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【短編】くじら


 ある朝、一頭のくじらが流れついた。
 くじらは死んでいた。港のはずれの波消しブロックに頭をつけて、波が寄せるままに身体を上下させる。
 近付くと腐臭がすると、見物に出掛けた人々が云う。

 イサは図鑑を押しやって窓の外を見た。重なる家々の屋根の向こう、港はここからでは見えない。はるか水平線だけが色とりどりの屋根のすき間からのぞく。
 くじらは息絶えると、その身を静かに海底に沈め、生き物たちの糧となり消えてゆくのだという。時おり、運悪く海流に乗ったものが陸に打ち寄せられるらしい。このあたりの海域にくじらが棲むことを、イサは知らなかった。あるいははるか遠い場所から流されてきたのかもしれない。

 引き潮になると、くじらは岩礁に半ば乗りあげているのがわかった。濃い潮風にからみついた腐臭が鼻につく。そのにおいのために、見物人は長く留まらず、ふやけて膨張した塊をひと目見ただけで立ち去ってゆく。死骸をながめるのはあまり気分が良いものではないとも云えた。
 誰かが石を投げた。
 くじらの皮はそれをはね返す。その丈夫な皮のために、腐敗が進みながらも形を保ち、鳥や小魚や獣のえさとなれずにいる。
 イサは人々に紛れてくじらを目の端で見た。くたびれたように横たわるその塊は、映像や写真でしか見たことのないくじらに間違いない。図鑑によれば、くじらにもいくつかの種類があるらしいが、いざ目の当たりにすると、細かな分類など無意味に思えた。
 くじらはくじらである。分類するのに必要な口やひれといった特徴も、すでに腐りおちているのかもしれなかった。

 もう一度図鑑を開き、そこに描かれたくじらを眺めた。黒い背が海面をはね上げ、白い飛沫が散っている。そのくじらは今まさに海底から頭を持ち上げたところなのだろう。海面から現れた身体をひるがえし、白い白い腹が見えている。肺いっぱいに空気を取り込み、再び長い時間を水中で過ごすために海の底へと潜ってゆく。
 呼吸を押し殺していることに気づき、イサは短く息を吐いた。くじらは図鑑の上にその姿を残したまま、イサを置いて海中に消えた。
 取り残されたイサは自分の肺にも空気を満たし、夕陽の沈む水平線に目をやる。太陽は夕闇に追いたてられるように海の向こう側に隠れ、空と海の境界に残ったオレンジ色の帯もやがて消えた。

 くじらは数日のうちに幾度か場所を変えた。強い風と高い波により、もてあそばれるように移動するらしかった。くじらの姿が元の場所から見えなくなる度に、港の管理人たちは潮風にあおられながら港を歩き、くじらの姿を捜すのだった。
 何度か移動をくり返したのち、くじらが再び波消しブロックに身を寄せると、海は凪いだまま、ゆるやかな干満を取り戻した。

 秋のはじまりは、思いのほか強い日差しが注ぐ。日中の日差しにより、くじらの腐敗はすすんでいるようだった。表皮は膨らみきった風船のように張り、それでも破れることなくその内側にガスをため込んでいる。
 この界隈にくじらが流れつくのは珍しいことであり、港の関係者は対応に苦慮していた。このまま朽ちるのを待つわけにはいかず、かといって移動させることは難しいようだ。船を使って沖へ曳いてゆくことも、クレーンを使って吊り上げることも、その腐敗のすすんだ身体では耐えられないが、解体を行うにはまだ表皮が厚く、しばらくの時間を要すると専門家は告げた。
 潮の引く間に砂地に穴を掘り、そこに転がして埋めるのが最善の対応策という結論に至ったと、新聞は小さく報じた。

 立ち止まってくじらを見物するひとは、ほとんどいなくなった。通りすがりに目をやり、そこにあるということだけを確かめてまた先を急ぐ。何度見ても、くじらは波消しブロックのすき間に頭を挟めるように浮かんでいるだけだ。
 何度か港に足を運びながら、イサはくじらを直視することができずにいた。そこに横たわっていることを意識しながら、焦点が合う前に目をそらし、足を止めることもしない。そのくせ残像はまぶたを離れず、何度も繰り返しくじらを思い浮かべるのだった。
 イサは自分の心臓に手をやってみる。それまで何事もなく打ちつづけていた鼓動が一瞬乱れ、不規則に跳ねる。苦しくはない、違和感だけを残して、心臓はまたもとのように規則正しく動き始める。時おり思い出したように、イサの心臓は震えることがあった。くじらの、冷えきってすでに動きを止めた心臓は、このように震えることはないだろう。
 のど元まで湧きあがる想いの正体がつかめないまま、それを言葉にしてみようとしてあきらめる。呑み下して消すことも、形にして吐き出すこともできないこの想いは、腐り落ちることも、泳ぎ去ることもできずにいるくじらに似ていた。
 想いなどではなく、似ているのはイサ自身だと思いなおす。
 抗えない流れに乗ってしまった身体は、何を望んでいるのだろう。選び取ることはできないのだとただ横たわり、何を望むこともなく空を見ているのだろうか。
 波に揺られて動く塊は、イサには何かを捜しているように思えた。

 冴えた月の夜だった。
 あまりの明るさにイサは夜半、目を覚ます。カーテンのすき間から射す月光が、イサの顔を照らしていた。
 目が開いてしまうと、もう眠ることはできそうもなく、カーテンを開けて外をのぞく。青い夜気が漂う街を、黄金の大きな満月が見下ろしている。家の白壁や屋根や石畳が反射した光で、外は不自由なく歩けるほどに明るい。重なる屋根の向こうに見える切れ端の海は、水平線に続く金の帯を抱いている。

 かすかな風が、潮の香りを運ぶ。波消しブロックのうえに立つと、満潮の海面はすぐそこまで迫っており、波が寄せると飛沫が靴にかかるほどだった。
 くじらは、そこにいた。
 最初に発見されたときと同じように、波消しブロックに頭をのせて海面に浮かんでいる。腐臭は、風向きのせいか、長く海水に洗われたせいか、イサの元まで届かない。はじめて正面から見すえる漆黒の体面は、月光を浴びててらてらと艶を取り戻しているようだった。
「くじら」
 イサはつぶやいた。くじらにも名はあるのだろうか。呼ぶべき名を、イサは知らなかった。
「くじら」
 波音にかき消されないようにもう一度呼ぶ。漆黒の塊の中で、小さく光る部分があった。図鑑によれば、そのあたりには目があるはずだが、海水の飛沫と光の反射によって光っているように見えただけかもしれなかった。
「このままここで、朽ちていくのか。砂にうずめられて」
 抗えないことに納得をして。
 波の動きによって、くじらの力無いひれがわずかに動く。波と風、それぞれの動きと音が相まって、呼吸のように感じられる。それが誰の呼吸であるのか、イサにはわからなかった。自分の呼吸であり、もっと大きな何かの呼吸であるようだった。
 くじらは、答えない。呼吸だけがしばらく続いた。
 風が強まってきた。
「もう行くよ」
 肌寒さを感じてイサが港に背を向ける刹那、くじらの目が爛と光を宿したように見えた。満月が放つ光はなおも眩しいほどに明るい。

 強さを増した風は雨を呼び、明け方に嵐に変わった。
 強風のために雨粒は真横に打ちつけ、海面は膨張して泡立った。高波を警戒して、港に近付くことはおろか、外出もできないまま、風雨は三日間続いた。その間、絶え間ない海鳴りが街を包んだ。
 四日目の朝、晴れ渡る空のもと、幾分波の残る海からくじらは姿を消していた。港の管理人は、周辺を歩きまわってその姿を捜したのち、砂地に穴を掘る必要がなくなったことを悟り安堵を浮かべた。嵐による被害の状況に紛れ、高波によりくじらの遺骸が港から消えたという新聞の記事を目にしてから、イサは自室から海に目を凝らす。
 波消しブロックのすき間で朽ち、埋められることをくじらは選ばなかったのだ。イサは大きく息をつく。穏やかな気持ちだった。
 未だざわつきの残る水平線のあたりで、泳ぎ去るくじらの姿が見えた気がした。

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