見出し画像

小説家とジョギングについてのお話。

せっかく前回の記事でジョギングについて書いたので、愚痴ばっかり言っていないで少しは建設的なことを書こうかなぁと思います!

ジョギングは私の趣味――というよりは、なかば義務のようになっています。週に1,2回くらい、8~10キロを走るので、あまり大した距離をこなしているわけではないのですが、書くことと、走ること、この二つは両輪でうまく転がっていくような印象です。
ちなみに、私はロードバイク(自転車)にも去年から乗りはじめたのですが、やはり自転車を漕ぐのと走る行為は全然違って、書くことと相性がいいのは、やはりジョギングであるような気がしますね。

自転車ってリズムが一定ではないですよね。物理的に坂道があったり、信号につかまったり(自転車も信号をきちんと守りましょう!)。あと、車道を走っていると考えることも多いですね。車をよけたり、人をかわしたり。

ジョギングは公園のなかを走っているので、つねにペースは一定で止まることはありません。コースもきちんとランナー用にレーンが区切られているので、走るために考えなければならないことも、あまりありませんね。大切なのは一定のリズムです。そして、一度上がった心拍を著しく上下動させないことです。

さて、なぜ書くために走るのか……。
肉体的な理由と、精神的な理由、その二面があると思います。

まず、肉体的な理由です。
長編小説を一冊書くには、それ相応の体力が必要であると思います。実際は、パソコンに向かって、動かしているのはキーボードの上の指だけなのですが、なんだかすごい疲れる。
持続力、集中力、そして姿勢をキープしつづける際に起こる肩こり、首こり、腰痛にならないインナーマッスルを鍛えるための肉体的な理由がまずあります。

そして、精神的な理由。
感覚的に近いのは、座禅や写経に近いかもしれません。いわば、動的な座禅とでも申しましょうか……。

ところで、小説家の大沢在昌さんが、『売れる作家の全技術』という本でこんなことを書いています。大沢さんは、自宅とはべつに小説を書くための仕事場を持っているそうですが、朝、家を出る前に奥さまにこういうリクエストを出したそうです。

「これから仕事に出かけるというときに、俺を怒らせたり、喜ばせたりしないでくれ」(p222)

とんでもない亭主関白宣言に聞こえますが、その気持ち、すごくよくわかります。おそらくほとんどの小説家が首肯する気がしますね。

つねに、心や精神を一定に、凪状態に保っておきたい。
長編小説を書いていると、だいたい私の場合は4ヵ月から5ヵ月、場合によっては半年、その小説にかかりきりになります。
理想は、朝起きて書きはじめるとき、スムーズに作品世界に没入できることですが、なかなかそうはいきません。
書き途中の作品のなかには、当たり前だけど主人公の人生がつづいています。いったん、朝倉宏景という人間の感情を忘れて、主人公の感情と人生に入りこみ、寄り添わなければなりません。
それなのに、私生活で感情を乱されると、もうその世界に入ることが困難になってしまいます。
主人公が、泣いたり、笑ったり、叫んだりすることに感情移入し、そこに全精力を注ぐためにも、朝倉宏景という書き手の心は、なるべく「無」にしたい。(そのせいか、よくお前は何を考えているかわからないとか、感情がうかがえないと言われます。か、悲しい…….。いろいろ考えてるんですよ、今晩なにを食べるか、とか)

ジョギングをはじめると、そのあいだは何も考えない状態になります。
頭空っぽで、聞いている音楽のリズム、足音、心拍に身をまかせます。
たいてい、一日の書き仕事を終えて夕方に走るのですが、リセットをしたいというか、主人公の感情にどっぷりつかってしまった心を、いったんなかったことにしたいといいますか……。

また明日、健全な精神で小説の世界に向かうためにガスを抜き――心を平らにする作業。それが私にとってのジョギングです。走ると、ちょっとやそっとのことでは動じなくなってくる印象です。
それは小説家にかぎらず、市民ランナー皆さんにあてはまることだと思いますが。
一歩一歩、一行一行、ラストのゴールへ向かうための小さな積み重ねは、左右両輪でまわっていくのです。

この記事が参加している募集

#仕事について話そう

110,232件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?