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【桐野夏生著『砂に埋もれる犬』書評】可視化される虐待

 虐待をテーマにした桐野夏生さんの長編小説『砂に埋れる犬』(2021年10月刊)。虐待を受け、心がゆがんでいく主人公の姿を圧倒的リアリズムで描き出した傑作です。「小説トリッパー2021年冬号」に掲載された、朝日新聞記者・市田隆さんによる書評を紹介します。

 全国の児童相談所(児相)が相談対応した18歳未満の子どもへの児童虐待は、30年連続で増え続け、2020年度で過去最多の20万5029件(厚生労働省調べ)となった。途方もない数字だとしか言いようがない。

 桐野夏生氏の新作『砂に埋もれる犬』は、貧困の中での児童虐待、ネグレクト(育児放棄)の問題に正面から向き合った小説だ。

 12歳の少年・小森優真、4歳の弟篤人、32歳の母亜紀の3人は神奈川県内の工場の多い街で、亜紀が付き合っている元ホスト北斗さんの狭いアパートで暮らす。小学校に通えず、北斗さんの気まぐれな暴力にさらされる優真にとって、2人が繰り返し家を空けることによる空腹、飢餓感がさらなる苦しみとなる。亜紀が置いていったカップ麺とパンはすぐに兄弟で食い尽くしてしまう。優真は、耐えきれずに近所のコンビニ店主に廃棄処分の弁当やおにぎりを弟の分まで分けてもらい、生きながらえている。

 このような光景は、「20万5029件」に少なからず含まれていることが推測される。

 朝日新聞の同僚記者たちは今までこうした問題に地道に取り組み、様々な記事で問題提起を続けてきた。2015年以降、『子どもと貧困』『小さないのち』『子どもへの性暴力』などの企画連載では、現在の日本の各所で起きている子どもたちの悲惨な現状の具体例を丹念に拾い集めるだけでなく、苦難に満ちた児相職員の仕事ぶりまで克明に描いた。

 私は、それらの記事を読むたびに被害者の子どもたちに同情し、理不尽な状況に憤りを覚えた。だが、児童虐待に関する取材経験に乏しい私は、現状に迫ったルポルタージュなのに明確な実感を持てないまま、読んだ瞬間の高ぶった心情がその後にさらさらと流れて消えるのを感じる。また、自分や家族は過去、現在ともこの実情にあてはまらないとほっと胸をなで下ろしている部分もあるように思う。結局、無責任な傍観者としての位置にとどまっているのだ。

 桐野氏がこの長編作品を著したのは、多数の傍観者の立場から脱し、小説の力でどこまで実相に迫れるかを試みたように思える。

 子どもの虐待死事件が起きるたびに登場する無責任な母親、身勝手な彼氏という類型的な同居状態を小説で描くなかで、類型的では決してあり得ない主人公の少年優真の複雑にねじれていく心性を克明にたどった。

 優真への虐待、ネグレクトを最初に疑ったコンビニ店主・目加田浩一の通報により、警察官が介入し、児相職員らが苦境にあった優真の救済に動く。そして、良心的な浩一と洋子の夫婦は、障害ある20歳の娘を病気で失ったあと、施設暮らしの優真を里親として引き取る決意をする。劣悪な環境の中でも他人への礼儀を忘れず、途中から小学校に通えていないのに勉強への熱意を忘れなかった優真は好感をもって迎えられた。

 しかし、「その後、優真は新たな家族のもとで幸せに暮らしました」とはならない。母親の愛情を受けたことがない彼は、以前からほのかな愛情を向けていた少女・熊沢花梨と新たに通う中学校で同じクラスとなるが、親しくなる術を見いだせないまま、逆に花梨から反感を持たれ、悪意あるストーカーに墜ちていく。読んでいて息苦しくなる小説空間には、悲惨な現実に対峙して、安易な予定調和に落ち着かせない作家の決意を感じた。

 子どもへの虐待をテーマにした小説では、1999年刊、天童荒太氏の『永遠の仔』が見えにくかった問題をとりあげ、社会に警鐘を鳴らすことになった。父親から性的虐待を受けた少女など主人公の子ども3人は深い心の傷を負った。著者の天童氏は約2年前、朝日新聞記事でこう語っている。

「格差と競争を肯定する社会に、日本がアクセルを踏み込んだ結果、人々は孤立化を深め、不寛容になっている。共助と共生という帰るべき場所を見失っている」

 今でも後を絶たない虐待死事件に触れたコメントだ。『永遠の仔』が書かれた当時よりも孤立化が進み、虐待の連鎖が止まらない。さらに、帰るべき場所となる「共助と共生」が簡単にいくものではないことを、『砂に埋もれる犬』は示している。

 里子で迎えた優真の心のねじくれ具合がわかるにつれ、愛情を込めて見守っていた目加田夫婦は激しい衝撃を受け、絶望を感じてしまった。すべてがうまくいかない優真も苦しみ続ける。ただ本作では、両者の激しい摩擦の先にあるものが苦い現実のありようを提示するだけではなく、希望の光かもしれないと思えた。

『砂に埋もれる犬』の題名は、虐待に耐え、その後の生活でももがく優真の姿を表した言葉だろう。私が無責任な傍観者の立場を恥じ入り、重い読後感をかみ締めたことをもってして、この小説の高い価値を実感した。