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「自称進学校」って言葉を使うの、もうやめませんか?

明けましておめでとうございます。日々「朝森教育データバンク」で学校教育評論を書き連ねている朝森久弥です。

私は『進学校Map』という企画を長年行っているほどには「進学校」という言葉に思い入れがあります。

そんな私は「自称進学校」という言葉が嫌いです。私が知る限り、少なくとも2000年代から使っている人はいました。最近はYouTubeの受験系動画で話題になることも多く、「自称進」という略称まで生まれている有様です。2022年時点では、大抵の高校生が耳にしたことがある言葉ではないでしょうか?

「自称進学校」という言葉は、大きく分けると以下の2つ(AとB)の意味で使われていると理解しています。いずれの場合も、大学進学を目指す高校(普通科や、理数科などの特進系専門学科)であることが前提です。

A.生徒に対する束縛が厳しい高校

たとえば次のような事象が見られる高校は「自称進学校」とよばれやすいようです。

・0時間目や放課後補習、長期休暇の補習が多く、しかも事実上強制参加

・課題の量が(生徒目線で)異常に多い

・授業中の内職に厳しい

・校則が理不尽で、生徒の自主性を尊重していない

・生徒の進路選択に教員が強く干渉する(田舎県における国公立大学至上主義など)

B.「進学校」を名乗っている割には、大学合格実績がパッとしない高校

ここで言う「パッとしない」はかなり主観的なもので、いわゆる難関大学合格者数を基準にする人もいれば、「東大に○人以上受かってないと自称進学校」という人もいます。さらには「偏差値△以上が進学校、それ未満は自称進学校」のように、学力によるヒエラルキーで進学校の次のランクに位置する高校の意味で使っている例も見かけました。

上記のAとBのいずれの意味でも、「自称進学校」は蔑称、すなわちネガティブな意味で使われていることは明白です。「進学校」というブランドを持っているように見えて、本当はそうではない。そうした状況を嘲笑したり自虐したりしたいがために、「自称進学校」という言葉が広まっているのでしょう。

こうした状況を踏まえて、私が「自称進学校」という言葉を使うべきではない、少なくとも生徒自身や教育に携わる人間が使うべきではないと考える理由を2つ挙げます。

理由1.定義があいまいな言葉だから

前述した「自称進学校」の2つの意味のうち、Aは校風による定義で、Bは成果による定義と言うことができます。確かに、AとBを両方満たす高校もあるでしょうが、次のような高校だってあるのではないでしょうか?

・生徒に対する束縛は緩く、大学合格実績がパッとしない高校(Aは満たさないが、Bは満たす

・生徒に対する束縛が厳しく、大学合格実績は目を見張るものがある高校(Aは満たすが、Bは満たさない

「生徒に対する束縛は緩く、大学合格実績がパッとしない高校」は、要するに自由放任の学校か、そもそも大学合格実績に重きを置いていない高校です。どことは言いませんが都市部を中心にちらほら見かけますし、内部進学が前提の大学附属校の多くはこれに当てはまりますね。

「生徒に対する束縛が厳しく、大学合格実績は目を見張るものがある高校」は、九州地方の高校でよく見かけます。九州地方で大学進学を目指す高校の多くは、いわゆるトップ校も含めて朝課外(0時間目)が事実上の強制参加になっていますね。

ここで「進学校」の定義を顧みると、定義は人それぞれではあるものの、合格難易度(いわゆる偏差値)や大学合格実績が基準になっており、成果による定義が定着しています。と言うことは……

「生徒に対する束縛が厳しく、大学合格実績は目を見張るものがある高校」は、「進学校」かつ「自称進学校」

と言えるのではないでしょうか?実際、受験系のYouTubeチャンネルである「CASTDICE TV」が投稿している「進学校・自称進学校の定義とは?」という動画で「進学校かつ自称進学校があるかもしれない」と述べており、思わず苦笑してしまいました。ここまで来たら、Aを満たす高校は「束縛型高校」とか「管理型高校」とか言った方が分かりやすいと思いますが……。

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上記の画像は「CASTDICE TV」の動画「進学校・自称進学校の定義とは?」(5:56)から引用

「自称進学校」の定義のあいまいさを鑑みて、『進学校Map』では基本的に「自称進学校」という言葉を使わないことにしています。『進学校Map』の定義では進学校には選定しなかった学校を「自称進学校」とよぶこともしていません。校風による定義なのか成果による定義なのかをはっきりさせないと(どちらの定義なのかを読者に正確に受け止めてもらわないと)議論が進まないからです。私のように分析をライフワークにしている人間にとって言葉の定義が極めて重要なのは言うまでもありませんが、生徒を教え導く立場の人もまた、言葉の定義には敏感であるべきです。自らが生徒に放った言葉が、生徒の人生を大きく変える力を持っているのですから。

理由2.やる気をくじく言葉だから

前述したように「自称進学校」は蔑称として使われています。

「○○高校は自称進学校だから行かない方がいいよ」
「どうせうちは自称進だから……」

こうした発言が毎日のように日本のネット空間を飛び交っているのです。

高校生が「うちの高校は課題が多くて大変だよ~」と愚痴っているくらいならまだいいでしょう。しかし現在では、「自称進学校」という言葉が特定の高校を貶める言葉として使われるようになってしまいました。自分の通う高校を「自称進学校」と言われた、あるいは自分に言い聞かせた途端、「自称でない進学校よりも一段格下の高校にいるんだ」という想いを強くするでしょう。こうした想いがその生徒の学習意欲を高めるとは、私はどうしても思えません。むしろ、

「自分の通う高校は自称進学校だから、自称でない進学校よりも格下で大学合格実績も及ばないんだ。それが当たり前なんだ」

と言い訳してしまう生徒が多いのではないでしょうか?

「自称進学校」に対する非難として、次のようなものがありますよね。

「自称進学校は“受験は団体戦”だとよく言うけど、受験は自分の点数だけで決まるんだから、“受験は個人戦”に決まってるじゃん!」

ところが、こうして「自称進学校」を非難する人が、同じ口で「うちは自称進だから……」と自虐してしまっています。いや、個人戦ならば、どこの高校に通っていても関係ないですよね?

もちろん、高校の雰囲気が生徒に与える影響は少なからずあるでしょう。けれども、どこの高校に通っているかということが、学びの手を緩めたり、学びを諦める理由にはならない。ましてや教員が、生徒の置かれた環境を揶揄することで彼らの意欲をくじくことがあってはなりません。

また、塾業界の人は、集客のために仕方がない側面はありますが、しばしば学校の教育システムをけなす習性があります。

「キミたちの通っている学校は自称進学校だ!学校任せの非効率な勉強をやってないで、うちの塾に入ろう!」

さすがにここまで露骨な言い方は見かけませんが、高校生に塾という選択肢を選ばせるために、「自称進学校」という言葉がよく使われています。もちろん、通塾がきっかけで成果を出せる生徒も多数いるでしょう。しかし「自称進学校」という言葉で生徒が持つ学校への信頼感を損ねるのは、不安商法の域に達していると私は思います。

置かれた環境を笑うな!

私が教育に携わっているのは、人がどんな境遇に生まれようとも、努力次第で人生を変えられるシステムこそが教育だからと確信しているからです。人が生きる上で、置かれた環境は大事です。教育に携わる者だからこそ、その重大性を強く認識してます。

けれども、いまどんな環境に置かれていようが、未来は変えられる。少なくともそう信じているから、あなたは一生懸命に学んでいるのだし、あなたは一生懸命に教えているのではありませんか?

置かれた環境は直視する。しかし、それはあなたを決める全てではない。そこから目標に向かって何をするかを決め、実際に取り組む。その先にこそ未来があります。

生徒の皆さん。自分の目標に向かってがんばっていたら、「自称進学校」という言葉を使っている暇はありませんよ。

教育関係者の皆さん。どうか生徒に「自称進学校」という言葉を使わせないような環境を作っていきましょう。

2022年は「自称進学校」という言葉を使わずに済む社会づくりを、私の目標のひとつにします。

今年もどうぞよろしくお願いいたします。

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