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パラグアイの国木が桜にも見えた、ブラジルとは異質の日本人移民社会

ブラジルとパラグアイの国境。

ここはフリーボーダー。
壁も柵もなく警備員もおらず、自由に行き来できる。
ブラジルの宿に泊まり、すぐ目の前の店で買い物すると、そこはもうパラグアイ。
目に見える境界は何もないのに、言葉が変わり、通貨が変わる。
一気にスペイン語の記憶がよみがえり、会話ができる。
ブラジルに2ヶ月近くいたけど、ポルトガル語はよくわからんかったな。

強大な群れをつくることで繁栄してきたのが人類。
移動の自由を認めたら群れ(国家)の統率がとれなくなるから、ふつうはガッチリ国境警備する。
でも国境警備はコストがかかるし、自由に移動させた方が経済が活性化する。
ヨーロッパのシェンゲン圏のようにボーダーレスにして、ある程度うまくいってるところもある。
こういう実験も歴史の歩みだ。
世界中がフリーボーダーになったら楽だろうな、とも思ったけど、人間の本性がそうはさせてくれないだろう。

日本よりやや大きい国土に、人口わずか713万人。
お隣の大国ブラジルとは何もかも規模が違う。
明らかに交通量が減り、のどかになった。
交通量の多さというのは、サイクリングのストレス具合に直接影響を与える。
車、特に大型車が少ないというだけで、だいぶホッとする。

道路は意外にちゃんとしている。
路肩が幅広く舗装されているのは、バイクが多いからだろうか。
ノーヘルで子供を2人も3人も乗せたり、2ケツ3ケツで路肩を突っ走っている。
ブラジルより南米チックになってきた。

最も忌むべきクラクション、ここでも鳴らない。
ブラジルに引き続きパラグアイも初訪問だが、中南米といったら全域がクラクション地獄のはずだった。
ドライブマナーも、ブラジルと同じく良い。
「貧しくなるほどノイズが増大しドライブマナーが悪化する」という万国共通の法則が崩れてきている。
世界は良くなってきている。

ラテンアメリカは、スペイン人(ブラジルはポルトガル人)と先住民の混血文化。
パラグアイ人のアイデンティティは、先住民グアラニー。
国民の大半がグアラニー人とスペイン人の混血であり、グアラニー語とスペイン語が公用語となっている。
ブラジル人は黒白黄とよりどりみどりだったが、パラグアイ人は二者の混じり合いで比較的均質に見える。

パラグアイ人は、穏やかで人当たりも良く、やたらにからんでくることもない。
一度だけ、バイクに乗った若い男が追い越しざまに「コレア!」と言ってきた。
以前の中南米旅行では、全域で「チノ!」と日々言われ続けた。
ブラジルでは一度もそういったことは言われなかったが、ここに来てコレアか。
他の中南米諸国ではまだ「チノ!」と呼ばれるかもしれないが、わからない。
世界は良くなっているだろうから。

宿泊でも買い物でも、やはりスペイン語が楽。
最低限のやりとりはもちろん、ちょっとした雑談もできる。
もちろん流暢にしゃべれるわけではない、あくまで初歩レベルだけど、それでもコミュニケーションがとれるって楽しいものだ。

ズグロハゲコウ。

ヘビ食ってる?

ミサゴスノリ。

首都アスンシオン。

なんとも小さな首都で、中心地でも首都っぽさが感じられない。

アスンシオンでは、日本人宿「らぱちょ」に滞在。
宿泊客は皆日本人だが、旅行者は僕だけ。
他の人は全員居住者。

宿の1階が和食屋。

日本を発ってまだ2ヶ月だが、我を忘れてむさぼる。

しかしパラグアイも物価上昇中。
ローカルフードならまだ安いが、さすがに日本食は高い。
連日食べるのは厳しく、一度だけのぜいたくとした。

この木が、宿の名になっているラパチョ。

パラグアイの国木で、桜のよう。
冬季の今が見ごろ。

アスンシオンから東へ、再びブラジル方面へ向かう。

パラグアイには、まだ他にも日本人宿がある。
かねてから旅人の間で噂の「民宿小林」に行ってみる。

世界各地にある日本人宿の多くは大々的に宣伝しているわけではなく、目印もなければ看板が出ているわけでもない。
民宿小林は、ハイウェイからこの未舗装の路地を入っていく。

GPSのない時代だったらこんなところにたどり着けていただろうか。

客は僕一人だけ。
もともと冬季は混まないらしいが、特にこのご時世、旅行者は来ない。

なんといっても楽しみは食事。
朝夕それぞれ別料金。
ただ泊まるだけなら他でもいい、とにかく日本食への渇望に駆られている。

初日の夕食は、味はもちろんとてもおいしかったのだが、量が一人前だったので、何杯もおかわりをお願いした。

翌朝から、鍋ごとドカーンと出されるようになった。

納豆!!!

朝夕二食。
食事の時間だけが待ち遠しい。

カレーライス!!!

餃子にチャーハンにラーメン!!!

天ぷらそばにいなり寿司に魚のフライ!!!

すき焼き!!!

こちらのキャパシティに応じた量を提供してくれる。
決して「足りない」とは言わせようとしない小林のお母さん。
ただし、このボリュームだと割増料金。
それでも、これだけの量の日本食をたらふく食べさせてもらえる料金とは思えない安さ。
パラグアイも物価上昇中だというのに、採算とれてるのか心配になってしまう。

やっぱり祖国のメシには泣かされる。
毎日ひとりで「うめー!!!」と唸り続けている。

民宿小林は街から離れており、周囲に店などはまったくない。
なのでふだんはあまり出歩かず、ひとりで宿にこもっている。
ただただメシを食らうマシーンと化している。

屋上からの眺め。

周囲に街灯がないので、星空鑑賞にもってこい。
小林のお母さんは意外と星に詳しく、いろいろ教えてもらった。

未舗装の農道、どこまで続いているのかわからないが散歩してみる。

パラグアイも日本人移民が多く、ここはイグアス居住区(Colonia Yguazú)と呼ばれている。
民宿小林から13kmほど東に、居住区の中心となる小さな街がある。

街自体は小さいが、居住区全体では800人もの日本人がいるという。
ブラジルで見た日系人は、混血しながら世代が変わり、日本語を話せる人も減り、ブラジル人として同化していた。
ここでは混血もあまり進まず、日本語を話す日本人として生きる人たちの社会が形成されている。
歩いていると「こんにちは」と自然にあいさつしてくれる。

ラパチョの並木道、ピンクのカーペット。

かつてパラグアイは、南米で最も先進的な国のひとつであった。
しかし19世紀後半、パラグアイはブラジル-アルゼンチン-ウルグアイの三国同盟と戦争になる。
三対一のムチャな戦いで大敗、国土の4分の1を割譲され、人口は50万人から20万人へと激減した。
大ダメージも癒えぬまま、20世紀にはボリビアとも戦争になるなど、国は疲弊し、深刻な人口不足と労働力不足に陥っていた。
その頃、隣国ブラジルではナショナリズムが高まって排日運動が起きたことで、ブラジルにいた日本人がパラグアイへと移住した他、不況で職不足だった日本からも移民が迎えられた。
日本人移民は原生林を伐採し、一から開拓して、その後の農業発展の礎を築いた。
その功績は高い評価を得て、現在も多くの日本人が農業に従事している。

この街にあるスーパーは、日本の食材が豊富。
ここは大豆の産地であり、この土地でつくられた納豆や豆腐が売られている。
店員はパラグアイ人だが客は日本人が多く、あちこちから日本語が聞こえてくる。

スーパーで買ったどら焼き。

お寺もある。
ラパチョが桜そのもの。

ここは本当にパラグアイなのだろうか。

旅人としては、こんなところで日本文化を堪能できてけっこうなこと。
ただ、経済的弱者であるパラグアイで経済的強者の日本人があまり強い影響力を持ってしまうこと、同種間結婚による血縁関係の濃化など、この土地の今後についての懸念が頭をかすめたりもする。


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