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女性が男性を、男性が女性を演じる意図(『長い墓標の列』演出コンセプト2022:1)

タイトル画像:『男女共同参画の最近の動き』(令和4年3月10日内閣府男女共同参画局)より

『長い墓標の列』戯曲上では、本来男性と指定されている大学教授や研究者を、本公演では女性が演じます。妻、娘と指定されている役は男性が演じます。単純に性別を交換するというより、権力構造を「権威者」と「服従者」の関係として分解します。

なぜ、そんなことをしようと考えたのか。すこし遠回りになりますが、お付き合いください。

近現代の戯曲を読んでいく中で、いつもひっかかる要素がある

はじまりは、私が近現代の戯曲を読んでいく中で、いつもひっかかる要素があると気づき、それを無視できなくなったからです。それは、近代戯曲の多くが内包する構造的問題としての性差別と、そこから直接接続する現代日本社会における性差別を含む人権の軽視です。そしてそれは『長い墓標の列』にも内包されていると私は考えています。

まず、近現代戯曲の構造的問題としての性差別について、私が考えていることを書きましょう。19世紀から活躍を始めたイプセンやチェーホフという劇作家がいます。彼らが革新的だったのは、女性が主体として活躍する戯曲を書いたことだと考えています。しかし、書いた彼らはそもそも男性です。では女性の劇作家はいつ現れるのかと言えば、20世紀もしばらくたった1930年代以降になります。

いまでこそ、女性の劇作家は珍しくも無くなりましたが

いまでこそ、女性の劇作家は珍しくも無くなりましたが、明治や大正はそうでは無かった。演劇研究者、井上理惠さんの2021年7月5日のレクチャー「日本の近代演劇の女性作家概観」では、その理由を「女性の所得及び社会的立場の弱さ」と説明されていました。つまり明治や大正のころは、そもそも男性でも裕福であったり余裕があったりしないと劇作などの営みはできないし、劇作のための教育を受けることもできない。当時の女性は、現代よりももっと、自由も社会的な地位もなく、また所得も低い場合が多かった。結果として、劇作に取り組むような状況にはなかったわけです。そして女性の権利や所得が制限されているのは日本に限った話では無く、欧米その他世界的に同様だと考えられます。

男性ばかりが劇作をする、ということが、近代戯曲の傾向にどういう影響を及ぼしたかといえば、「男性人物の主要化」「女性人物への偏見」が一般的になったと考えています。もちろん、女性が主要であったり偏見のない作品もありますが、一部作品によって傾向は変わりません。そして残念ながら、それは現代の戯曲でもそのような作品は少なくないように考えています。それは作家個人の資質にだけ問題があるわけではありません。日本の社会の常識が、そもそも男尊女卑の要素を含んでいるため、鋭い目線を持った劇作家が社会を正確に描写した戯曲ほど、男尊女卑の傾向まで描ききってしまうとも考えられます。

「女優は女中と娼婦ができないと仕事が来ない」

差別的傾向がある戯曲が多数派を占めているという現実の結果として、そもそも女性俳優は、男性俳優よりも、キャスティングにおいて不利な立場に置かれています。演じるキャラクターの数も幅も狭く、その上ステレオタイプの造形がつきまとっていると考えています。ある俳優は演劇学校で「女優は女中と娼婦ができないと仕事が来ない」と言われたと聞いたことがあります。言葉を発した方に悪意があったとは考えませんが、悪意が無いのに差別的な言動になることが問題の根深さを表しています。「俳優は丁稚と男娼が出来ないと仕事が来ない」という言葉の違和感を考えれば、以下に不適切な言葉か分かっていただけるかと思います。わたしは、この状況は近代劇作家の残した大きな負の遺産だと考えています。

演劇業界だけが性差別が横行しているか

ここまで、近代戯曲と演劇業界の問題を取り上げてきました。そこから直接接続する現代日本社会における性差別を含む人権の軽視について書きます。

演劇を含む芸術業界に、ハラスメントが起きやすい構造的な問題があることは、表現の現場調査団『表現の現場ハラスメント白書 2021』において指摘されています。しかし、一方で演劇業界だけが性差別が横行しているかといえば、それも違うと考えています。

190か国中168位

分かりやすく数字を調べてみましょう。『男女共同参画の最近の動き』(令和4年3月10日内閣府男女共同参画局)によると、ジェンダー・ギャップ指数(GGI)2021年で「日本は156か国中120位」「衆参両院女性議員割合14.3%」「日本の順位(衆議院女性議員比率)は、の国際比較(衆議院議員選挙後)190か国中168位」との数字が並んでいます。
財務省の『男女間賃金格差の国際比較と日本における要因分析』(2022年2月25日)では、「男性の1人当たり報酬に対する女性の1人当たり報酬の比率を計算すると、日本の数値は、徐々に上昇しているが、2015年時点で6割を下回っている(G7平均は82%)。」とあります。
ここから考えられることは「日本において、女性の政治進出は進んでいない」「世界の中で比較して、女性の社会参画は下から数えた方が早い順位」「賃金格差は男性100あたり女性は60以下」つまり「性差別は日本社会に依然として存在している」と言えると考えます。

さて、その上で『長い墓標の列』を捉えてみます。まず断っておきたいのは、過去の戯曲の背景が現代の人権感覚とあわなくても、それ自体は批判の対象にはなりません。時代が変われば常識も変わります。むしろ過去の常識、社会を活写してくれるところに、過去の戯曲を上演する意味も価値も生まれるわけです。

現代の観客にどういう意味を伝えるのだろう

しかし、上演そのものについては話は別です。過去の戯曲には現在の常識に照らすと違和感がある要素を含まれているとします。たとえば『長い墓標の列』には、男性が議論を戦わせている隣で、女性が顔を見合わせて沈黙している、という場面があります。OK、当時はそうだったんだろう。でも、それをそのまま上演した場合、現代の観客にどういう意味を伝えるのだろうか? そういう問いを立てるのが、現代の演出家の役割のひとつだと思います。

2022年、SNSやweb上で、演劇業界ではハラスメントの問題が多く取り上げられています。日本の社会全体でも、自衛隊のハラスメント問題が大きく取り上げられています。そういった背景も捉えて、現代の日本で『長い墓標の列』をどのように上演することが、この戯曲の価値を引き出すことになるのだろうか。そういった課題意識から、性別の逆転を試みることを決めました。

現実に抵抗を試みることからしか

もちろん、それがベストな上演プランかどうかは分かりません。たとえば、男性女性という二元的な分け方にも課題が残ります。いまでは性別というものはもっと多様なものだと考えられているわけです。そもそも、男性役を女性が演じたら万事OK、という簡単な話でもありません。また、いまの思考はこの戯曲の本質的な問題提起に関わることから遠い場所にある可能性があります。
しかし、わたしは男性劇作家中心の戯曲が多数を占めている現実に、それと直接関わる日本全体に依然として深く根を下ろしている性差別という負の遺産に、なんらかの抵抗を試みることからしか、今回の上演を考えられませんでした。

本公演では権力構造を「権威」と「服従者」の関係として分解し入れ替える実験をします。
はたして2022年の日本で上演される演劇としてふさわしい現代性を担保された企みとなるか、お楽しみに。

さいごに

最後に、米国最高裁判事として活躍した、ルースベイダーギンズバーグの言葉を引用します。

「(米最高裁の女性判事の人数について)もうこれで十分と言えるのはいつかと、聞かれることがあります。『9人になったら』と私が答えると、唖然(あぜん)とされます。でもこれまで、男性9人が判事でも誰も問題にしなかったでしょう

公演情報

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