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【短編】僕達の巡りの旅

「雪が…見たい…なぁ…」
じいちゃんは僕を見てそう言った。
それから
「あれに…」
ベッドの上で重そうに腕をあげて、震える指でなんとか、湯呑みを指差したんだ。
病院の10階にあるじいちゃんの病室の窓からは、雪で真っ白な山は見える。
でも窓越しじゃなくて、僕に持ってこさせて目の前で見たいらしい。
「お父さん、外は晴れているけど寒いのよ。この窓から見え…」
「わかった。行ってくる。」
お母さんに止められないうちに素早く湯呑みを持って、病室を走って出た。
お母さんはいつも、娘のくせにじいちゃんのことを何もわかっていない。
僕は、わかる。今すぐに急いで雪をとってこないといけない。

病院から出ると、ずっと向こうまで冴えた、空気の冷たさ。
上着を着るのを忘れてた。
病院の暖房で熱くなりすぎた頬が、急に冷やされて気持ちいい。

なるべくキレイな雪をとろうか。じいちゃん、食べたいのかもしれない。
誰も踏んでいない雪を探して、駐車場の隅を見に行った。
木の上にある雪の方がいいのかな?
ちょうど取りやすい高さの枝葉の上に、綺麗な真っ白の雪があった。
手袋も忘れた僕はその雪を素手で取り、なるべく握らないように気を付けながら湯呑みに山盛りにした。
指先が冷たい。下着とトレーナーの体も冷えてくるけど、この位ならガクガク震えて逆らうより体の力を抜いて冷たさを受け入れたほうがいい。頭の中が氷みたいに透明になって、いつもなら気付けないことに気付くことがあるんだ。
…湯呑みの雪に南天で目玉も付けておいてやろうか。小さい雪だるまだ。

思いついた小さいいたずらにワクワクしながら南天の実を探していると、空の上から鳥の声がした。
見上げると、白い大きな鳥がちょうど僕の真上の空にいた。
すごい。あまり見たことがない鳥だ。
水色の空は奥に行くほど藍に近い色で、白い鳥が大きな翼を動かして天頂へ向かう姿は、本当に本当にかっこいい。

僕はふと気づいた。

風が止まった。

音が消えた。

辺りを見てみると、さっきまでざわざわしていた木々の葉も動いていない。
いつも遠くから聴こえる国道の車の音もしない。

…時間が止まった?

白い鳥は?
もう一度見上げると、鳥だけがゆっくりと羽ばたいて、少しずつ遠ざかっていく。

それから、シャラシャラと薄氷を割るような、綺麗な音が空の天辺から降りてきた。
その音は段々はっきり聴こえてきて、それに重なるように優しい声の、昔の言葉、何て言っているのかわからないけど、聴こえてきて。
お母さんの声?…じゃないな。少しだけ似た感じだけれどなんだか違う。
声に答えるように白い鳥はもう一度澄んだ声で鳴いて、小さくなって、やがて見えなくなった。

…今のことは忘れたらいけない。
なんとなくそう感じた時に、世界はプツンと元に戻った。

木の葉がざわざわと。遠くで車が行き交う音が聴こえる。
僕は、手に持った湯呑みの冷たさを思い出した。

雪。雪。
あの大きな鳥と同じ、白の雪。

じいちゃんに届けなきゃ!

僕は南天の事なんか忘れて急いで病院に駆け込んだ。
雪を少しもこぼさないように気をつけながら。

「じいちゃん!持ってきたよ!」

病室にはお医者さんと看護師さんもいた。
お母さんが僕の方を見た。
見たこともないような顔をしていた。

「じいちゃんに、雪。」

お母さんはその顔のまま、ポロポロと涙をこぼした。
普通じゃない。

僕は、じいちゃんが死んでしまったことを知った。


それから、お葬式があった。
その日にはもう湯呑みの雪は溶けて、蒸発したんだろうか?空っぽになっていたから、台所からじいちゃんの味噌汁のお椀をもらってきて、そこに新しい雪を入れた。
棺で寝ているじいちゃんのすぐ近くに置いた。

大人の話では、あの時、僕が雪を取りに行っている間に、じいちゃんは少し苦しそうにしてからすぐに亡くなったらしい。
そうか。
じいちゃんは僕を怖がらせたくないから、雪をとりに行かせたんでしょう?
それくらい、わかるよ。

お母さんが僕に封筒を渡してきた。病室の引き出しにあった僕あての封筒。じいちゃんの字で僕の名前が書いてある。
開けたら2つの鍵と、メモ帳を破って書いた手紙が入っていた。
手紙には
「君は親友だから」
それだけが書かれていた。
僕はそれを見たら急に、じいちゃんが亡くなったという事、その意味がわかって、大きな声で泣いた。

鍵の一つはじいちゃんの畑の隅にある、農具を置いた小屋の鍵だった。
畑仕事はじいちゃんしかしなかったから、小屋の中に何があるのかは、時々手伝っていた僕だけが知っていた。

お母さんと一緒に小屋に来たのは初めてだ。
鍵のひとつを使って入り口のシャッターを開ける。
クワとカマとか、耕運機がいちばん手前にあって
いろんな種の袋を山盛りに入れた缶や、野菜の育て方の本。
休憩の時に座る、破れてクッションがはみ出した丸椅子と、灯油のストーブ。
壁に掛かった紺色のカッパと長靴。
これは、何度も見た風景。
でも、もう全部、大事に使っていた持ち主を無くしてしまったんだ。

「寒いねぇ…」
お母さんは座りにくそうに丸椅子に座って、灯油のストーブを覗き込んだ。お母さんがここにいるなんて、なんだか不思議な光景だ。
「…あんまり変わってない。お父さんの秘密基地。」
「え!お母さんもここに来たことがあるの?」
「うん。なつかしいね。小さい頃もね、遊びに来ていたの。」
「へえ。お手伝いした?」
「したよ。収穫や草むしり。私はすぐに飽きて遊んでいたけれど…。…あんたは偉いよね。お父さんの助手みたいだった。」
「…そうかも。」

お母さんはほこりをかぶった壁の棚の、一番上の箱を指さした。
「あれ、とって。」
僕の両手にちょうどよく収まるくらいの箱。この場所によく来ている僕も中身を知らない。脚立を持ってきて箱をおろす。重いから、慎重に。
「あんた、頼もしくなったね。」
お母さんがにこにこしていた。
照れくさいからやめてほしい。

ほこりを払った箱には鍵がかかっていた。
何が入っているのだろう?
「開けて。じいちゃんの宝箱。」
「え?…いいの?」
「もう一つのカギ。その箱のカギだと思う。助手に開けてほしいから、あの封筒に一緒に入れてたんでしょ。」
…そうか。
僕はポケットからカギを取り出して、古い小さな南京錠を外す。
箱を開けると入っていたのは、何冊もの古い本と石。
お母さんが寄ってきて覗き込む。
「これはね。宝物なんだってさ。」
「…ふうん…」
本は上下きちんと揃えてあって、著者名は全部宮沢賢治だった。
「…そういうものに、わたしはなりたい。」
「なにそれ。」
じいちゃんは宮沢賢治の「アメニモマケズ」を暗記していて、作業をしながらつぶやいていることがあった。
自分に言い聞かせるように。時々歌うように。
「お母さんね、小さい頃じいちゃんに読み聞かせてもらっていたの。この本たちを。」
「そうなんだ。」
「でもね。じいちゃんは歳をとるごとに目が悪くなって…本の字は読めなくなったんだって。」
「…そうなんだ。」
鍵をかけた宝箱の中に、何度もめくられた跡がある本。
僕に渡された鍵。

「ひいおばあちゃんも、じいちゃんに宮沢賢治のお話を読んで聞かせてくれたんだって。」
じいちゃんのお母さんか。僕は写真でしか会ったことがない。

一冊を手に取ると…難しい言葉が書かれていた。

わたくしといふ現象は

仮定された有機交流電燈の

ひとつの青い照明です

​この本…僕にわかるのかな。
パラパラとめくってみると、ポロッと何かが落ちた。
古びて色あせているけど、形は崩れていない四つ葉のクローバー。

そのページの詩の一節が僕の目に留まった。

わたくしをいっしょうあかるくするために 

こんなさっぱりした雪のひとわんを

おまえはわたくしにたのんだのだ


その言葉は僕の心にするりと入って
奥深くで純白に輝いて
この体に染みこんでいくような感じがした。

おまへがたべるこのふたわんのゆきに

わたくしはいまこころからいのる

どうかこれが天上のアイスクリームになつて

おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに

わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ



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白文字部分出典:宮沢賢治「春と修羅」より

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