見出し画像

【小説】記憶喪失中の私

 記憶喪失中の私。階段から落ちましたが奇跡的に生きています。足や手など体のそこらじゅうを骨折しているため、ただいま入院しています。
 一番痛手なのは、記憶がなくなってしまったことです。落ちた時の記憶もなく、自分の生年月日や名前さえも最初は分かりませんでした。しかし、運転免許を携帯していたため、私が誰なのかを知ることができました。まあまあ良かったです。
 二番目に痛手なのは、身寄りの親戚がいないということです。母親や父親どころか、兄弟もいないみたいで結婚もしていない。記憶喪失前の私は孤独だったのだと思うと、心が痛くて麻酔がないと眠れません。
「ねえリエちゃん。記憶喪失って動詞なのかな?名詞なのかな?それとも形容詞?」
 三番目に痛手なのは、この病室でアケビの皮をむいている男に付きまとわれているということです。私はベッドから出られないので、付きまとわれているという表現は適さないのかもしれません。
 彼の名前は柴田というらしく、なれなれしく話してきます。面会に毎日来て、果物を持ってきます。私が「もうやめてくれませんか?」というと、彼は「じゃあ、俺が君の好きな果 物を持ってこれたらやめるわ」といいました。次の日から彼は、珍しい果物しか買ってこなくなりました。マンゴスチン・デーツ・キイチゴなどです。さすがにドリアンを持ってきた ときは、病院から追い出されていました。しかし、彼の持ってくる果物は、すべておいしく 外れたことがありません。
「ねえ、聞いてる?」
「はい」
「動詞?名詞?形容詞?」
彼はこんなどうでもいいようなことを、毎日話して帰っていきます。仕事は何をやっている のか聞いてもはぐらかしてきます。たぶん、現実から目を背けたい楽観的な人間なのでしょう。
「記憶を喪失する、なので動詞じゃないんですか?」
「じゃあ調べて」
彼は私のスマホに指さして、検索しろと指示してきました。
「いや、パスワードわかりませんし」
「そっか、、、まだわからないのか」
なんか腹が立ってきました。
「もういい加減来るのやめてもらえませんか?」
「いや、だから好きな果物あてるまでやめないから」
彼はそういうと、きれいにカットされたアケビを私の目の前に渡してきました。お皿を受け 取ると、カットされたアケビを初めて見る私は、少し怖いなと思いました。しかし、彼がアケビをすんなりと食べたため、すぐに恐怖心はなくなりました。
「おいしい」
良いたとえが見つかりません。未知との遭遇とはこのことなのでしょう。触感はぐにゅっとしていて、味は酸味がなく甘みが強いです。おそらくこの果物は彼と会わなければ、一生食べることはなかったので、そこは感謝したいと思います。しかし、
「もう来るのやめてもらえませんか?」
「いやだからさ」
「ドラゴンフルーツです。私の好きな果物」
彼は驚いたような顔で見てきました。彼はなぜか笑顔で話しかけてきました。
「ドラゴンフルーツなんだぁ。へぇ~」
彼はどや顔で頷いています。
「ドラゴンフルーツです。だから柴田さん、あなたはもう来ないでください」
「まあまあ、じぁあ君の勝ちってことだね」
「はい、勝ちです。だから」
私の言葉を遮って、彼が質問しました。
「じぁあなんで、ドラゴンフルーツが好きなのよ」
「おいいしいから」
「違う違う、ドラゴンフルーツが好きになったきっかけは」
そんなのかっちゃんが持ち帰ってきた売れ残りを食べて、、、
「かっちゃん?」
「正解。⾧いよまったく」
かっちゃんはため息をついて、私はすべてを思い出した。彼が果物屋で、楽観的だけどまじ めで、男手一つで育ててくれた私の父が亡くなったとき寄り添ってくれたこともすべて思 い出した。
「ごめんねかっちゃん」
私は泣いて謝ることしかできなかった。
「もうそろ五時だ。面会時間終了だな」
「とんだブザービーターだよ。かっちゃん」
私は鼻水を豪快にたらしたため、アケビが食べられなくなった。私は、かっちゃんに一つ頼み事をした。
「かっちゃん。明日ドラゴンフルーツ買ってきて」
「嫌だよ」
「なんでよ!」
「そしたら、俺はここに来れなくなるだろ」
「もういいよ。かっちゃんが勝ちで」
彼は嬉しそうに何度か頷き、私を背に帰っていった。
 かっちゃんがいなくなった病室は静かでやることがない。私はおもむろにスマホを取る。
「パスワードは0114」


そう、パスワードは柴田理恵の誕生日。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?