくわえて見ていたわけである。
 とはいえ追加された当日券も、あっという間に完売する。だから今回もあまり期待せずに販売ページを開いた。
 まだ買える!
 サインがふたつの時間帯。
 撮影がひとつの時間帯。
 迷った。
 安い買いものじゃない。そりゃあ、迷うさ。でも以前と違うのは、迷う理由が「私ごときが~」ではなく、来月のカードの請求額への心配なのだ。これは私にとって衝撃的な変化だった。
 そのとき私の脳裏を、Twitterで見た金言がよぎった。
 買う理由が金額ならやめておけ。迷う理由が金額なら買え。
 そこからは速かった。夕方の撮影の購入ボタンを押し、スマホが記憶しているカード情報を勝手に入力してくれて、購入通知がメールで届く。
 買えた。
 買っちゃった。
 あはは、来月の自分、頑張れ~!
 というわけで、昼頃にユアンのサインが終わったあと、会場内でマッツの当日券を発券して、食事をしたり会場をブラブラしたりして夕方まで時間を潰した。
 待機エリアで並び、手荷物検査をして、セレブエリアに入ってまた並ぶ。これまでと違って、セレブエリアは静まり返っていた。それもそのはず。セレブがだれひとりとしていないのだ。列は動かないし、ここが最後の回なので誘導するスタッフの声が飛び交うこともない。セレブたちは全員、3日間のコミコンの締めくくりである「グランドフィナーレ」に登壇するためステージにいるのだ。壁から下がった大きなスクリーンには、ステージを中継した映像が流れていた。待つ人の多くは、ミュートされたその映像をぼんやり見上げている。
 手元のチケットには開始時間が「17:30」とある。しかしグランドフィナーレの予定は「17:00~17:45」だ。いや、無理じゃん。なんでそんな嘘ついた。45分開始、いや、18時開始でもよかったはずだ。その時点で、私は待機エリアを含めてすでに一時間くらい並んでいた。2日目の夕方、いい加減、足は限界である。一日中ずっと立ちっぱなしだったところに、なんかさらに無駄に待たされた感じがして、ちょっとイライラしていた。
 結局、グランドフィナーレはちょい押して18時くらいに終了した。
 やっと来るぞ、と期待でちょっと場の空気が温まってきた。
 スタッフが、マッツの撮影の参加者に案内する。
「ポーズの希望がある場合はジェスチャーで伝えてください」
 この三日間で蓄積された経験から導き出されたワードなのだろうが、言葉の奥に「お前らわかってんだろうな」という圧を感じる。ベルトコンベアを止めるな、ということだろう。また、目を合わせたまま横向きで撮影するのはNGだという案内もあった。たぶんシャッターを切るタイミングが掴みにくいのだろう。まあ、これは仕方ないのかも。
 さて、マッツとどう撮るか。
 昨日の撮影でユアンに「Could you give me a hug?」を言えなかった後悔を地味に引きずっていた。マッツとハグすることで、そのときの雪辱を晴らしたい。
 だがユアンに言えなかったのだから、マッツにも言えないと考えるのが妥当だとうだ。次こそは、は起こらない。私はいい加減、身のほどを知るべきだ。
 過去二回の経験から、本物を前にした私のコミュ力はレベル12からさらに低下することが判明している。スキル「外面」を発動することすらできない。そんな緊張状態でしゃべれるのは、おそらく二語が限界だと判断した。
 Hug me.
 これでいくしかない。
 ジェスチャーはどんなふうにやればいいだろうか。両手を広げながら近づいていったら、わかってくれるかしら? 「Hug me」と言いながらやれば、さすがに通じるかな。
 そうこうしているうちに、どこかで歓声が上がった。ステージを終えたセレブが来たのだ。
 やがて、マッツの列も動き始めた。シャッターがパシャパシャ光り、列は爆速で進んでいく。
 待って速い。
 ユアンよりさらに速い。
 どういうこと。なにが起きているの。
 待っている時間はあんなに長かったのに、ブースに入るまで本当にあっという間だった。
 マッツが、いる。
 ただ立っているだけなのに、そこだけレッドカーペットみたいにキマっている。
 写真で見ても仕組みがよくわからなかった髪は、生で見ると一層ミステリアスだった。後ろはほとんど黒に近い茶色。生え際の上で小さな丘を描くシルバーの前髪は、先端の方でミルクティーのような淡い茶色に変わる。激渋と上品さの中にふわりと香る甘さ。掴みどころがない、ひと筋縄ではいかない感じがまさにマッツ・ミケルセンって感じ。
 そして、でかい。股下がおそろしく長い。顔は小さい。本当に同じ種族だろうか。
 しかし、それよりも驚くべきはその撮影速度だ。
 参加者「(自分の首に腕をからめる)」
 マッツ「(一歩下がりながら腕を広げる)」
 参加者「(マッツの前に立ち、首をマッツの腕の中におさめる)」
 パシャッ
 参加者「Thank you(去る)」
 次の参加者「(手でハートの片割れを作りながら進む)」
 マッツ「(手でハートの片割れを作る)」
 参加者「(マッツの横に立ちハートが完成する)」
 パシャッ
 参加者「Thank you(去る)」
 次の参加者「(両手で自分の首を掴む)」
 マッツ「(横を向いて両手を広げる)」
 参加者「(首をマッツの手の中におさめる)」
 パシャッ
 参加者「Thank you(去る)」
 なんてシステマチック! あいさつすらない(する人もいたかもしれないけど)。
 Twitterで写真を見たときからずっと疑問だったのだ。ベルトコンベアの流れの中、いったいどうやって要望を伝えているのか。なるほど、こういうわけか。
 参加者がジェスチャーを提示してから、マッツが理解して受け入れ体制を整えるまでおそらく1秒とかかっていない。その手際は、もはや職人技といっていい。
 そういえばマッツが昨日のステージで、ベルトコンベア撮影について謝罪したという切り抜き記事があった。「希望者全員に会うにはこうするしかないんだ。だから先に謝っておくよ」そんな感じのことを言っていた。ひとりずつ交流する時間を犠牲にするかわり、ひとりでも多く写真を撮ることを選択したわけだ。その結果が、この爆速ベルトコンベアだ。
 参加者は、次々にマッツに殺されて笑顔で去っていく。私が見た限りでは、女性参加者の半分以上はバックハグで殺されていた。大人気だ。
 それを見ていたら、私の中で優柔不断がむずむずしだした。
 私もマッツに殺されたい。
 ……い、いまさら!?
 なんでもっと早く言わないの! もうそこにマッツいるんだよ!
 でも、実際そうなのだ。殺されて喜んでいる人たちがうらやましくて当日券を買ったのだから、至極しごく納得の願望なのだが、なぜ今まで気づかなかったのか。我が本音よ、お前はもうちょっとちゃんと自己主張しなさい。
 Kill me.
 Hug me.
 どっちにする?
 うぅぅぅぅぅぅぅ、決められない。嗚呼ああ、優柔不断。
 そうこうしているうちに、私の番が来てしまった。前の人の撮影が終わり、マッツがこっちを向く。
 もうだめだ、決めるしかない。
 ええぃ、ハグだ! ハグでいくぞ!
 そう、私はマッツがこっちを向いてから、ようやく決断したのである。よって出だしがすでに遅れている。だが足だけはベルトコンベアに乗っていた。無意識化で完全に場の空気に操られていた私は、この速い流れを止めまいと足を進めていたのだ。
 慌てて「Hi」を言いながらハグのジェスチャーを作った。頭の中では、だっこをねだる子どものように腕を上げていたつもりだった。しかし実際は四十肩のペンギン、もしくはキューピーちゃんって感じだったと思う。ギクシャクした動きのキューピーが「Hi」とにやけながら近づいてくるなんて、ほぼホラーだ。
 しかしマッツは、こんな無様な私にも優しかった。さっと右腕を広げて、私の肩を抱き寄せてくれた。
 私はそこで大人しく、マッツの優しさにすべてをゆだねておけばよかったのだ。
 しかし、ハグもどきをしたまま行き場を失った右腕が、性懲しょうこりもなくマッツの胴へ伸びていた。しかし腕を伸ばしきることもできず、手はマッツのお腹の上に不時着した。あ、だめな気がする。
 シャッターが切られた。
 マッツから離れ「Thank you」を言う。けれどマッツの顔は遥か頭上にあって、私はマッツの胸板にお礼を言っていた。
 ブースを出た私はやはり腑抜けと化しながら荷物を取り、通路を歩く。
 でき上がった写真を見た瞬間、やっぱり、と天を仰いだ。
 マッツのお腹に添えた私の右手は、お腹というよりも、もうちょっと下、ぎりぎり不穏ふおんな場所にあった。
 いっそのこと腕をぐるっと回してしまえばまだ救いもあったのに、明らかに手をからたちが悪い。確かに手を置いたときに、なんかこう、ウェストとパンツの段差のようなものを感じた気がしたのだ。嫌な予感はしたけど、そのときにはもう手遅れだった。
 これだけは、声を大にして言わせてほしい。
 断じてそんなつもりはなかったんだ!
 すべては身長差のせいだ。だって、まさか人間のウェストがあんな上にあるなんて思わないじゃん……信じてくれマッツ。ほんとごめん、マッツ。
 マッツの表情も、どこか困っているように見えなくもない。もともとこういう撮影でニッコリ笑うタイプの人ではないみたいだけど、それにしても、真顔に近い気がする。無理もない。本当に申し訳ない。
 そして私の顔も、ぎりぎり事故っている。
 ああ、今すぐ消えてなくなりたい。
 アバダ・ケダブラ。

おわりに

 帰り道も、帰宅したあとも、ずっとマッツとの撮影での後悔がもやもやとつきまとっていた。
 やはり、直前で選択肢が増えたのがよくなかった。加えて、バックハグで殺されていく人の多さがさらなる迷いを生んだ。
 いくつかある私の困った性質のひとつに、大勢がやっていることは避けたくなる、というやつがある。こいつが非常にめんどうくさい。本当はやりたかったとしても、それが多数派であると、なんかカッコつけて「そういうのはいいや」を装い始めるのだ。そんで、あとで猛烈に後悔する。もちろん今回も。
 まったく、私はなにをやっているのだろう。ハグは他の人にもしてもらえる可能性があるけど、殺してもらえるのはおそらくマッツだけだというのに。我が本音よ、お前とは一度、腹を割って話しをしないとだめだな。
 しかし、直前でKill meの割りこみがなかったとしても、ちゃんと撮影できていたかはかなり怪しい。だってマッツの撮影は、ジェスチャーが伝わりさえすれば、言葉は必要なかったのだ。これほどイージーモードなコミュニケーションはそうあるものじゃない。むしろ私のためにあると言ってもいいくらいの撮影スタイルだった。それなのに、あの惨状だ。目も当てられない。
 しかし、悪いことばかりでもない。どんなに緊張してコミュ力が低下しても、あいさつとお礼だけはちゃんと言えたことだ。これだけはほめてしんぜよう。
 もしかしたら私は「Hi」と「Thank you」だけは脳を経由せずに言えるのかもしれない。学生時代に語学研修で海外に行ったとき、会話が無理でもせめてあいさつとお礼と愛想だけは、と心に決めていた。その努力の賜物たまものかもしれない。どうせなら「Hi」のあとの「How are you?」まで習得しておいて欲しかったけど。
 ああー、悔しい!
 めちゃめちゃ悔しい!
 マッツもユアンも、どっちも後悔が残った。
 いつかまたリトライしたい。
 次こそは、ユアンの「How are you?」に「Lovely」って返すし、マッツに「Kill me」って言う! セクハラもしない! 絶対!
 だからどうか、また日本に来てください。
 そして、あんなに取り乱しまくったどうしようもない私の肩を抱いてくれてありがとう。二日とも体の感覚は失っていたので感触は覚えていないけど、ふたりの優しさは一生忘れない。
 私はやらかしまくったけど、本物のユアンとマッツに会えた感動はそれ以上だったし、ふたりとも想像以上に素敵だった。
 だからなんだかんだいいつつ、総合的にはいい思い出として残りそうだ。
 

 これだけ書いておいてなんだけど、こんなオタクの醜態にここまでつき合ってくれる人が、果たしているのだろうか?
 もしも「まあ、みんなこんな感じだよね」と共感してくれたり、私の無様なうろたえっぷりを見て「自分はまだましだ」とホッと胸をなでおろしたりしてくれる人がひとりでもいたら、私がかきまくった恥もいくらか報われるだろう。


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