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【短編小説】母への手紙

  気持ちのいい日曜の朝、近くのコンビニに行った。その途中公園で、遊ぶ若いお母さんと子どもの姿が目に入った。男の子だろうか。子どもがお母さんの周りを走り回る。思わず私も微笑みながら、自分のことを思い返した。私にはこんな思い出がなかった。
私には母がいない。私が三歳のとき、父と私をおいて家を出ていった。どうやら若い男と
一緒だったらしい。だから私には、母の記憶がほとんどない。ただ少しだけ記憶にあるのは
いっしょに動物園にいってお弁当を食べたということぐらいである。

 子どものころの私はいつもさみしさと背中合わせの毎日だった。運動会でいくら速く走っても誰も見てくれない。授業参観で、作文を読んでも誰も聞いてくれない。同級生はみんなお母さんがやってきて手を振って見てくれた。この誰にも言えないさみしさは生涯忘れることはないだろう。
 そんな状況だったが、父は懸命に働いて育ててくれた。晩ご飯も弁当も毎日父が作っていた。友達の弁当はおしゃれなキャラ弁なのに、私の弁当はご飯に梅干しとコロッケだけ。それでも嬉しかったことを覚えている。そして私は大学までいくことができた。私もつらかったが父も同じ思いを背負っていたはずだ。

 私は大学を卒業し、中堅企業に就職した。地道に働いて三十歳となった。結婚したい彼女もできた。結婚する前に一度でいいから母に会いたかったし、彼女にも会わせたかった。だが、会う手段がない。母の居場所もわからない。
 母に会いたい思いが募る。何か方法はないかと知恵を絞った。可能性は厳しいが小説を
書こうと思った。母との思い出や母への思いを私自身の実名で書けばもしかしたら母が読んでくれるかもしれない、と考えた。母への手紙を小説にするのだ。出版社に連絡し相談を
してみた。とにかく原稿を書いてくださいという。1年、2年と悩みながら書き続けた。かなり出版社の方に修正してもらったが出版することができた。タイトルは「母への手紙」。
母に対する私への思いを自分の言葉でつづった。
 すると、まさかのことが起きた。この「母への手紙」が話題作となったのだ。思いのほかに人気が出たのだ。できることなら母に読んで欲しいと必死に祈った。
 それから数か月が経過したある日、出版社あてに一通の封書が届いた。内容は私あてのものだった。私の母からの手紙だったのだ。
「あなたの名前と同じ作家の本があることに気がつきました。タイトルも『母への手紙』。
あなたが私に書いてくれた本ではないかとすぐにピンときました。そして早速本を読みました。本当にごめんなさい。つらく寂しい思いをさせてしまいました。
お父さんとあなたにはお詫びのしようがありません。
申し訳ありませんでした。
お母さんは今は一人で ひっそりと暮らしています。
もうあなたとは会うこともないと思います。
元気で幸せにくらしてください」
と綺麗な字で書かれていた。

 できれば会いたかったが、母と連絡がとれただけでも私の心の中でわだかまりが
なくなっていた。
私は、小説を書いている間に彼女と結婚し息子も生れていた。母からの手紙を妻も
喜んでくれた。

 それからしばらくして、私が会社から家に帰ると三歳になる息子が一人で遊んで
いた。
「あれ、ママは?」
「ちょっと、お買い物に行くからねって」

 そのときから妻は、二度と家にもどることはなかった。
                           おわり

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