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【長編小説】清掃員の獏(17)

前回

*   *   *

 神谷の顔が凍りつく。
 風の音に紛れて、ぺたんぺたんと気の抜けた足音が聞こえてきた。
 それは吹きすさぶ砂の膜に小さな体を見え隠れさせながら、近づいてくる。
 神谷の記憶に出てきた男の子だ。こんな荒れた地面なのに、サイズの合わないスリッパで歩いている。
「兄ちゃん」
 愛くるしいその笑顔に、沙凪はぞっとした。
 乾いた大地や、すぐ後ろに横たわっている漆黒の亡骸など、何ひとつ彼の目には入っていない。入っていても気にならないくらい、今は神谷と遊びたい。その無垢さが、怖かった。
 神谷はじっと動かず、目を閉じていた。いずれこうなることが分かっていたのか、今回は大翔を前にしても、とても落ち着いている。
 男の子が急かすように「ねえ、何して遊ぶ?」とその場で小さく飛び跳ねる。
「もうだれとも遊べない」
 ぴしゃりと言い放たれた神谷の言葉に、大翔の笑みに影が射した。神谷を見上げ、おそるおそる聞き返す。
「どうして?」
「お前が選んだんだ。俺と遊ぶよりも、お母さんと一緒にいる方を」
「でも、お母さんはここにはいないよ」
「正直、お前のお母さんの顔は、もうあまり覚えてないんだ」
 神谷はひとりごとのようにつぶやく。屈んで大翔に目線を合わせようともしない。
「お前の表情も言葉もはっきり覚えてるのに、お前を抱いてるお母さんの顔は、かすみの向こうだ」
 神谷の静かな目は、もう目の前にいる大翔を見てはいない。
「いずれ、お前の顔もそうなるのかもしれないな」
 神谷が自嘲する。
 いったん焼きついてしまった記憶は、自分の意志では手放すことができない。だからせめて、強くにぎりしめているのはやめる。吹っきったとは言えないが、神谷なりに前を向こうとしている。
 大翔は弱々しく首を横に振る。
「嫌だ、遊んでよ。いつも遊んでくれたじゃん」
「もう手遅れだ」
 突き放すような冷たい声だった。
 神谷はあごで沙凪を呼ぶと、大翔を残して歩き始めてしまう。
 涙目の大翔は神谷の背を見つめ続けている。手は服の腹のあたりをぎゅっと強くにぎりしめていた。
 後ろ髪引かれる思いがしたが、沙凪は神谷を追いかけた。あの子について、沙凪が口をだすのは違う気がした。空澄も黙ってついてくる。
「その人のせい?」
 涙に震える大翔の声に、神谷の足が一瞬止まりかける。しかし、歩き続けた。
 後ろから鼻をすする音が聞こえた。
 沙凪はいたたまれず、そっと振り返ってみる。
 その途端、さっきのぞっとする感覚が戻ってきた。
 大翔は涙で真っ赤になった目を見開き、まっすぐに沙凪をにらみつけている。
「その人がいるから、遊んでくれないの?」
 ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。その涙の責任が沙凪にあると信じて疑わない、憎しみがむきだしになった目だった。
 大翔が駆けだす。向かう先には、あの巨大なイミューンが横たわっている。
「待ってダメ!」
 沙凪の声など聞く耳など持たず、地面に投げだされた巨大な頭に触れる。大翔の体がうっすらと光りだした。
「大翔!」
 気づいた神谷が駆けだすが、もう遅かった。
 大翔とイミューンを包みこんだ光がふくらみ、炸裂する。
 光の波動が沙凪を弾き飛ばす。地面に仰向けで倒れた沙凪の目に、赤い空が飛びこんできた。衝撃は空まで届き、風に流された雲が巨大な円を描いていた。雲の切れ間からは赤く濁った空が見える。
 光が消えた時、そこに大翔の姿はなかった。かわりに、イミューンが手を地面についていた。ぎくしゃくと体を揺らしながら起き上がったイミューンは、首を空へ伸ばす。
 刀が刺さって霧がもれていたあたりが、めりめりと音をたてて裂けていく。裂け目は顔の横幅いっぱいに広がり、上下に割れると中からびっしり並んだ牙が現れた。
 胸のあたりにコブが生まれ、そこからさらに新しいコブがはりだすように伸びていく。やがてコブは細く枝分かれし、爬虫類を思わせる爪を持った腕となった。
 ボトボトと何かが落ちる音がすると思ったら、岩に押し潰されてひどく変形した尾ヒレが次々に抜け落ちていた。ヒレがなくなった尻の先にコブが伸びていき、やがて太くて長い尾に生えかわる。
 ほんの数秒でその変化を遂げたイミューンは、太い尾を高く掲げる。
 沙凪が体を起こす間もなく、尾が空を切り裂いた。
 固い岩の地面が粉々に砕ける。
 底の抜けた世界は一瞬で崩壊した。

*   *   *

 体の中ですべての臓器が浮いたような感覚ののち、一気に落ちていく。
 足場が崩れる寸前に跳躍した神谷は沙凪に手を伸ばす。指先が服に触れたが、つかむには少し遠かった。
 毒づく間もなく沙凪と引き離された神谷は、瓦礫の上に叩きつけられた。瓦礫の山を何度も跳ね、転げ落ちる。
 肺が潰れ、息が止まる。ようやく下まで落ちて止まった神谷は、朦朧もうろうとする意識の中で目を開けた。視界が右に左にぐるぐると回転している。細かく呼吸を繰り返しているだけで体中が軋む。胃からこみ上げてくるものをこらえながら起き上がると、左の脇腹にえぐるような痛みが走った。ああ、こりゃ、折れたな。どこか他人事のように分析する。
 そこは初めにこの塔に入った時と同じ、白いホールに見えた。だがここには外から入ってきた扉も、上へ上がる階段もない。だだっぴろいただのホールに、上から降ってきた瓦礫だけが散乱している。天井には、ふたりが落ちてきた暗く大きな孔が開いていた。孔の向こう側では赤い空に茶色い風が流れており、かすかに風の音が聞こえてくる。
 ふと、視界の端に人影を見つけた。
 瓦礫の中に倒れている沙凪に駆け寄った神谷は、条件反射で脈を確認する。服越しに見た限り大きなケガはなさそうだ。だが沙凪は目を閉じたまま動く気配を見せない。
「おい、起きろっ。目を覚ませ、おい!」
 沙凪は目を開けない。拳で胸骨を圧迫すると目を開きかけたが、すぐにまた閉じてしまう。早く起こさないとまずい。
 頭上から大きな影が降ってきた。神谷は思わず身を固くする。
 孔から下りてきたイミューンが、ずんと着地する。
 部屋が震え、天井の破片がパラパラ降ってくる。
 その時、神谷はようやくこの場所の静けさに気がついた。
 夢の中で主が意識を失うと、土台をなくした世界は崩壊を始める。だが崩壊を迎える世界にしては、ここはあまりにも穏やかだ。
 二十メートルほど離れたところで、瓦礫にうずもれた刀を見つけた。神谷はその刀に手を伸ばし、にぎった時の重みや柄の網目の感触を想像する。
 次の瞬間、光の筋が手の中から伸び、瓦礫の中にあった刀は手の中に移動していた。光のベールを脱いだ刀の重さをしっかりと受け止める。
 そういうことか。思わず鼻で笑ってしまう。
 確かに、ところどころに神谷の記憶の断片が入りこんではいた。しかしそれはごく微量なもので、久々に他人の夢に入ったことによる不調だと、その程度に考えていた。だが沙凪が気絶したにもかかわらず、この世界は崩壊していない。となると、現在この夢の世界を支えているのは神谷以外にありえない。極力考えないようにしていたが、元々この夢は、神谷と沙凪、ふたりの夢が合わさってバランスを保っていたのだ。
 イミューンの口からは低いうなり声が響き、太い尻尾は挑発するようにぐねぐねと揺れている。さっきまでののっそりとした動きから一転、今の姿は獲物を見つけた獣を思わせた。
 息をするたびに、胸全体に鋭い痛みが走った。いつの間にかまた切れていたこめかみからは、とめどなく血が流れ落ちてくる。垂れてきた血を袖で拭った神谷は、深く息を吐いた。
 痛みを意識の外に閉めだす。
「しょうがねえから、ちょっとだけ遊んでやるよ」

つづく

Photo by Victorあず吉あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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