鳥の話|シロカツオドリ|コロニー訪問記
エディンバラから電車で30分、港町ノースベリックにその島はある。
真夏でも雪が積もったように白く、単純な形をした小さな島。これが、シロカツオドリの世界最大のコロニー(集団営巣地)になっているバズロック(Bass Rock)だ。島が白く見えるのは、ここに集まったおよそ15万羽のシロカツオドリによるものである。
私は今年の8月中旬に、コロニーツアーに参加して3時間をこの島で過ごした。
鳥たちの朝
ツアーの集合時間はAM6時だった。こんな早朝にエディンバラからの交通手段はないので、前日からエアビーで前乗りした。
当日、私は一番乗りだった。いつもは地元の人たちで賑わっている海岸も、早朝は人っ子ひとりおらず、別世界のように静かだった。この冷たい空気の中にひとりぽつーーーん
と幸せな妄想に浸っていたら、先客がいた。アオサギだ。
朝焼けの美しさなんてアオサギからすればどうでもよく、一心に水面を見つめている。
カワアイサも綺麗な隊列を組んで朝日とは逆の方向に泳いでいく。
建物を見上げると、何かの鳥が屋根を飾っていた。
「メイ島という島では、パフィンがこんな感じで大勢で迎えてくれるよ」いつの間にか現れたガイドさんが教えてくれた。いいなあ、見に行きたいなあ。まあ今日の目的地は、シロカツオドリのいるBass Rockだ。
他のツアー客も集まり始めていた。みんな立派な一眼レフを携えていて、やっぱりなと思う。もっと集まりやすい時間帯で、お手頃のツアーならば他にある。こういうツアーに参加するのは写真家とか自然関係の仕事している方が多いのかもしれない。
と思っていたら、遅れて3人の親子が登場。彼らは私と同じ、鳥好きの一般市民という風情がして、勝手に安心する。
ガイドさんにサイン入りの「免責事項」の紙を渡し、ライフジャケットを着たら、8人を乗せたボートが出発。この日の海は凪いでいて、海面は朝日を浴びて柔らかくとろけていた。そこにはウミガラスがぷかぷか浮かび、ボートの作り出す波に煽られても特に気にしていないようだった。
喧騒、匂い、密度
ジェット船を飛ばすこと10分、いつも遠くからしか見ていなかったBass Rockが近づいてきた。同時に、雪のようだった白い粉が何万羽ものシロカツオドリとして明確に姿を現した。
…とてもうるさい。これが素直な第一印象。
カラーガラーカラーガラー、カラーガラーカラー!
さっきまでの静寂とは打って変わって、あたりは音でいっぱいになった。スコットランドの離れ小島にいながら、大都会のスクランブル交差点にでもいるような気分だ。
冒頭でも少し触れた通り、Bass Rockにはわずか0.03万平米の土地に15万羽が暮らしている。あまり規模感がピンときていなかったけど、近づくにつれてその多さを理解し始める。というか、異常なのだ、密集具合が。都会の満員電車や大型連休の行楽地における混雑は、動物に備わっている縄張り本能を捨て去ったヒトならではの自然じゃない現象だと思っていたが、この自然の島でも同じことが起こっていた。
滑りやすい岩場に足を取られないよう気をつけながら、一人ずつ島に上陸した。すると今度は、強烈な匂いが鼻をついた。食べ残し、吐き戻し、排泄物、死骸・・・発生源はこの辺りだろうか。まあ、魚食性の生き物がこれだけたくさん集まれば当然のことではある。
喧騒、密度、匂い。
その中において私たちは完全に部外者だった。鳥の圧倒的な存在感がはっきりと「ここは人間の土地じゃない」と伝えてきていた。ふだんの鳥との出会いは、川沿いだったり公園だったり、鳥と私の生活圏が重なるところにある。でもここは違う。ここは彼らの独壇場だ。つまりこれがコロニーだ。
排他性と家族愛
異常なほどの密集空間で集団生活が成り立っているのであれば、この鳥は友好的か、少なくとも社会性を備えた鳥なのだろうか?
いや全く、そんなことはない。
うるさい鳴き声は、その多くが仲間に対する威嚇として発せられているように見えた。
これほど密度の高い空間にあっても、やっぱりそれぞれの縄張りがあるのだろう。少しでも踏み込んでくる他人(他鳥)がいれば激しく鳴き、その尖った嘴で容赦なく突こうとする。
カツオドリ科の仲間は攻撃的な性格のものが多いらしい。一説によると、こういう鳥でも敢えて集まって暮らすのは、餌場の情報などを共有しているからだそうだ。どうやってコミュニケーションを取っているんだろう、ガーガー喧嘩腰な彼らが「北西〇〇kmにニシンがたくさんいるよ」なんて教えあっているところは想像できない。
そんな敵対心旺盛なシロカツオドリでも、例外がいる。
自分のパートナーと子供である。
シロカツオドリは一度パートナーを見つけると、片方が亡くなったりしない限りは毎年同じ相手と子育てをし、その関係は生涯続くそうだ。
「オシドリ夫婦」というが、オシドリなんて実際は毎年相手を変えるわけだから、仲良しカップルの代名詞を「カツオドリズ」に変えるのもありなのでは?とも思う。
彼らは年に1つだけ卵を産み*、ヒナが独り立ちするまで、つまり初夏から秋ぐらいまでは大事に守り育てる。
親とふわふわの白い子が寄り添ってもう一羽の親の帰りを待つ様子は慈愛に満ちている。
片方が狩りから帰ってきても、すぐに子供に食事を与えるのではなく、まずパートナーどうし嘴を叩きつけあい、絆を確かめ合う。
たとえばツバメみたいに、巣に慌ただしく帰ってきては大きく開いたヒナの口に次々に虫を突っ込んでいく鳥とはずいぶん様子が違うものだ。カツオドリ社会ではそれほど大人同士の緊張感は強く、目の前にいる相手がちゃんと信頼できる彼・彼女だという確認作業が重要なのかもしれない。
シロカツオドリの苦手なこと
シロカツオドリは翼長170cm以上になる大型の鳥で、魚群を求めて大洋を滑空し、その飛行距離は460kmにも及ぶ。長い翼を広げた姿はプテラノドンとかナントカドンを思わせる。
こういう鳥は長距離飛行が得意な反面、陸の上を歩くのは苦手なことが多いらしい。確かに、大きな水かきのついた短足は見るからに歩きにくそう。
優雅な滑空で海から戻ってきたカツオドリは、いつもはスッキリ畳んでいる尾羽を広げて減速し、平たい足を前に突き出してズサーッと着陸する。
一羽のカツオドリが私の目の前をヨタヨタと横切った。そのわずか10mの距離を歩く間、何回も石に躓いて(あるいは何もないところで)転びかけていた。かわいい。
ちなみにこの鳥のストロングポイントである飛行とダイビングに関しては別の記事に紹介している。
病気と死と生きること
2022年はイギリスの鳥にとって受難の年だった。鳥インフルエンザだ。
これがちょうどシロカツオドリの繁殖期を直撃し、Bass Rockでも、約4分の1の命が失われたという。
コロニーの観察中、多くのカップルが子育てに勤しんでいる横で、ぽつんと暇そうにしている個体を何羽か見かけた。ガイドさん曰く、こういう個体は去年パートナーを失くしたばかりの可能性も高いそうだ。
ガイドさんが去年の様子を話してくれた。
「親を失ったヒナがたった1羽、あの場所に座って帰りを待っていました」と岩場の一点を指し示す。
「ヒナには普段、両親のどちらかがついていますが、一方が亡くなると親はヒナをひとり残して狩りに出かけます。その間、ヒナは他の大人たちに威嚇されたり攻撃されても、片時もその場を離れませんでした」
「興味深い発見もありました。普段は個人主義の鳥ですが、親を亡くしたヒナが一箇所に集まりだしたのです」
集まってどうしたのだろうか?もう少し掘り下げて聞けばよかった。
「とても大変で悲しい出来事でした。同時に、研究者としては、困難な状況の中でカツオドリたちがどう振る舞うのかを観察する貴重な機会でもありました」
そもそも私がこのコロニーの存在を知ったのは、一本の興味深い記事がきっかけだった。インフルエンザに一度かかってから回復したカツオドリの目の色が変わった、というものだ。
"鳥インフルエンザから生還したシロカツオドリの虹彩が青から黒に変化することが調査で判明" The Gurdian, 2023/5/4
この話には続きがあり、彼らの中に、このウイルスの抗体を獲得した個体が現れたそうだ。
"【心強い兆し】致命的な大流行のさなか、野鳥たちが鳥インフルエンザに対する抗体を獲得" The Gurdian, 2023/10/23
「去年はとても静かでした。それを思うと、今また賑やかな状況に戻りつつあるのが本当に嬉しい」とガイドさんは言った。
島での3時間がすぎて帰るころになると、ガーガー声に耳が慣れ…いや、やっぱりうるさい。
あとがき:自然に立ち入るということ
はー、やっと書いた。
これはきちんと書かなきゃいけないと思いつつ、すごく時間がかかった。その割に書き切ったという充実感もないのだけど、仲良しのアンさんが「あれもこれも書こうと思っているうちに結局何も書けなくなる」という名言を(全く別の文脈で)私にくれたので、もう出してしまうことにした。
私は鳥が好きだから、彼らの生活を邪魔したくない。だけど鳥が好きだから、彼らに近づき、それだけで少なからず影響を与えてしまう。研究者やカメラマンだったらよかった。そしたら、彼らの役に立つこともできるかもしれない。
だけど今のところ、ただの一般の鳥好きだ。ただの鳥好きがコロニーという彼らのテリトリーに立ち入った。だからこそ、自分の中に留めておくより誰かの目に触れる場所に残したい。
一つ安心したのは、立ち入れる区画が思ったよりも狭く、それほど鳥たちの邪魔にはなっていなさそうだったことだ。島のてっぺんまでぎっちりとカツオドリたちで埋め尽くされているが、研究者でさえ特定の区画以外はあまり立ち入らないのだと言っていた。
なおかつ、シロカツオドリは図太い神経の持ち主だった。手の届きそうなほど近くを通ることもあったのだけど、彼らは逃げないばかりか容赦無く噛みつこうとしてくるので、長い嘴が届かないようこちらが身をよじらなければいけないほどだった。威嚇されるならまだ良いのかもしれない。ある個体は、私が立っているわずか数十センチ先でうとうと寝始めた。「野鳥」ってなんだったかな。
そもそも、自然とはなんだったかな?
以前、平日は大都会のビル群を飛び回る上司に「お休みの日は何をしているのですか?」と聞いたら、「自然に帰る」と言っていた。天体観測やダイビングをするらしい。現実の生活を頑張っていると、人は自然に向かいたがるのだろうか。私も都会の仕事から逃げるようにして遠いスコットランドの自然にたどり着いた。
だけど、美しい自然・・・星が煌めく夜の空、魚煌めく海の中。鳥のさえずり、精悍な狩りの姿、春夏秋冬の色の中を飛び回る様子。
これを自然と呼ぶのなら、
違和感を覚えるほどの密度、喧騒、攻撃性。病むこと、死ぬこと、生きようとすること、愛すること。確かにこれも自然の一部だった。
このコロニーは紛れもなく大自然だった。こういう、身に覚えのあるような、生々しい現実の中に生きる私も自然の一部なんだった。