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浅村さんを好きになったキッカケ 

浅村さんの事は2009年、浅村さんがプロ1年目の3月。教育リーグでジャイアンツ球場で観てそこからファンになりました。

当時僕は大学3年生。この1か月前に僕は母を病気で亡くしました。
浅村さんがプロ初のキャンプインをした翌日2月2日に母を亡くしました。

専業主婦だった母。毎日家に居るのが当たり前だった母。
突然病気が見つかり、手遅れな状態で、入院から僅か1ヶ月半で母はこの世を去りました。

そのため父と兄が会社に行っている日は悲しみとショックで毎日家で、母の仏壇の前で1人、事あるごとに泣いていました。

外に出掛ける気分にもなれず、ほぼ引きこもり状態な日々を過ごしました。
そうした中、母を亡くして1ヶ月後の3月10日。

このままでは良くないと気分転換を兼ねて当時大好きだったライオンズがジャイアンツ球場で教育リーグを行うとの事で1人で観に行く事にしました。

そこで僕は初めて浅村さんを生で観ました。恥ずかしながら全国制覇した夏の甲子園を一切観ていなかったので浅村さんの甲子園での大活躍は知りませんでした。

当時は熱狂的なライオンズファンでした。うろ覚えではありますが、ドラフト時に当時「よく3位まで残ってくれていた」等という渡辺久信さんのコメントを覚えていて、それで認識をしていたぐらいでした。

試合後にサインを頂き、サインのカッコ良さ、豪快さに衝撃を受けてそこからファンになりました。

このこの左のカードにサインを頂いたのがすべての始まりとなりました^^

その後、同じ月の2009年3月20日。同じジャイアンツ球場で行われたイースタンリーグ開幕戦を観に行きました。その試合で浅村さんが二軍ではありますが、公式戦でプロ初ヒットを打ってくれたのです。

そこから浅村さんの追いかけが始まりました。
ジャイアンツ球場と西武第二球場に足繫く通いました。

これは今も続く不思議なジンクスなのですが、観戦した試合で浅村さんはほとんどの試合でヒットを打ってくれました。

ファームでの1年目の成績。観戦試合はほとんどヒットを打ってくれました。

観に行くと必ずと言って良い程ヒットを打ってくれる。しかもそれが成績が良いから自ずと確率が高いわけではなく、打率219ですから。

それが僕にとって浅村さんを応援し続けられた大きなキッカケでした。
そして何より、浅村さんのおかげで外に出掛けるキッカケになってくれました。

この2009年は涌井さんが沢村賞を受賞した年でもあります。
後にも先にも人生で一番辛い経験は母を亡くした事です。

でも浅村さんと涌井さんのおかげで生きる活力を貰えたのです!!
当時それがどれほど救われた事か…。

お二人には本当に感謝しています(´;ω;`)

以上が僕の浅村さんを好きになったキッカケです^^


1年目に頂いたサイン。ボールにも頂きました。

しかし悔やまれるのがユニフォームにサインを貰っていない事。
当時大学生でアルバイトで月4万円ぐらいは稼いではいたものの、ユニフォームに興味が無くてレプリカすら買っていませんでした(´;ω;`)

プロコレは金銭的に無理だったとしてもレプリカユニフォームを買ってサインを貰っておけば…(´;ω;`)

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