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高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』を読んで

高橋源一郎
昭和57年
さようなら、ギャングたち
講談社

 高橋源一郎氏は文芸誌の新人賞の審査員。また新聞や雑誌での発言。本の帯や解説(特に夏目漱石について)。YouTube等でよく目にしていた。やたら早口で話が脱線をするも最後には元に戻す才人だと認識していた。また一時期、作家の室井卯月と結婚をしていたことも。

 恥ずかしながら私は高橋源一郎氏の本を一冊も読んでいない。そこでデビュー作の『さようなら、ギャングたち』を手に取ってみた。なお、私は本を読むのが遅いので、三日かかった。

 当作は当初、『すばらしい日本の戦争』(のちに手を加え『ジョン・レノン対火星人』として発表)という中編小説で昭和五十六年の群像新人文学賞に投稿され、最終選考に残った。当時の審査員は川村二郎氏、木下順二氏、瀬戸内晴美(現瀬戸内寂聴)氏、田久保英夫氏、藤枝静男氏の五名。瀬戸内晴美氏以外は酷評をし、受賞を逃した。その後、講談社の編集から、長編に書き直して群像新人長編小説賞(現在は消滅)に応募したらどうかと勧められ、二か月で書き当作を書いて応募したという。選考委員は秋山駿氏、大庭みな子氏、黒井千次氏、佐々木基一氏の四人。佐々木氏のみが「わたしはお手あげだった。部分的に光るイメージはあるものの、これが長編小説と云えるだろうか」(『群像』九月号)という反論によって、受賞作なしとなり、この「さようなら、ギャングたち」は優秀作となった。

さて、そんな前衛的な作家だった佐々木基一が「長編小説と云えるだろうか」と疑問を投げかけた当作に挑んでみる。
『さようなら、ギャングたち』は三部からなっている。一部は「〈中島みゆきソング・ブック〉を求めて」。二部は「詩の学校」。三部は「さようなら、ギャングたち」。

 書き忘れたことがある。私もこの本を読み始めて三十分も経たないうちに感じたことがある。それは「これは果たして小説と云えるのだろうか… ということである」。そう、つまり、佐々木基一氏と同じことを感じたのである。第一部はだいたい原稿用紙換算で百枚あるかないかくらいの文量だと思うが、章分けが二十八もあるのだ(大きな章は五つ)。なかには一行で終わるものもある。しかし、その細かい章分けがキラリと光る時がある。〈中島みゆきソング・ブック〉とは主人公である〈さようなら、ギャングたち〉が名付けたガール・フレンドの名前なのだが(名づけた後はS.Bと書かれ、呼ばれる)、その二人の子供であるキャラウェイが役所からの手紙で突然に亡くなるシーンではとても光るのである。十三章でキャラウェイが死を迎える時に「キャラウェイ、おいたなんかしない」とつぶやくシーンがある。その後の二十五章で幼児用の墓場でキャラウェイが一言だけつぶやくのである。「おいたをしたからだわ」と。この「おいたをしたからだわ」の一文だけで二十五章を占める。このシーンは私には何かしらの感動を得た。単なる子供が死に(死んでいながら喋るのだが)、悲しいということではなく。この一言でこの章を持たせる力を持っているということに感動を得たのである。

 第二部「詩の学校」は第一部と第三部と比べると、いささか冗長となる。ひょっとして別作品から転用のような形をとったのではないかとも思う。なぜかと言うと、第二部の十二ページ目から八十ページにわたり、S.Bと飼い猫のヘンリー四世の姿が見えず、ひたすら詩の教室がある建物、そして教室内の説明をし、その後は十二人の生徒が来て、とめどもない詩の授業を始める。しかし、とめどもないなかにもハッとする光が見え、三部の中の欠点の多い二部でも凡人の作ではないことを感じる。木星人との授業では図表を用いていたり、S.B復帰後は突如ベージを開くと漫画になっていたりする。最後の生徒がギャングたちであった。

 ここから第三部「さようなら、ギャングたち」となる。ギャングとはいわば人間そのもの、いや作者高橋源一郎そのものと言えるかもしれない。その中でもギョッとする一文を二つ見つけた。何度も書くが、この小説は昭和五十七年に発表されたものである。
「私たちは金(マネー)の問題については、ある意味では悲観的な立場をとっていました。この世界に於いては、金(マネー)の本質は仮象(シャイン)だからです。」
 これはこの後三十年以上先に登場する仮想通貨を思い起こすことができないか。仮想通貨は仮象なのである。一般的な通貨、たとえば日本銀行券などは中央銀行たる日本銀行が持ちうる債権や金(ゴールド)を担保として通貨を発行している。しかし仮想通貨はシャインだ。

あと、もう一つ。これは死にゆくヘンリー四世がトーマス・マンの短編が読みたいと言い、(この世界では)トーマス・マンという小説家は存在していなく、主人公がトーマス・マンになりきり『とべない日』という話を思いつくのだが、〈重力〉という言葉がトーマス・マンぽいということで「象や河馬や貿易センタービルは自分の重みにたえかねてつぶれてしまった」と書かれている。『貿易センターがつぶれる』。何度も書くが、これは昭和五十七年の小説。貿易センターに飛行機が突っ込んでつぶれる十九年前なのだ。

 この小説はポスト・モダニズム時代の小説の代表作と言われている。私はこの書評の初めに「これは果たして小説と云えるのだろうか… ということである」と書いた。一見、散文、抒情詩、叙事詩、叙景詩のハイブリッドとも思えた。ストーリーの展開も積極的に追ってはいない。しかしある種の音楽。たとえばジョン・ケージの音楽のチャンスオペレーションと呼ばれるジャンルを聴いていても、思い付きの音楽と思われるものでも聞く者に、これは音楽だと思わせるものがある。それはジョン・ケージがバッハ以前からシュトックハウゼンまでの音楽史をきちんと理解して作れたものだからだ。だとしたらこの高橋源一郎氏の『さようなら、ギャングたち』は氏が小説として意図して書かれたものならば小説なのである。この本を読むと氏の半端じゃない文学の知識を読み取れる。ただ文字を書き、バラバラにし、くじを引いて並べた文章ではないのである。第二部の冗長さに少々うんざりすることもあるが(特にウェルギリウスの場面)、この作品は小説であり、逆説として、どのような文章でも『小説』として成り立つことを立証した画期的な作品と言えるのではないだろうか。

 私も小説家の端くれ。このような画期的な小説が書けたら、いかに批判を受けようとなんと幸せなことだろうかと思う。

#読書感想文 #書評 #高橋源一郎 #さようなら 、ギャングたち #芥川賞

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