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7年前の大晦日にレディ・ガガを聞きながら「多様性」について考えたこと

7年前の自分のwebDICEに書いていた日記を読み直し、前回「be yourself、自分らしくあれ、ってなんやねん」で書いたことと何も変わっていないことに気付きアップすることにしました。

ここから2012年元旦の日記です。

クリスマスにFMを聞いていたら、クリスマスソングにのせてこんな一言が聞こえて来た。

「家族とは社会の中で一番小さな単位ですからね」

今年は震災もあったので、年末年始は家族と過ごす人が多いのではみたいなことを言っていた。
まあ、これしきのことを同調圧力と感じるのは独り身の被害妄想かもしれないが、間違っている定義なのですぐにツイッターで、

「社会の最小の単位は個人だろ」

とつぶやいたのだった。

最近の言葉では、「多様」なことは、よい事であるとなっている。
僕自身も「多様性」という言葉をよく使う「アップリンクは多様な文化を発信してます」みたいな感じで。
でも、「多様性」がなぜいいのかを実は良く考えずに使っているので、ここでなぜ「多様」なことはいいのかを考えてみた。

「多様性」を「生物多様性」とかで使う場合、最小単位といえば「種」だろう。
映画で見る南極のペンギンの群れはペンギンという種はわかっても、その群れのペンギンの個体差は僕には見分けがつかないし、それを見分けようと考えたこともない。

三里塚闘争や農民の映画を制作して来た小川紳介監督のエッセイで記憶に残っている一節がある。
小川監督の映画制作手法は撮影現場に住み込み、その土地を感じ人と向き合い映画を撮る事である。
覚えているのは米についての話で、「米粒一粒ずつに表情があり違いがあり個性がある」という意味の言葉だ。
ペンギンなら時間をかけて観察していればひょっとして個体の違いが分かるかもしれないが、
小川監督の米粒一粒ずつの違い、個性を見分ける観察眼というかその違いに思いを馳せる想像力に驚いた。

で、「多様性」である。僕が使う場合は「生物多様性」にならって言うならば「文化的多様性」とも言うべき時に使っている。
その場合の「多様性」の最小単位は「個人」である、ひと一人である。ササニシキという種ではなく、ササニシキの米、一粒一粒が最小単位ということだ。

均質な社会より様々な違いを持った個人が集まる社会の方が楽しく、美しい。
ただ多様な社会である前提として、個人がそれぞれ違う美しさを放っていなければならない。
同じような考え、装いの個人が集まる社会は多様の最小単位が個人でも、それは多様な社会ではないだろう。

で、なぜ「多様」な社会がいいのかに、つい「美しい」という個人差が激しい言葉を使ってしまったが、では、なぜ「美しい」という事がいいのかを考えてみた。

美しいとは他と違う事、この世の唯一の存在であることではないだろうか。

で、次は世界の唯一の存在であることがなぜいいのかを考えてみた。

端的に言って、世界に同じものは二つといらないからである。

なぜ、世界には同じものが二つといらないのか、それは種の保存という力ではないだろうか。
同じものが世界に二つならまだしも、同じようなものがその種の中で多数を占めると多数を占めた種に不都合な疫病とかが流行った場合、その種の存続の危機になるので、種は自己防衛として、種の中の一粒一粒、一人一人が違って育つようにプログラムしているのだろう。

なぜ、「種の保存」がいいのだろうか、それは、世界の中での自分が生きている存在に関わるからだろう。

「今、自分はこの世界に生きている」

このことを実感できる事は素晴らしい事ではないだろうか。

では、なぜ生きている事が素晴らしいのか、それは死んだら今の自分は認識できず、考える事もできず、この世界から存在が無くなる事を、今生きている自分としては考えられない事であるからとしか言いようがない。

「多様」であるということは、こうやって考えてみると「今、この世界で生きている自分を肯定すること」である。というのが僕の考えた結論だ。

では、「多様性」の敵とは何かを考えてみた。

資本主義が進歩し大量生産技術が発達し、企業は大量に同じものを作り、それを世界に売りさばく事を命題として商売を行うようになった。
大量生産したものを売るには、商品に応じた同じ趣向の人を作りださなければならない。
そこで、コマーシャルで人々を洗脳して、同じモノを売りつけなければならない。

あるいは企業でなくても、国民より企業を守る国が国民を統治する時、国に有利な考え方を持った人が多ければ国は国民を統治しやすい。
そのためには、マスメディアをツールとして使い、情報をコントロールして企業と国は結託して、自分たちの考え方に賛成の人を増やす事を行う。

「多様性」の敵とは、大量生産物をさばくために市民をマインドコントロールしようとする力だろう。
それは「買え」という強制的な力の場合もあれば、意図的に情報出さずに「安全」だという力の場合もある。

今年の紅白歌合戦を見ていたが、ようするに「愛と明日と未来を信じてつながろう」みたいな歌ばかり。
このような人の感情に訴えかけ、均質な感情を押し付ける事は大量生産物を売りつけるより、ある意味もっと「多様性」の敵としてはたちが悪い気がする。
人々を同じような気持ちにしてどうするというのだ。
このマインドコントロールの行き着く先は「考えるな、忘却しろ」という裏メッセージとしか思えない。
ようするに世界の真実を知られないためのメッセージではないだろうか。
なにも考えずに、感情だけに訴える歌は、最後はちょっと胸がきゅんとする思い出として、きれいにラッピングして忘れ去りましょう、なにも物事を深く考えたり、社会に抗う事なんかしないで、ひたすら感傷にふけりましょうと訴えているようにしか思えない。うがった見方過ぎだろうか。

世界の法則によれば、「個」はもともと別々な個性を持った存在として生まれて来たのである。
「個」は違うからこそ、唯一無二の存在だからこそ美しいのである。

企業の大量宣伝、メディアが仕掛けるあらゆる同調圧力は全て美しさの"敵"である。
なので、美しくありたければその"敵”と闘うことだ。

紅白のレディ・ガガは『BORN THIS WAY 』を日本人に向けて歌った。

「自分らしいままで美しい、だって神に間違いはないのだから」

キリスト教徒が多数を占める英語圏の人々に向けて一旦「神」を肯定しておいて、キリスト教信者の反論の余地を断つ皮肉の利いた歌詞だ。

あえてガガが紅白に「個」を賛美する歌を日本の国民に向けて選曲した意図を勝手に深読みすると、僕にはこんなふうに聞こえた。

「日本の皆さん、神に背いた行為や考え方をしないで! 皆が一緒の事を考えたり、同じ方向を向くのは自然の事じゃないのよ、わかる。だって神様はもともとこの世界に存在する私たち一人一人は違う個性を持ったものとしてお創りになったじゃない。神なき国の日本の皆さん、神でなくてもいいの、一人一人が違うということは世界の法則なのよ! みんなが同じ考え方に染まらないで! みんなが違うからこそ美しいのよ!」

2012年元旦

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