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大樹【ショートショート 恋愛】


アールグレイの香りで、自分の調子が分かるようになった。軽ければ快調、重ければ不調。
今朝は重いなと感じながら支度をし家を出た。
その判断はすぐに後悔することになる。

会社はフレックスなので、ラッシュアワーを避けて遅めに出勤している。ラッシュ時なら混雑するホームも、人はまばらだ。そこにぼんやりと立ち、きれいだなと雲を眺めていた後の記憶がない。

目を覚ますと、そこには太った男が汗をふきふき座っていた。拭いても拭いても吹き出るらしく、額には汗のつぶが光っていた。
私が起き上がろうとすると、男はこちらに気づいた。
「あ、気づかれました?看護師さん呼んできますね」
男は汗をふきふき行ってしまった。
そこで気づく。ああ、貧血か。どうやら倒れたらしい。生理前になるとどうにもクラクラすることが多く、駅のホームでよくしゃがみこんでいた。転職前の会社はフレックスでなく、ラッシュアワーのホームの片隅にしゃがみこむ私を、人びとは遮蔽物として迷惑そうに避けていったものだった。
男が戻ってきた。
「先生と看護師さん来てくれるそうなので、僕はこれで」
男はぺこっと頭を下げると出ていこうとしたので、私は「あの」と声をかける。

男の名前は太木大樹といった。名は体を表すというが、この名をつけたという父親は、どれだけ木が好きなのだろうと思った。大樹だけならアイドルグループにもいそうだと思ったが、彼の場合、寄らば大樹の陰というどっしり感がある。
「沙樹ちゃーん」
「ありがとう」
私は笑顔で大樹くんからソフトクリームを受け取る。彼は私の隣に腰掛け、ポケットからハンカチを取り出し汗を拭いて「いただきます」と言う。それを待って私もソフトクリームに口をつける。こんな暑い日でも公園デートを選ぶのが彼らしい。彼の一連の動作の間に、ソフトクリームはすでに溶けかかっていた。

あの日彼はホームで倒れている私を発見し、仰天し救急車を呼んで同乗してくれたらしかった。同乗したからには目を覚ますまでは責任もってついていなくてはと思ったらしい。みんな自分のことで精一杯な世の中で、そんなことしてくれるのはどんな人なのかと興味を持った私は、後日お礼にと彼を食事へ誘ったのだ。そこから交際が始まった。
最初は名前の話から意気投合した。私の名前は佐々木沙樹というふざけたものだ。父がどうしても沙樹とつけたがったらしい。後でそれは父の初恋の人の名だと判明するが。おかげで、「さ」と「き」のみで構成されたおかしな名前が出来上がってしまった。大樹くんも彼なりに名前のことでは悩んだらしい。子供の頃から太っていたからデブ木と呼ばれたり、木が2つもあるんだから森じゃね、とクラスアップしてデブ森と呼ばれて、なんの関係もない森さんという女子から煙たがられたのだと言っていた。
初めて会った時から思っていたが、大樹くんは太っているけれど清潔感があった。太っている人が不潔だというわけではなく私の勝手なイメージの話だ。大樹くんの清潔感の理由は、どうも育ちの良さにあるようだ。これもまた勝手なイメージだが、彼は太っている人特有の早食いではなかった。ゆったりと会話を楽しみながら美味しそうに味わう。口元をこまめに拭うのも忘れない。それでいてたくさん食べるのだ。だから彼との食事は相応の時間がかかったが、ゆっくり話しながら食事を楽しみたい私にしてみると、彼のペースはぴったりだった。

今日も大樹くんと夕飯を食べて帰るところだった。
「ちょっと遅くなったね、ごめんね」
「ううん、明日休みだし」
そんな会話をしながらだったから、すっかり油断していた。いつもより遅い時間のせいか、人通りがまばらになっているのに気づきもしなかった。あっと思った時には、ハンドバッグがなくなっており、それを持った男が数メートル先を走っていた。私は驚いて立ち尽くしていたが、その時、すごい勢いでそれを追いかけて行く人影が見えた。大樹くんだった。彼はすぐに追いついて、ひったくりにタックルを仕掛け、男は地面にべたんと転んだ。
大樹くんは笑顔で私を振り返った。男は動けないようだった。
念の為警察を呼んでひと通り事情を話したあと、大樹くんは教えてくれた。実は学生時代ラクビー部で、花園まで行ったことがあるのだと。私はますます大樹くんにめろめろになった。いつまでもこの優しくて大きな木と一緒にいられたらいいなと思った。

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