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夏の音

子供の頃は平気だったのに、どうして大人になると虫を触りにくくなるのだろうか。

カブトムシはマッチョになったゴキブリのようにも見えなくもないし、カマキリは触ると指を切られそうな感じさえする。

それはきっと毒があるかもとか、噛まれるかも、刺されるかもといった中途半端な知識が恐れとなって現れているからなのだろうと思っていたのだけど、もう一つ重要な理由があることに今になって気がついた。

恐らく、僕自身が虫に心を開いていないのだ。

緑色の葉っぱのような羽をした、綺麗な蛾を手に乗せている写真をみて気がついた。タイムラインに流れてきたその画像は僕をはっとさせた。そうだ、文鳥やハムスターのようにその生き物が好きで心を開いていれば、手に乗せたりするのである。

例えばめちゃくちゃ羽の大きな蛾でも、可愛いと思えば肩や腕にとめる。綺麗な蝶が頭の上に乗っていたらお洒落だ。トンボが指にとまるのならば、バッタがジャンプして腕をよじ登っても良いではないか。

きっと昔の自分は今よりも虫が好きで興味があったに違いない。怖がるのが先か、心を閉ざすのが先だったのかは分からないが、もう少し虫に興味をもてば、以前のように虫を触れる気がしてきた。

余談だが、自分はセミとカエルの鳴き声が好きで、両者とも鳴き声が好きなものベスト3にランクインしている(あと一つ、鳴き声が好きなものが思いつかないけどベスト3とあえて言いたい)。風景が見える音。そして夏の音。茹だるような暑さの中、セミの鳴き声が聞こえると 「これだなー」という気分になるし、夜に小学校のプールの脇を通るとカエルの合唱が聞こえてくるので嬉しくなる。

不思議なことに、そんなに鳴き声が好きなのにも関わらず、セミと積極的に絡んでいきたいとは思わない。むしろ、僕のTシャツにセミがとまって鳴き始めたら、むちゃくちゃ嫌がるだろう。何事にも距離感は大切なのだ。カエルに関して言えば雨蛙は可愛くて好きだけど、他の大きなやつは本当に触りたくない、という選り好みまでしている。もしかすると僕は、セミやカエルを生き物として好きなのではなく、夏の音として好いているだけなのかもしれない。

話を元に戻そう。心を開くといえば、人はネコや犬には心を開きやすい気がしている。哺乳類同士だからだろうか。僕はうちのネコが好きだし、膝に乗せたり、撫でたりとスキンシップをとる。

僕が心を開いているネコくんは、僕にも心を開いていてくれているみたいで、友好の証に虫を咥えて持ってきてくれたりするのだが、僕が大人になってから虫に心を閉ざしていて、そんなに触りたくないということまでは理解してくれていない。

ジジッ ジッ と最後の夏の音を玄関で絞り出すセミをみて、僕はネコにありがとうとお礼を言いつつ、この後どうしようかと身構える。とりあえず、ちゃんと息絶えるまで咥えておいて欲しい。可愛いネコが素敵な夏の音を咥えてきた。と書けば聞こえは良いが、ちぎれたセミの羽が落ちていたりして現場は軽く地獄絵図だし、これから起きるパニックの雰囲気をふんだんに匂わせている。

こんな時、もし僕が昔のように虫をもっと好きならば、セミを可哀想だと思ったのだろうか。あぁ!と傷ついたセミを心配しながら駆け寄り、 そっとその手に受け止めて、助かりそうもないなら庭に埋めたりするのだろうか。

 セミが鳴き始めてようやく夏が始まった。

身構える僕にネコは、「虫は可愛がるものなどではなく、捕獲するものなのだ」とドヤ顔をした。

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