読書感想文みたいなもの

夏だし、オアハカでの生活も完全に落ち着いて暇にもなったし、夏だし、やっぱ夏だし、ということで、読書して感想文書くくらいの余裕が出てきた。

父もそうなので、ああ親子だなと思うんだけど、僕は複数の本を同時並行で読むのが好きというかしっくりくる。一冊だけ読もうとすると、なんだかもったいないというか、その本に向かい合う時間が短くなってしまうような気がして。

今は、結構前にゼミで紹介されていた上間陽子さんの「裸足で逃げる」と3年ゼミで読んだ西谷修さんの「夜の鼓動に触れて」、友達から勧められて読み始めた司馬遼太郎の「この国のかたち」というシリーズものだ。

その中で、今一番心にズシンときている「裸足で逃げる」について感想を書きたくなった。「沖縄の夜の街の少女たち」という副題の通りの内容が各章ごとに違う事例が紹介されている。

本の内容に沿って感想を書いた方が、まとまりが良くなりそうだが、今回は、テーマだけ沿わせて自由に書いてみようと思う。

この本で一つテーマになっているもの、それは上から下への暴力だ。それは、先輩から後輩へだったり、夫から妻へだったり、親から子へだったり、先生から生徒へだったりする。

暴力はいけないもの、ときっと誰もが思っている。だが、相手に言うことを聞かせるため、相手を服従・コントロールするため、暴力を振るう。ここで書くまでもなく、たくさんの背景・事情があって世界中で今も暴力が行使され、そして同時に暴力に対する抵抗または反対運動が行われている。

ここ数年で、教育からも暴力が排除されつつある。これは当然良い傾向であると言える。だが「裸足で逃げる」という本を手に取る以前は、この傾向に少しだけひっかかるものを感じていた。

ここで扱われている題材からすればちっぽけで、些細な事かもしれないが、僕も中学校くらいまでは、教育的な暴力は珍しいものではなかったように思う。記憶が定かではないが、罰で立たされたり、お説教部屋から帰ってきた友達がほっぺた赤くしてたりということもあったような気がする。

当然、当時から「体罰は良くない」「頭は絶対に殴ってはダメ」みたいな風潮はあった。両親が僕を叱るとき口癖のように「頭は殴らないから頭は隠さなくていい」みたいなことを言っていたのは今も耳に残っている。

最初に断っておくが、両親は、子どもの僕が言っちゃうくらい「子供に甘い親」だ。最後の最後にすごい優しい。これといって「やっちゃダメ」と言われた記憶もないくらい。

だが、小学校の授業参観の日、散々ふざけまくって担任の先生をおちょくりまくったあげく、放課後に友達の髪の毛を黒板消しで思いっきり叩いたり、チョークの粉を頭に振りかけたりしていたところを母に偶然見つかってしまったときがあった。その後うちに帰った後が地獄のようだった。ここで10年越しの言い訳をしておくと、僕から始めたんじゃないんだよね。今となってはどうでもいいけど、すっごいひどいことされたから、怒って仕返しをしただけなのに。ただ小学生にとっては、親に自分がひどい目にあったということを打ち明けるのが恥ずかしくて言えなかったんだろう。

あとは受験期。ときどき父が勉強をみてくれていたことがあったのだが、そのときはちょうど第二次反抗期真っただ中。すべてに逆らおうとしていた。今でも忘れないのが、父の怒り度を測る方法だ。ある数値を超えると決まって、「冷たい水で顔洗ってこい」と言われる。素直に洗ったこともあったが、無視し続けていると、今度は「歯を食いしばれ」と言われる。暗に(今から叩くぞ、歯を食いしばらないと歯が抜けるから歯を食いしばれ)という意味だ。大体、そこで終わることが多いのだが、「とか言ってて絶対殴らない」とか言い返して、本気で殴られた記憶がある(笑)

そこで、「ああ、この人は本気なんだな」となんとなく納得して、それからは恐れつつも、少しは母(父ではなく)の言うことを聞いてやらないとな、みたいな気分になった気もする。それは大人になった今でも「その本気」はひしひしと伝わってくる。まだ家族でそのときの話をしたことはないけど、どこかでありがとう、と言いたいかなと思う。

また、中学二年生のとき。理由は忘れたが、長い時間怒られ続けた結果、最後に殴られたのを覚えている。その当時、どんな悪いことをしても、学校内だったら先生に怒られるだけ。先生に怒られるなんてこれっぽちも怖くないし、逆になんで授業中に真面目に座っているのかが分からない、みたいなときがあった。別に座ってもいいなと思う時期もあった気はするけど、座りたくないとき授業聞きたくないときは別に怒られるだけならいいか、みたいな時期があった。

書いてて恥ずかしくなってきた。

人にいやがらせみたいなこともずいぶんした。僕は気が小さくて、力が弱くて、大胆なことはできない性格なので、「いじめ」みたいなことはできない。それを知っていたがゆえに、いじめよりもちっちゃくてつまらないことをしていた。最低だよね。

そんなのがエスカレートした結果のある日、先生にばれて全然認めようとしなかった結果だったか、自分の罪を人に擦り付けようとしたか忘れたが、「本気」で怒られた。いまだに先生の顔もそのときの場所も言われたことも断片的にだが覚えている。

顔はなんと形容したらいいのか、キレているわりに冷静でキリリとした顔、場所は入学式とかやるホールの2階、言われたことは「今のお前は理解できないだろうが、私は本気だからな。友達を馬鹿にするのもいい加減にしろよ」みたいなことだった気がする。

教室に戻った時、みんなに「なぐられちゃったー(笑)」みたいな感じで振舞った気がするが、なんとなく大人の「本気」を感じ嬉しくなったような覚えがある。ここまで逃げずに「本気」で接してくれる人っているんだ、と。

当時の他の先生たちはここまで「本気」だったことはないように感じた。「助けて」といった時、話をきいてくれる人もいたけど、そこに本気を感じることはなかったような気がする。おそらく小学校のときの塾の先生に熱い先生がいて、すべてを受け入れてくれていたからかもしれない。そのギャップとかいったら、他の先生に申し訳ないけど、中学生の自分には厳しかったのかもしれない。

暴力はダメということが共通理解としてある空間なら、僕は暴力は絶対悪ではないように感じてしまっていた。そういう空間において、暴力を振るう人は、本気の覚悟とともに、暴力を行使する。すると、それが暴力を行使された人は、その「本気」を痛みとともに10年たっても鮮明な記憶として残る。

そして10年後は感謝する日がくる。

ただ、今回の「裸足で逃げる」は話が別だ。ここに出てくる少女たちは、暴力が当たり前の世界に生きている。そのため、暴力は日常に存在し、行使する側に「本気」の覚悟がない。そういう空間が一箇所でも存在している以上、暴力の廃絶は訴えられ続けなければならない。

そして、ここで「本気」でない人たちは、どんなに「セーフティーネット」「生活保護」という綺麗な言葉があっても、特に役に立たない。こんな一節があった。

暴力が常態化するなかに育つ子供たちは、成長すると自分の恋人や家族に対しても、暴力をふるうことを当然だと思うようになる。なぐられるほうもまた、大切にされているから自分は暴力をふるわれていると思い込もうとし、逃げるのが遅れてしまう。

綺麗な言葉は、「大切にされている」と思い込もうとする儚い願望の代わりになれるのだろうか。代わりになるためには、何か手助けなんかできることはない。ただ話を聞くだけだ。と割り切ることなのではないか。そんな理想を言っていてもなににもならないのはわかっている。

まだまだ読み途中だ。暴力について、本気について、当事者以外が何を言えるのか、それについては、答えはでなくても向き合わなければならない。

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