三島由紀夫賞受賞作「旅する練習」(乗代雄介)感想――なぜ「練習する旅」ではないのか?
ここ1年ほど、決まったルートを散歩する習慣がついている。晴れた日の正午に1時間、家の近所を歩く。あたたかい陽ざしの降るなか、坂をのぼり、その途中にある古びた神社へ裏手から入り、神前で2拝2拍手すると、正門の鳥居をくぐり、石段をおりる。狭い路地に折れると、そこにはいつも猫が4,5匹のんびりとしている。
猫はずいぶん人に慣れていて、通行人があると「にあ」とか細い声で鳴き、足元にすり寄ってくる。たぶん、エサがもらえるとわかっているのだろう。あいにくエサは持ち歩いていないが、時間があるときは、いつも猫たちの首元をかいてやっている。
もともとは、ダイエットのつもりではじめた散歩だった。目標体重まで減量できた今でも、あの猫たちに会いたいがために、散歩をつづけている。
第34回三島由紀夫賞受賞作品であり、芥川賞の候補作にもなった「旅する練習」は、こんなふうに「手段じたいがいつの間にか目的化される」ことについて描かれた作品だと思った。あるいは、手段と目的を直結的・合理的に設置することをかぎりなく避けている。
その最たる例がまずタイトルだ。「旅する練習」なのだ。どうして「練習する旅」ではないのだろう? という疑問が浮かぶ。この小説は、一言でいえば、小説家の「私」と彼の姪である小学生の亜美が、「私」にとっては景色の文章描写を、亜美にとってはサッカーを練習しながら鹿島アントラーズの本拠地をめざす、旅の物語であるというのに。
「旅する練習」と言ってしまうと、「旅をするという行為の練習」とも読み取れるし、「練習が旅立っていく」とも解釈できる。いずれにせよ、このタイトルの被修飾語であり主語は、旅ではなく「練習」なのだ。
「練習」とは一般に、ある目的や目標に向けて繰り返される行為のことで、つまりは目的を果たすための手段と考えられる。つまり、このタイトルがすでに、手段と目的の関係性の転倒を内包している。
そのほかにも、「私」と亜美が鹿島アントラーズの本拠地を目指すという旅の目的を描く箇所にも、それはあらわれている。
もともと、なぜ鹿島へ行かなければならないのかといえば、むかし亜美がサッカーの合宿で鹿島へおとずれた際に、合宿所に置いてあった本をそのまま家に持ち帰ってしまい、返しに行く必要があったからだ。
けれどもそれは「私」によって「私は、亜美の卒業式が終わったら、鹿島アントラーズのホームゲームを観に行くついでに本を返すという計画を立てた。(「旅する練習」P.6)」と説明される。本を返すという本来の目的と、ゲームを観るという動機づけが逆転しているのだ。
さらにその後、緊急事態宣言により鹿島アントラーズの試合の開催がなくなると、「私」はこう提案する。
今度は「鹿島に向かうこと」ではなく、「鹿島へ向かう手段そのもの」に「練習」という意義を持たせている。本を返したいのであれば、ただ電車に乗って鹿島へ向かう手段もありうるなかで、彼らはわざわざそのような選択をするのである。
ほかにも、旅の道中、二人が滝前不動に立ち寄り「不動明王真言」が綴られた石碑を見つける場面がある。以下は、その石碑を見つけて真言の意味を問う亜美とそれに答える「私」のやりとりである。
なにがしかの意思を伝達するための手段であることばが、意味を解釈することなくただ音として唱えることそれ自体が目的となっている。
こうした2人のやりとりや、「私」が描写する緻密で自制的な風景がくりかえされることで、わたしたちは、二人の旅の顛末を急ぐのではなく、瞬間瞬間、目の前に立ち現れるできごと(練習)を見逃さないよう読み進めていくようになる。
物語の終盤、目的地の鹿島につく直前、プロのサッカー選手を目指している亜美はこんなふうに語る。
サッカー選手になるという目的のためにサッカーについてくりかえし考えるという手段を選ぶ。そうではなく、サッカーについてくりかえし考えることそれじたいを目的にすること、あらゆるできごとをサッカーにむすびつけること。練習という手段を目的にすり寄せていけば、おのずと目的は到達されうるものなのかもしれない。
目的を持つことは、生きることにある種の推進力を生み出してくれる。けれどもその一方で苦しさもはらむ。なぜなら、目的を持ってしまった以上、「目的を達成した状態の理想の自分」と、「目的に到達できていない現在の自分」との差異をつねに見つめ続けることになり、現在の自分の価値が目的に対し軽んじられやすい構造になっているからだ。自分の価値を自分で認められない状態が続くことは苦しい。でも、それって本当にそうだろうか? 目的が果たされない限り、そこに至るまでの過程(手段)を繰り返している現在の自分には価値がないのだろうか? 本作を読んでいる間、そんな問いかけが常にわたしの頭のなかで鳴り続けていた。
結局、亜美はサッカー選手になることはできずに、この小説は完結する。芥川賞の選考会では、本作のこの結末に対し議論があったようだが、わたしはこの結末はひとつの問いかけであると読んだ。
「サッカー選手になれなかったから亜美にとって、彼女がくりかえし続けた練習には意味がなかったのか?」。
そしてこの小説は、その問いに対して、主人公である「私」が織りなす多層的かつ目的と手段の転倒的なテクストそれ自体によって応答し続ける作品だと思った。だからこそ、これは「練習する旅」ではなく「旅する練習」なのだ。
本作を読み終えた今でもなお、折に触れ、悠然とカワウのポーズをとる亜美の姿が立ち現れる。わたしも亜美のように生きられたら。羽根を乾かすように両腕をひろげ、顔をつんとさせてみる。首の骨がポキッと鳴った。
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