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夜の海を思い出して

 三年という長いような短いような、中途半端な期間を一緒に過ごした彼女が死んだ。彼女は僕より一つ年上で、バイト先で出会った人だった。
 僕はあまり会話を好まなかったが、彼女はよく喋りよく笑う。僕とは別の臆病さを持った人だった。
 僕は就職して、元々社会人だった彼女と会う機会は減っていった。大学生だった頃は毎週のように会って、僕の家に彼女がきて、飽きるまでセックスをして、飽きたら飽きたで会話をした。
 満ち足りた退廃的な日々は、お互いの肉体の香りがしていた。僕たちはそれを幸せと名付けていた。
 社会人になってからは、なぜか、そういうことが上手にできなくなった。疲れていたのかもしれない。
 浅い眠りは、僕に同じ夢を見せた。彼女と一緒に乗った船の上、周りを見渡しても黒い海しかなかった夜のこと。
「私、君が働き始めて私を養おうとか言っちゃったらさ、幸せすぎて死んじゃうかもしれないな。」
「ありえない話じゃないよ。」
「そうなの?私はてっきり、君には就職する気がないのだと思っていた。私の収入でなんとか生き延びようとしているのかとばかり。」
「君は気づいていないかもしれないが、僕だって男の子として育った時間がある。」
「私のこと、守ってくれるの?」
「もちろん。」
「ね、手繋いでもいい?」
「誰もいないし。」
「で、どうやって私を守ってくれるの?そもそも守るって何って感じだけど。」
「僕はいつも車道側を歩いている。」
 彼女は笑った。
「車が私たちに衝突してくるとしてさ、君が私の代わりに轢かれたら、私は嬉しくないわ。君が怪我をして私が無事で、喜ぶと思ったの?それとも私の代わりに死ぬとか?それって優しさなのかな。私には分からない。悲しい。君にそういう想像力はないの?」
「死ぬよりも悲しいことなんてないと思った。」
「自分勝手。それに車なんて、よっぽどのことがなければ私たちを轢かないわ。もっと身近な危険っていっぱいあるのに。馬鹿なのね。愛おしいわ。大好き。」
「例えば何?」
「秘密。」
 彼女は僕の家のポストに、400万円の現金を入れていた。死ぬ前に僕に会いに来たのかどうかは知りようがない。彼女が現金を持ってきたときには仕事で留守だったし、彼女は僕の勤務時間を把握していたから、家にいると思ったわけではないはずだった。
 遺書はなかった。封筒にお金だけが入っていた。
 僕はそのお金で船に乗っている。彼女と来た夜の海だ。
 残ったお金は、彼女が好みそうな洋服に使った。
 ひらひらの白い服。彼女は女の子らしい服が好きだった。しかし女の子らしい服を着ることは少なかった。「似合う服の方が私は好き。」照れる彼女を僕は否定したけど、彼女は僕を信じてはくれなかった。
 洋服はマッチングアプリで出会った人にあげた。メルカリで検索したら、僕のあげた洋服たちが一つのアカウントから出品されていた。彼女の洋服は次々と売れていく。マッチングアプリで出会った人とは連絡が取れなくなった。名前も忘れてしまった。
 海の上にいる。これからどこに行くのかは、船が決めてくれる。

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