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どうせなら、自分の楽しみが増えるように受け取りましょうよ。

書き物を少しずつ
人目に付くところに出すようになって
つくづくわかったことがあります。
 
それは、読み手というのは
書き手の意図とは無関係に
読みたいように読むものなんだな
ということ。
 
誤解がないように書き加えたその文章を
ピンポイントで読み飛ばしていたり。
(そしてきっちり誤解してらっさる… ̄∇ ̄)
 
比喩として用いたある事例を
それが主題だと勘違いして読んでいたり。

誤解した上で「私はそうは思わない」と
言われることもあって
さすがにちょっとしんどいそれ。。と
思ったりはしますが苦
 
受け取り方は自由なんですよね。
そもそも、その人の価値観どおりにしか
受け取れないものです。
私だってそうです。
自分の文脈にないことは受け取れない。

だからこそ、思うんですけど
どうせ自分の価値観通りにしか
受け取れないのだから
「自分の楽しみが増えるように」
受け取ったらいいんじゃないでしょうか。

書き物だけに関わらず
世の中にはいろいろな人が
いろいろな形で発信をしていますが

それを受け取っては機嫌を損ねたり
バカにされたと怒ったり
相手を攻めたり、こき下ろしたり
泣いたり傷つけあったり
発信者が「そうじゃないよ」といっても
信じないで怒り続けたり
そんな事象を、よく見かけるように思います。

そんなとき
「正しくありたい」そして
「被害者でいたい」という想いが
垣間見えています。

なぜそう言えるのかって?
それは、私がもともとそうだったから
なんですけど。

正しさへの執着と被害者意識から
抜けた今ならわかります。
わざわざ自分の不機嫌が増える受け取り方を
する必要なんてどこにもないんだ、ということ。

どうせ発信者の真の意図なんて
わかりっこないのだから
解釈は受け取り側の自由なんだ、ということ。

この世にあふれるいろいろな出来事。
いろいろな人。いろいろな形の発信。
すべて
「ここにふさわしいから」「あなたに必要だから」
あなたはそれに、出会うんです。

どんなに理不尽でも。
無駄に思えても。
怒りを感じても。
そのとき、その場所で
あなたに必要だから、起こるんです。

どうせなら
自分の楽しみが増えるように
受け取りましょうよ。

楽しみが増えるように受け取れない
とおもったら、そのときは無視する。
いまはちょっとわきに置いておく。
くらいの勇気、育ててみましょうよ。

正しさや、被害者意識がクセになっていたら
最初のころは
ちょっと訓練がいるかもしれませんが
少なくとも私は、クセが抜けた今のほうが
いいですよ。断然、ラクです。

どうせなら
自分のために訓練してみましょうよ。

だってこの世の中に
自分が楽しんで生きること以上に
大切なことなんて
きっと存在しないのだから。

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