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短編小説「桜桃泥棒」

トレンチコートは、穂都梨だけだった。



10月、利人はスーツを新調させられた。彼と、化粧を済ませた穂都梨は、菓子折りを持って、1階にある呉服店の若女将を訪ねた。彼女は利人と穂都梨の住むマンションの大家でもある。女手一つで、息子を二人、国立大学へとやった彼女を、彼は尊敬しているのだった。そして、彼女は美しい。やや幸の薄そうで楚々とした佇まいに好感を抱いていた。彼女は、穂都梨にバッグと草履を無償で貸してくれ、半襟まで縫い付けてくれた。振袖は、利人の妻が成人式に買い与えられたものだった。

白地に黒い松が幾つか据えられ、鶴が4羽、穂都梨の左足首から右手首へと向かい飛び立とうとしている。利人は妻と、お見合いで出会ったのだとしたら、彼女が、この振袖を着ているのを見られたのかもしれないと思った。
「穂都梨ちゃんのお母さん、綺麗な人だったんですね」
着付けの参考に、妻の家族写真を持っていくと若女将に言われたのだった。妻の肩に手を乗せて微笑む義父母と義兄は健在だった。
「お父さん、タクシーは」
穂都梨は、利人へ言った。
「はい」
利人は、大通りへ駆けた。仏滅の祝日に、沈痛な面持ちで地下鉄に乗る中年男性と若い女性は訳ありでしかないだろう。妻の不在が利人へ強烈に迫ってきた。なんとか往路で嗚咽を止めなければならない。穂都梨は盛大に笑うだろう。利人は思った。

呼吸を整えて着物店へ入ると、若女将が黒髪に白い首筋の女と談笑していた。振り返った女は、穂都梨だった。眉下で一直線に切り揃えられた黒い前髪のウィッグを付けた穂都梨と対面した利人は驚いた。妻より自分に似て可愛そうだと思っていた自分を恥じた。自分とお揃いだったのは、天然パーマの剛毛だけだった。高校生の穂都梨が、毎朝洗面台に向かいヘアアイロンで髪を伸ばしているのを見る度に、利人は罪悪感を抱いたものだ。引き戸の向こう、流行りのラブソングを明るく澄んだ無機質な声で、正確に口ずさむのが痛々しく思えて仕方がなかった。
車が、川を渡り直角に3回曲がると穂都梨の選んだ写真室の入る百貨店へ着いた。さすが碁盤の目状の下町だと、穂都梨が言った。穂都梨は、都市工学を学ぼうと、とある国立大学を目指す浪人生だった。



国技館前で、利人は怯えていた。ひしめきあう白いショールは、毛の生えた動物に触れられない利人を恐怖させるには充分だった。トレンチコートを着た穂都梨は、人波をかき分けることなく悠然とやってきた。
「お待たせ」
穂都梨は、黒く骨太の四角形をした伊達眼鏡を曇らせて言った。細かく波打つ末広がりの毛髪に雪の結晶が張り付いて揺れていた。
「何それ」
利人は、後輩社員に声掛けるように言った。
「会社に行くお父さんの真似」
穂都梨は微笑んだ。利人は休日だけ裸眼で過ごすのだった。
「言えば眼鏡貸したのに」
それが数秒で穂都梨に醸し出せる精一杯の親密さだった。
二人は改札の渋滞を避け、歩き始めた。
「何か食べる」
利人が問うと、
「鉄板のとこ」
と穂都梨は言った。
「ちょっと歩くけど、すき焼きと天丼ならどっちがいい」
利人は、浅草まで出ようと思った。
「お好み焼きとか、焼きそばとかそういうの」
「そういうの」
「着物の人きっと行かないから空いてるよ」
利人は、穂都梨の逞しさに感心した。
「行くよ」
穂都梨が、ぶっきらぼうに言う。
「タクシー拾うよ」
「歩くの」
穂都梨の母は、歩くのが好きだった。穂都梨の母の記憶の大半は、川沿いでの散歩と、下流にある病院の個室での手遊びだった。穂都梨は覚えたての鶴を急いで折った。千羽には届かなかった。
橋の半ば、二人は水上バスから手を振る観光客へ、
「こんにちわ、さようなら」
と叫び返した。
「振袖着てた方が喜ばれたかもね」
「それお父さんも思った」
感傷を枯れ干し、2人は笑い合った。



利人は、穂都梨の頼んだ豚玉を両手に持ったコテで華麗に返した。二人は、焦げ目加減に納得した。
穂都梨は、英単語帳を取り出した。
「今ちょっといい」
利人は、妻に託された手紙を穂都梨へと渡した。
「もっとちゃんとしたところでがよかった」
「だからすき焼きにしようかって、個室で」
「いいよ、先食べてどっか行こう」
「あるこか」
乾杯をした利人は、上機嫌で上京前のアクセントで呟いた。
「ちょっと返して」
「何」
「もう一回渡させて」
「何それ」
「そういうやつだよ」
「良いよ、どうぞ」
利人は、穂都梨の淡白さに気抜けした。利人は、壁に掛けられた幾多の著名人のサイン色紙を仰ぎ見た。どの人には会えて、どの人がもう居ないのか。数えてみても仕方のないことだと、利人は静かに思った。



利人は穂都梨を上野公園まで誘った。穂都梨は珍しく何も言わず付いて来た。肥えた水鳥の向こうにスワンボートが停泊していた。欄干の鳩を払い、もたれた。差し出された穂都梨の左手に利人は、レターナイフを握らせた。家から持ってきたのかと笑われたのが丁度良かった。

”穂都梨さん

成人おめでとう!
穂都梨さんは、ママ似かな?それとも、パパにそっくりかな?
今、どこでなにをしていますか?
ママは、天国で日記を書いています。パパとママが大好きな文豪の先生に送りつけて、ママの人生を小説にしてもらうのです。

パパは元気にしていますか?

今日は、せっかくなので、ママが生きていたら穂都梨ちゃんとは話さない話をしようと思います。

ママが高校生の時です。学校の近所に、大きな池のある公園がありました(もしかして、穂都梨さんの母校だったりして!パパに、動物園には連れて行ってもらったかな?)。ママは、高校に入った時には付属の大学に行くと決めていて、部活もしていなくて、女子校だったから彼氏も見つけられなくて、寂しい思いをしていました。晴れの日に、放課後、公園で本を読むのが唯一の楽しみでした。国語便覧を開いて、「あ」から順に、顔がかっこいいと思った人から読んでいきました。出だしから頭の良さそうな顔をしていて、果たして何人読破できるのか不安になりました。

ママには、受験勉強というものがなかったので、高校3年生の春に「た」の行までいきました。少し調べると、「た」の人が情死したのが、すぐ近所ということが分かりました。次の日、早退して学校の反対側の道を行くと、小さな橋が架けられていました。覗き込んでも、草や木が、ぼうぼう伸びているだけでがっかりしました。それでもめげずに上流を目指すと、お目当ての橋がありました。てっきり、橋の柱に紐が引っ掛かって見つかったと思っていたのですが、そんな柱が立つような立派な橋ではありませんでした。
その日は、駅前の大きな本屋さんで、「た」の人の黒い背表紙の文庫本を1冊買って帰りました。その時、買ったのは「グッド・バイ」という本ですが、ここでは「新樹の言葉」という短編集だったことにさせてくださいね。

そこに「葉桜と魔笛」という20歳のお姉さんと、病弱な18歳の妹が出てくる小説が入っています(穂都梨ちゃんは、小説を好んで読まないかもしれないけれど、いつか読んでみてね)。お母さんは、少なくとも彼女の倍は生きられたので、随分長生き出来たと思います(ただ、いろんな小説をたくさん読むと、あまりにも若い女の人が、よく死んでしまうので、ママは、そのうち激怒するようになります)。

6月、成績を落としたママは、職員室で担任面談を受けました。正直に、「た」の人の読書が止まらないと話しました。
担任の先生は、
「私にもそんな時があったわ」
と、前歯に真っ赤な口紅をつけて微笑みました。
先生は、「待つ」という掌編小説が忘れられないと言って、呪文のように唱え始めました。ママは、その、かつての愛の密度に背筋が凍り、思わず、授業中には教科書を読むと、先生と約束してしまいました。先生は、出来るだけ大きな実のさくらんぼを持って出向くよう教えてくれました。案の定、集った人たちに重宝がられました。そこでは皆、「た」の人の墓碑銘に赤い実を詰めるのです。上物のさくらんぼを携え貢献したママは、「点」の部分を譲られました。担任の先生は探しても居ませんでした。

女子大生になったママは、「た」の人のことを忘れていました。ママは、桜桃忌を朝刊で知りました。大学3年生の時です。ママは、担任の先生を思い出しました。上手くは言えませんが、先生のようにはなりたくありませんでした。ママは、新宿高野で佐藤錦を買いました。雨が降っていました。
「こんにちは、食べますか」
ママは、禅林寺の門で声を掛けられました。東京の人ではありませんでした。傘のさし方が下手な人でした。その人は、濡れたさくらんぼのパックをたくさん抱え、頬張っていました。それが、パパでした”



穂都梨は、利人の顔を覗き込んだ。
「まだかかる」
利人が尋ねた。
「まわり走ってくるわ」
利人は、橋の上を駆け出した。利人は、読み終わったら呼ぶように言った。利人が、橋を渡り終え、すぐに歩き始めるのを見て、穂都梨は読み進めようと決めた。

”パパのお家は、公園近くのコインランドリーの2階にありました。2機回ると、どんな声もかき消されてすることがなくなりました。

夏のあいだ、ママはパパの仕事場に着いてまわりました。パパは、数学と物理の家庭教師のアルバイトをしていたので、ママはパパと一緒に生徒の家に上がり込んで、何かを教え込んでいるようなふりをするのです。パパが、大学院生の時です。ママも理系だったので生徒さんの親は不審がらないのでした。パパは、全くサボりませんでした。ママは、あまり信用されていないのだと残念に思いました。受験勉強をしていないことは、既に話していたのです。

どのお家も不思議と、紅茶を出すのです。必ずクッキーではなく、苺のショートケーキが用意されています。春夏秋冬、関係ありません。それはもう、他の果物を盗んででも浮気したくなります。親御さん達は、帰り際、私たちに葡萄や柿をくれるのでした。ママは柿を切り損ねて手首を切ったというパパを不憫に思い、部屋に上がり梨の皮を剥いてあげました。パパが巧く使える道具は、カッターとシャーペンと定規だけだと思います。ママは、雑念に頭を濁らせてしまい親指のお腹を切りました。パパは、すぐにママの家に行って親に謝ると言い張ります。幸いにして、ママのパパは家に居なかったので、ママのママが玄関で適当に受け流してパパを帰らせました。2階で聞いていたママのお兄ちゃんが、ママを茶化しました。ママは、パパとなら上手くやっていけると思う、と言いました。言ってしまうと、それが本当になってしまうような心地でした。ママのお兄ちゃんは、それだけはやめておけとママへ言いました。

ママは会社を3年で辞め、入れ替わりでパパが働き出しました。ママたちは週末、公園を歩きました。入院する前、池のボートに乗ってみたいとママはパパに言いました。パパは、スワンボートの切符を買ってママの元へ戻って来ました。ママは、パパは手漕ぎのボートが漕げないのだと知りました。パパには、律儀なところがあるので、ママの居なくなったあと、ひとりでボートを漕ぐ練習をするのかと思うとつらくなることがあります。でも最近は、パパには穂都梨が居るのだと思うことにしています。パパをよろしくね。穂都梨はちゃんと検診を受けるように。

穂都梨様、鶴は折れるようになったかな?

ママより”



穂都梨は、
「さくらんぼが食べたい」
と真冬に我儘を言った。ボート乗り場は、悪天候のため閉まっていた。利人は、会社近くのバーへと穂都梨を連れて行った。階段を降り切ると、利人は穂都梨から伊達眼鏡を預けられた。利人は何も言わず掛けた。穂都梨がこわばっているのが利人には分かった。
迎えた店主が、一枚板の向こうで
「こんばんは」
と端的に言った。狐が化けて出たような清廉で綺麗な人だと穂都梨は思った。店主は2人の注文を取ろうと意向を聞いた。店主は、利人の妻を思い出した。店主はライムを切ってグラスの淵をなぞった。穂都梨は、グラスが逆さに押しつけられる様に観光地の記念スタンプを思った。利人は必ずしくじるのだった。
「これはどうしたら食べられますか」
穂都梨は、店主に聞いた。店主は、そのひたむきさを快く思った。
「これは私が食べるんだからね」
強く言われた利人が思ったのは、動物園の帰り、必ず穂都梨がメロンクリームソーダを欲する事だった。店主の立てる接触音には生活感がなかった。
気がつくと並んだグラスの底に、3粒のミントチェリーが歪に並んでいた。店主が下戸だと言って微笑んだ。本当なのだろうと、2人は思った。

FIN

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