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【試し読み】井上荒野『生皮 ―あるセクシャルハラスメントの光景』 

桐野夏生さん激賞
「この痛みは屈辱を伴っているから、いつまでも癒えることはないのだ」
河合香織さん絶賛
「時代の空気に風穴を開ける傑作であり、一人でも多くの人に読んでもらいたい」(「一冊の本」4月号書評より)

※期間限定全文公開は終了しました。たくさんの方にお読みいただき、ありがとうございました。好評につき、第1章のみ、引き続き試し読みとして公開を続けます。どうぞよろしくお願いいたします。

第一章 現在

柴田咲歩

 その記事はスポーツ新聞に載っていた。スポーツ新聞は、新患の飼い主が待合室で読んでいた。ワクチン接種のために雑種の子猫を連れてきた、二十代半ばくらいの女性だった。シャネルふうのツイードスーツにハイヒールという姿で、トートバッグから取り出したのがスポーツ新聞だったから、格好いいな、と思いながら咲歩はちらちら見ていたのだった。
 女性が新聞をばさりとめくって折りたたむと、その記事が載っている面が、受付カウンターにいる咲歩の目に入った。記事になっている男の、名前と、顔とが。その瞬間、あの匂いがよみがえった。甘ったるい薬草酒みたいな匂い。あの男の整髪料の匂い。道ですれ違う人からまれにふわりと漂ってくる同じ匂いよりも、その幻臭は濃かった。胃のあたりをぐっと掴まれたような感じがして、咲歩は思わず体を折った。
 女性はまだ新聞をめくらない。だから男の記事はあいかわらず咲歩の目の前にある。目をそらそうと思うのにできなかった。まるで男の両手で顔を挟まれ、固定されているかのように。男の顔。口元が少しほころんでいるが、目つきの鋭さのせいで、笑っていても怒っているように見える顔。記憶の中にもあの顔がある。見出しは女性の手で下半分が隠れているが、男を讃える記事であることはわかる。また誰かが大きな賞を取ったのだ。男のおかげで。
 なんでもない、と咲歩は思おうとした――ずっとそうしてきたように。目をそらす必要もない。知っている男がたまたま新聞に出ていた、それだけのことだ。匂いがさらに濃くなってきた。まるですぐそばにあの男がいるみたいに。あの男の頭が、胸の上にあるみたいに。胃がぎゅうっと掴まれる。女性が新聞をめくる。
 咲歩はカウンターを離れた。近くに医師も看護師もいなかったから、へんに思われずにすんだ。トイレに入って扉を閉めると、昼に食べたものを全部吐いた。

「咲歩」
 と夫の俊が呼びかける。出勤前の朝食のテーブル。咲歩は緊張しながら「ん?」と夫の顔を見た。今朝起きたときから、夫がそわそわしていることがわかっていた。彼はとうとう気がついたのかもしれない。気がつくはずなんかないけれど、誰かから、何かから、知らされたのかもしれない。しばらく遠ざかっていた不安が、まるで戸口の陰にずっと隠れていたかのように、咲歩の中にやすやすと侵入してズカズカと歩き出す。
「何か俺に話すことはない?」
 俊は微笑している。詰問調でもないが、いつもの微笑とはあきらかに違う。
「何かって?」
 咲歩は思わず立ち上がってしまった。知っている。彼は知っているのだ。不安がほぼ確信になって、この場から逃げ出したくなる。俊が不思議そうに見上げる。咲歩はキッチンカウンターの上のコーヒーサーバーを手に取った。夫のカップに注ぎ足し、自分のカップにもそうする。なるべくゆっくり――最悪のときを引き延ばすように。
「あれ? ないの? ほんとに?」
「ないわよ。どうして?」
 夫の顔に微かな当惑が浮かぶ。思っているような話ではないのかもしれない。増田さんがさ、と夫は隣人の名前を出した。七十歳くらいの夫婦で、おせっかいな人たちだ。
「昨日帰ってきたときに、声をかけられたんだ、増田さんの奥さんから」
 咲歩は黙って続きを待った。増田さん夫婦があのことを知っているという可能性はあるだろうか。あるわけない。でも、可能性はゼロではないかもしれない。ときどき、この世界中の自分以外の全員が、夫も含めて、じつは全部知っているのではないか、という思いにとらわれることがある。知っていて黙ったまま、嫌悪感に満ちて、咲歩が平然と暮らしているのを眺めているのではないか、と。
「咲歩、昨日、マツキヨに行った?」
「行ったけど……」
「増田さんの奥さんもたまたま店にいたらしいんだ。で、咲歩が、妊娠検査薬を買ってるところを見たって」
「買ってないわ」
 安堵と怒りとで、咲歩の声はみょうなふうに膨らんだ。そのことか。だがもちろん、それでよかったという気持ちにはならない。
「買ったのは、胃腸薬とお風呂の洗剤」
「検査薬は買ってないか。いや、そうか、ごめん。増田さん、確信に満ちて言うもんだから」
「どうかしてるわね、あの人」
「うん、どうかしてるな。いきなり肩を叩きながらおめでとうございますなんて。本当に買ってたとしたって、結果はまだわからないのに」
「もう相手にしないで」
「しないよ。へんなこと言って悪かった」
 俊は再び微笑した。気まずそうに、失望を隠そうと努力しながら。あなたが謝ることなんてない。その言葉を、咲歩は口から出せなかった。続いていろんな言葉が――いっそ叫び声が、植物の地下茎みたいに、ずるずるとくっついて出てきそうだったから。
 二人は一緒に家を出た。俊は徒歩で駅に向かい、咲歩は自転車で動物病院へ。病院へ着く前に咲歩は通りすがりのマンションのゴミステーションで自転車を停めた。ポケットから妊娠検査薬の箱を出して、ゴミ袋の間に押し込んだ。

  生理は十日以上遅れていた。
 もうすぐ二週間になる。もちろん俊はそのことを知らない。子供がほしいと思ってはいても、まだ自然に任せている段階で、排卵日を調べて性交するような努力はしていないから、妻の月経周期も把握していないのだ。もちろん彼は、生理が遅れれば真っ先に知らされると信じているだろう。今回だって、「何か話すことない?」と聞いたら、満面の笑みを浮かべた妻から「吉報」を伝えられるはずだと思っていたに違いない。そろそろ子供がほしいねと夫から言われたとき、咲歩も同意したのだから。
「おはようございます」
 水色の制服に着替えて、咲歩はスタッフルームへ入っていく。おはようございます。おはよう。寒いね。看護師や医師たちが、口々に挨拶を返す。咲歩は微笑む。誰かが冗談を言えば、みんなと一緒に声を上げて笑いもする。そうできることを自分自身に確認する。誰も不自然には思っていないだろう。そのつど咲歩が、笑顔や笑い声をポケットから取り出して、急いで顔の上に貼りつけているような気持ちになっていることなんて、気がつかないだろう。
 誰も知らない。みんな、私の身に起こったことは、何も知らない。咲歩は思う――夫もみんなもじつは知っているのかもしれない、と感じるのとまったく同じ頻度で、同じ寒気とともに。知られることをこれほど怖がっているのにもかかわらず、誰も知らない、ということに傷つけられる。どうして誰も知らないのだろう。どうしてそんなことが許されるのだろう。私があんな思いをしたのに。どうしてあの男はあたりまえみたいに口元を緩めて、気取ったポーズで写真に収まっているのだろう。
 診療開始の九時になった。正面ドアのブラインドを上げ、解錠するのと同時に、それを待ち構えていた患畜と飼い主たち――今朝は二組――が入ってきて、電話が鳴り出す。電話は、いちばん近くにいたから咲歩が取った。声を出す前に一瞬の躊躇がある。増田さんが、さらに何かおせっかいなことを言うためにかけてきたのではないのか。あるいはあの男かもしれない。咲歩、今夜ちょっと時間とれるか。あの頃のようにそう言われるのかもしれない。まさか。ありえない。どうにか支えてきたものが、ぐらぐらと揺れ出しているのを咲歩は感じる。はい、ハート動物病院です。必死で平静な声を吐き出すと、かけてきたのは尾上さんだった。猫のモルちゃんの飼い主だ。電話を切ると、咲歩は担当の深田先生を探した。
「モルちゃん、食べられなくなってしまったそうです」
 検査室でレントゲン写真を見ていた深田先生に伝える。口の中が痛む様子であること。朝のインスリン注射は中止にしたこと。
「えー」
 深田先生は化粧気のない顔をしかめる。この病院に五人いる獣医師の中でとりわけやさしい先生で、患畜の具合が悪くなるといつでも、自分のペットがそうなったかのように辛そうな様子になる。
「これから来院?」
「午後いちばんでいらっしゃるそうです」
「わかりました。あー、歯肉炎かあ……」
 モルちゃんはもう高齢猫なので、持病である糖尿病のコントロールのほかにも最近はいろいろと問題が出てきている。深田先生はレントゲン写真をデスクの上に置いて、せかせかと部屋を出ていき、モルちゃんのカルテを持って戻ってきた。モルちゃん、何歳になるんだっけと呟きながらそれをめくる。
「最初が十歳だったから……十七歳か。もう七年も通ってるのねえ。モルちゃんも、飼い主さんも、がんばってるんだよねえ」
 炎症は腎臓のほうから来てるのかもしれないなあと深田先生は続けたが、咲歩の心は「七年」という言葉に引っかかったままかたまっていた。なぜなら毎年、あのことがあってから経った時間を数えずにはいられないから。モルちゃんの闘病と同じく、今年で七年になる。
「モルちゃんの初診のとき、柴田さんはまだあっちだったのよね」
「はい」
 ぎくりとしながら咲歩は頷いた。あっちというのは十キロほど離れた場所にある分院のことだ。病院内の人事で、咲歩は約六年前にこちらの本院に移ってきた。もちろんあのことは分院の外で起きたことで、分院の人たちは何も知らない。でも、あのことをしていたとき、咲歩は分院で働いていたのだ。異動を打診されたときはほっとしたものだった。泥水でびしょびしょのコートを脱ぎ捨てていくような気持ちだった。結局そのコートは今も体にまといついているけれど。
「そうだよね、そうそう……壁新聞」
 深田先生は思い出したらしく手をパチンと叩いて咲歩に笑いかけた。
「ときどき誰かが持ってきてくれて、楽しみにしてたんだけど、あれって柴田さんが書いてたのよね」
「その話は勘弁してください」
「どうして? 面白かったのに。ああいうの、また書けばいいのに」
「ぜったいに、書きません」
 どうにか笑いながら咲歩はそう言ったので、深田先生も笑って、検査室を出ていった。

 赤いノートのことを咲歩は思い出す。
 布帛ふうの印刷を施したあかるい赤色の表紙の、リング綴じのB5版のノート。そのノートに、咲歩は日記を書いていた。左側のページに書くときはペンを持った右手がリングにあたって書きづらく、だから文章はページの中ほどで折り返している。右側のページはきっちりと端から端まで文字で埋めている。ノートを開いたときの、そんな景色を思い出す――書くだけでなく書いたものを何度も読み返していたから。
 専門学校時代から書きはじめ、ハート動物病院に就職し、分院の看護師になってからも書いていた。ノートは全部で六冊ある。年が替わるごとではなく、ノートのページすべてが文字で埋まるつどに、ノートを新調してきた。薄いノートではあったけれど、毎日、少なくない分量の文章を書いていたのだった。睡眠時間を気にしなくてもよかったら、もっと書いていたかもしれない。
 書くことが好きだった。実際にあった出来事よりも、その先やその裏側を想像して書くことが増えてきて、それが溢れて、壁新聞になった。A4版の紙の大半は猫や犬の迷子の情報や里親探し、ワクチン接種のお知らせなどで埋まったけれど、残った小さなスペースに、身辺雑記のようなエッセイのような、小説のような小文を載せた。月に一回、自宅のパソコンで作ってプリントアウトしたそれを、最初は院内の掲示板に一枚だけ貼っていたが、院内のスタッフからも飼い主たちからも評判が良くて、持って帰りたいという声も複数届いたから、三十枚ほど刷って受付カウンターにまとめて置いておくことになったのだった。タイトルは「ハート通信」。何号まで出しただろうか? 赤いノートに書けなくなってからも、突然やめると理由を詮索されそうだったから、新聞だけは何号か出した。お知らせや里親探しだけで、いつもの小文が載っていない理由を、それでもやっぱり聞く人がいて、「スランプなんです」と冗談めかして咲歩は答えた。そのうち、そういうやりとりも辛くなって、新聞を作るのをやめた。ちょうどこちらの本院に異動になるタイミングと重なったから、しつこく聞かれずにすんだ。
 赤いノート。書くことが好きだった。二十歳の頃から書き綴ってきた、赤いノート。最後の一冊に書いたのは日記ではなかった。最初から小説にすることを意識したメモだった。これからは、このノートはこういうメモが溜まっていくだろうと思っていた。わくわくしながら、なんども読み返した。そしてある日書けなくなった。何か書こうとするとあの匂いを感じるようになった。あの男の整髪料の匂い。赤いノート。書くことが好きだったのに。

 午後、モルちゃんを連れた尾上さん夫婦は、早くから来て病院の前で待っていた。
 深田先生の診察室に通し、咲歩がサポートに入った。青いギンガムチェックのキャリーバッグから、ガリガリに痩せた雉猫がこわれものみたいに取り出され、診察台の上に乗せられた。咲歩がこの分院ではじめてモルちゃんを見たときには、まだムクムクしていて、キャリーバッグが窮屈そうに見えたほどだった。半年ほど前に左の腎臓に腫瘍らしい影が見つかっていたが、摘出手術を受けるには高齢すぎるので、何か症状が出るたび対症療法で凌いでいた。でも、それも限界を迎えつつある。
 深田先生がモルちゃんの口を開けた。モルちゃんはちょっとだけ身を引いたが、抵抗する力はほとんど残っていないようだった。ああー、と深田先生が悲痛な声を上げた。かなり痛いみたいで、と尾上さんの奥さんが言った。もう、ふんだりけったりですよね。無理やり笑い事にしようとするように彼女がそう続けると、そうねえ、ふんだりけったりだねえ、モルちゃん、と深田先生は猫にやさしく話しかけた。年齢からも全身状態からも、麻酔はかけられないから、抜歯はできない。抗生剤で様子を見るほかないが、食欲が戻るまでは糖尿病のためのインスリン注射は打たないほうがいいということになった。食べずにインスリンを投与すると、血糖値が下がりすぎて低血糖になってしまうからだ。いつも一緒に来るけれどほとんど口を利いたことがない尾上さんのご主人が、涙を浮かべて鼻を啜り上げていた。
 誰もがもうわかっている通り、モルちゃんは長くないだろう。そのことが咲歩はひどく悲しかった。動物看護師になってからの十年余りの間に、もちろん患畜の死は幾度も経験している。モルちゃんに特別な感情を持っているわけでもない。患畜の死に立ち会うたびに泣いていたらこの仕事は務まりません。新人の頃、自主的に受けたセミナーで講師がそう言っていた。だからといって、慣れてはだめです。心を鈍化させないように。ただ悲しみに打ち勝つ強さを持ってください……。講師はそう続けたけれど、実際のところ、慣れてしまったのだと思う。強くあるには心を鈍化させるしかない。やわらかい心のままで強くいることなどできない。でも今日はモルちゃんのことを病院を出たあともずっと考えていた。心がひりひりした。厚い鎧に裂け目が入って、酸性の液体が浸み込んできたみたいに。鎧の下にあるのが皮を剥がされた心であるかのように。
 川沿いの道を走っていた咲歩はとっさに右にハンドルを切って、橋を渡った。道の向かい側からやってくる自転車の女性が、隣の増田さんであるように見えたからだ。ひとつ先の橋を再度渡って家に戻るべく、対岸の道を走り出しながら、それほど自分が隣人を恐れていることに咲歩は気づいた。そもそも午後九時に近い暗闇の中で、さっきの自転車に乗っていたのが本当に増田さんだったかどうかも定かではないのだ。増田さんでなくても、誰かとすれ違うことを恐れたのかもしれない。すれ違いざまに質問を浴びせられそうで。生理が遅れているんでしょう? 妊娠検査薬を買ったでしょう? 妊娠したの? 産むつもりなの? どうしてご主人に言わないの? 産みたくないの? どうして? 妄想だとわかっている、誰にもそんなことを聞かれたりしない、けれども向かい側に自転車の明かりが灯るたび、誰かが歩いてくるのが見えるたび、咲歩はブレーキを握りたくなる気持ちを抑えた。
 赤いノート。
 そのことを咲歩はまた思った。あれを捨ててしまわなければ。妊娠検査薬のように、ひそかに家の外に持ち出して、誰にも見つからないように破棄しなければ。自分自身にも二度と取り戻せないように裁断して埋めてしまわなければ。
 そうしなければ、今にも夫があれらを見つけてしまいそうで、見つけられたらすべてが終わってしまうとしか思えなくて、咲歩は我知らず自転車のスピードを上げた。

 緑が多い武蔵野の町の外れの、坂道に沿ったひな壇状の住宅地の最下段に、咲歩と俊が住む家はある。
 上のほうは建売のあたらしい家が集まっているが、咲歩たちの並びは同じ形状の建売でもいくらか古い。その中の一軒を借りて結婚以来住んでいる。いずれは持ち家をというのがふたりの目標で、毎月少しずつだが貯金している。
 青いヴィッツが停まっている駐車場の横の、申し訳程度の花壇では水仙がポツポツと咲いている。越してきた年に咲歩が植えた球根が、毎年の気候やほかの何かの加減で、旺盛に咲いたり、葉ばかりでほとんど花をつけなかったりする。結婚して三年だった。
 家の中はあかるくて暖かかった。俊はダイニングにいて、テーブルの上には鍋の用意が調っていた。住宅メーカーに勤める夫のほうが、帰宅は原則的に早い。それで夕食は彼が簡単なものを用意しておいてくれるというのが、いつの間にかできあがった習慣だった。いつもは先に食べ終えているが、今日は咲歩を待っていたようだった。
「俺もさっき帰ってきたんだよ」
 スウェットの上下に着替えている俊はそう言って、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出してきた。カセットコンロの上の土鍋の中で、昆布を入れた湯がクツクツと煮立っていた。豚肉とほうれん草と豆腐が皿に盛りつけてある。市販のポン酢が、すでに銘々の取り皿に注がれている。さっき帰ったというのはきっと嘘で、ずっと待っていたのだろう、と咲歩は思った。
「冬はいいな、鍋ができるから」
 乾杯、と缶ビールを合わせると、俊はそう言って歯を見せた。
「夏も鍋が多いよね、うち」
 咲歩は笑い返した。夫のことをとても好きだと思いながら、同時に彼が見知らぬひとであるような感じがした。
 それからしばらく、どうでもいい話をしながら食べた。缶ビールを飲み終わった頃――ふたりとも酒は強くなくて、いつも三百五十ミリをひと缶ずつしか飲まない――、咲歩が恐れていた通りに「今朝はほんとごめんな」と俊は言った。
「なんか、感じ悪かったよな。催促してるみたいでさ。俺が作り話してるって思ったんじゃない? いや、本当なんだけどさ、増田さんから声かけられたのは……」
「作り話だなんて思わなかったし、感じ悪いとも思ってないわ」
 咲歩は鍋の中で煮えすぎているほうれん草と豚肉をさらった。取り皿に入れても、食べられる気はしなかったけれど。
「あんまり深刻に考えないようにしてたんだけどさ」
「そうね」
「この辺でほんのすこし、深刻になってもいいかなって思ったんだ。深刻っていうか、真剣だな。真剣に考えてみないか、子供のこと」
「ええ、そうよね」
「俺が言ってるのは、病院に行くっていう意味なんだけど……いいかな?」
「ええ」
 俊は咲歩の顔をじっと見た。咲歩はニッコリ笑って見せた。ほかにどうすることができるだろう? それから俊は立ち上がって、ノートパソコンを持ってきた。すでに病院の候補を調べてあったのだ。ふたりは病院を選んだ。再来週、咲歩の公休日に合わせて俊も有休を取り、病院へ行くことにした――「それまでにできる可能性もあるけどね」と俊は微笑んだ。

 俊は何も知らない。
 咲歩は思う――咎めるのではなく、祈るような気持ちで。
 俊とは高校の同級生だった。六年前、咲歩が分院から本院へ異動になったすぐあとくらいに、初めてのクラス会が招集された。ひどい精神状態のときだったが、咲歩は出かけていった。なぜなら、八年ぶりに会う同級生たちは、何も知らない人たちだったから。本院のスタッフたち同様に、あの男と関係していたときの咲歩の姿を見ていない人たちだったから。あの男のことを一瞬でも忘れられる場所を、あの頃の咲歩は切望していた。会場となった新宿の居酒屋で、たまたま隣に座ったのが俊だった。
 もちろん俊も、何も知らなかった。私が、書くことが好きだったことも、小説を書きたいと思っていたことも、赤いノートを持っていたことも。私が吉祥寺のカルチャーセンターに通っていたことも、あの男との間にあったことも。
 だからこそ私は、彼と結婚したのかもしれない。咲歩は思う。そしてすぐに思い直す。いや、そうじゃない。だからこそ彼は、私に好意を寄せてくれたのかもしれない、と。
 俊とのセックスは、最初なかなかうまくいかなかった。咲歩が完全に彼に身を委ねられるようになるまでにしばらくかかった。だが、俊は辛抱強く待ってくれ、こわばりは少しずつほぐれていった。俊はやさしい毛布だった。咲歩は自分が俊で覆われていくのを感じた。もう大丈夫。ある夜、彼の胸にしがみつきながら、咲歩は思った。あの男の痕跡は俊が消してくれたと。ずっと大丈夫なはずだったのに。あの男とのことはもう忘れられるはずだったのに。
 俊が寝室に入ってくる。
 咲歩を先に入浴させ、今、自分も済ませて浴室から出てきたところだ。ほわりと温まった体が、咲歩の隣に滑り込んでくる。背後から体を密着させて、両手でそっと咲歩の胸を包む。今日はなんか、当たる気がするぞ、と冗談めかして囁く。
 俊は今もかわらずにやさしい。「当たる気がする」からではなくて、さっき食卓で咲歩の様子がへんだったことを気にして抱きしめてくれているのだろう。増田さんから言われたことを不用意に伝えてしまったと悔いているのだろう。それがわかっているのに、咲歩の体は硬くなった。ごめん、今日はちょっと疲れちゃった。咲歩は言った。一瞬の間を置いてから、そっか、と夫は答えた。彼の手が胸から離れ、体が離れていく。
 夫のほうを向きたい。夫の背中に取り縋りたいと思いながら、咲歩は動くことができなかった。生理が遅れていることを俊は知らない。本当は増田さんが言った通りに、妊娠検査薬を買ったのだということを知らない。もしも気づかれずにあれを使うことができて、そして判定がプラスだったら、次はこっそり堕胎するための病院を探しはじめたに違いないことを、このやさしい夫は知らないのだ。

 月島光一。
 テレビの画面に、男の名前のテロップが映し出されている。
 朝、夫が習慣的につけるテレビの、最初にあらわれた画面がそれだった。俊はちらりとそれを見たが、とくに気を引かれるものもない様子で、洗面所へ行った。だから咲歩が、キッチンカウンターの向こうからひとりで見ている。
 もちろん男の顔も映っている。最後に会ったのは七年前だが、ほとんど年を取っていないように見える。背景に見覚えがあり、カルチャーセンターだということがわかる。吉祥寺だ――咲歩が通っていたのと同じ場所。男は講義をしている。テロップが消えると、男の声が聞こえてくる。絶対に上手くなるから。そう言っている。誰でも、小説は絶対に上手くなる。俺が上手くしてやる。語尾を空中に放り投げるような、覚えているままの喋りかた。同じ言葉を咲歩も聞いたことがある。カメラが受講生たちの姿を捉える。うっとりと男を見上げている顔、顔。デスクの上で握りしめた拳。
 俊がリビングに戻ってきて、「替えていい?」と咲歩に聞いた。うん。うまく声が出せずに、呻くように咲歩は答えた。俊がリモコンを手に取るまでの間に、「月島メソッド」というテロップと、居酒屋で男と受講生たちが飲み交わしているところが見えた。男の声がさらに聞こえた。受講生にはとことん付き合うんですよ。どう小説を書くかっていうのは、どう生きるかってことでもあるから……。

 その日の午後にまた、尾上さん夫婦がモルちゃんを連れてきた。やはり食べられないらしい。口の中はあいかわらず痛々しく腫れていて、深田先生が提案した対処は、抗生剤の変更と、食欲増進剤の投与だった。
「あとは強制給餌でしょうか」
「強制……」
「それってモルには辛いことじゃないんですか」
 めずらしく尾上さんのご主人がそう聞いた。
「そうですね……すぐ吐き出してしまう子もいますし、場合によっては猫ちゃんにも飼い主さんにもかなりのストレスがかかります。でもこのまま食べなければ、弱っていくだけですから」
 弱っていく。深田先生は曖昧な言葉を使うけれど、それが「死んでしまう」という意味であることは尾上さん夫婦も理解しているだろう。尾上さんたちは目を見合わせる。どうする? と奥さんが聞き、どうしたらいいのかなあと応じるご主人はすでに涙声だ。今でも十分に辛そうなのに、完治の望みもないのに、そこまでする意味があるのだろうかと思っているのだろう。実際、モルちゃんと同じくらい全身状態が悪くなった犬や猫の飼い主が、安楽死を希望する場合も少なくないのだ。
「ちょっと、やってみましょうか」
 深田先生の指示で咲歩はウェットフードを入れたシリンジを持ってきた。深田先生はモルちゃんを自分のほうに引き寄せると、口の端にシリンジを入れた。
「あっ、食べた! 飲み込んだ!」
 深田先生は嬉しそうに叫んだ。えっ? 食べた? よくわからなかったらしい尾上さん夫婦が慌てて診察台に近づく。
「もう一回やってみますね。こっち側だと痛くないみたいですね。はい、ゴックン! ほら飲めた!」
「ほんとだ! 食べた!」
「モルすごい! 食べた!」
 モルちゃんは深田先生に抱かれたまま、どうしてそんなにみんなが騒ぐのかわからない、という顔できょとんとしていた。心なしか微かに目に力が戻ってきたようにも見える。尾上さんのご主人は今はもう手放しで泣いていて、その声を聞いていたら咲歩の瞼も涙で膨らんできた。
 それから咲歩は気がついた。黙って診察室を出た。トイレに入り、たしかめる。便器に赤い血が落ちた。生理がきた。妊娠していなかった。水の中をゆっくりと沈んでいく血の雫を咲歩は見つめた。涙がこぼれた。
 それはモルちゃんへの涙ではなかったし、安堵の涙でもなかった。怒りの涙だと咲歩は思った。こんなのはおかしい。子供がほしいのに、生理がきてほっとするなんておかしい。
 私は子供を産みたくないのだ。
 咲歩はそのことを認めた。なぜなら、私は自分の体がきらいだから。この体から出てくる子供を抱きたくないから。俊にも抱かせたくないから。なぜなら、私の体は汚れているから。あの男に汚されてしまったから。あの男の匂いが、手の感触が、ペニスが押し入ってきたときの感触が、まだ残っているから。
 こんなのはおかしい。咲歩は思う。子供がほしいのに、子供を産みたくないなんておかしい。今夜、夫とセックスしなくていい理由を考えているなんておかしい。夫に触れられるたびに、彼の手が汚れるような気がしはじめているなんておかしい。そんなのはおかしい。おかしい。おかしい。

月島光一

 ソファはやはり新調しないことにした。今朝、五時前に目が覚めて眠れなくなってしまい、ベッドの中で月島光一はずっとそのことを考えていた。時の人や各界の著名人に密着するテレビのドキュメンタリーシリーズに、月島が取り上げられることになり、来月から撮影がはじまる。当然この家にもカメラが入る。もう二十年近く置いていてあちこち擦り切れたり毛羽立ったりしているボロソファが映るのは体裁が悪いのではないかという話を、妻としていたのだった。どうでもいいといえばどうでもいいことだが、一方で自分の生きかたにかかわる重大事であるような気もしていた。
「あのソファのほうが、俺らしいと思うんだ」
 朝食の席で彼は妻の夕里にそう言った。午前十時――出版社を退職して以来、朝は遅い。ブランチなどという洒落た言葉を使ったことはないが、夫婦とも昼は食べないので、テーブルの上にはパンとコーヒーのほかに野菜サラダやジャガイモのグラタンのようなもの、茹でたソーセージなどが賑やかに並んでいる。月島の前には、健康のためにと言って毎日飲まされる緑色のスムージーのグラスもある。
「撮影が入るからソファを買い換えるというのは、なんていうか、みっともないと思うんだよ」
「でも、買い換えたことは撮影の人たちにはわからないんじゃない?」
 のんびりした口調で夕里はそう答えた。反論というほどではないのだろうが、妻が新しいソファをほしがっていることも月島は察していた。
「誰がわからなくたって、俺自身がわかってるわけだからさ」
 夕里はちょっと夫を見つめて、それから微笑した。
「そうね、それは大事なことね」
「だろ?」
「はい」
 最後の返事はおどけた調子だったので、月島も笑った。十五歳下のこの妻とは、十年以上前からセックスが途絶えていて、一時期はほとんど会話がなかったが、最近は以前のような親密さを――肉体的な接触はないまま――取り戻している。
「あ、夕里が服を新調するのはかまわないよ」
 席を立つとき、そう言ってやった。やったあ。妻の無邪気な声に口元を緩めながら、月島は出かける支度をした。

 中年女性が二人、こちらを盗み見ながらひそひそと喋っている。
 電車が来ると、月島はできるだけその二人から離れたドアを選んで乗車し、コートの内ポケットに入れてあるサングラスをさっとかけた。サングラスをかけること自体が気恥ずかしいのだが、電車の中であんなふうに見られたらどんな顔をしていいかわからない。
 昨年、受講生だった萬田一樹が芥川賞を受賞した。月島が教えるカルチャーセンターの「小説講座」出身者が芥川賞を取るのが彼で二人目であること、萬田が受賞時の記者会見で感極まって泣きながら月島への謝意を述べたことなどで、以来、月島も萬田並みに取材されている。講義をしているところを一度NHKが撮りに来て、短く放送されると、「月島メソッド」という言葉とともに、民放のワイドショーなどでも月島の写真が盛んに露出するようになった。あるテレビ関係者の言を信じるとすれば、月島の容姿はテレビ映えするのだそうだ。ある種の雰囲気をたたえた知識人を「渋いインテリ」略して「渋テリ」と呼んでもてはやす風潮があるらしく、月島もそこにカテゴライズされたということのようだった。
 吉祥寺で降りてロータリーに面したビルへ入っていく。このビルの五階にカルチャーセンターがある。サングラスはエレベーターの中で外した。降りるとすぐ「月島さあん」と呼びかけながら事務局の蟹江が駆け寄ってきた。
「四月からの講座、あっという間に満杯ですよ」
「うん、聞いてるよ」
 ダブルのスーツ姿が七五三みたいに見える、四十がらみの小男と肩を並べて講師控え室へ歩き出しながら、月島は答えた。一月末に募集を開始したのだが一日で定員に達したそうだ。ここ十数年、月島の「小説講座」は人気が高かったが、今回の速さは新記録だと伝えられていた。
「キャンセル待ちもすごい数なんですよ。あきらめないんですよねえ、皆さん」
「まあ、しばらくすれば落ち着くよ」
「定員をあと十人ほど増やすことはできませんか」
「十人? 無理、無理」
「教室にはあと二十人は入りますよ」
「教室に入ったって、俺のキャパには限界があるよ。提出作品を読まなきゃならないんだから」
「それなら、もうひとつ講座を増やすことはできませんか」
「同じことだろう」
 蟹江はさらに食い下がったが、まあちょっと考えてみるよと月島は濁して、控え室を出た。講座の開始時間にはまだ少し早かったが、言いくるめられたらかなわんと思ったからだ。受講生の最大人数は一クラス二十人と決めている。それ以上多くなったら、ひとりひとりに十全な指導ができなくなってしまう。
 月島は教室に入ると、すでにやってきている何人かの受講生たちと挨拶を交わし、壇上の講師席に座って、今日の講義内容をメモしたノートを読み返した。実際には、メモの字面を追っているだけで内容はほとんど頭に入ってこなかった。意識は、次々と入ってくる受講生に向けられていたからだ。時間がきて、月島は顔を上げた。あらためて教室を見渡したが、やはり柏原あゆみの姿はなかった。
「それじゃあ、はじめます。今日は、えーと……十七人? 三人休んでるのかな」
 すでにわかっていることを、今数えたかのように月島は言った。
「高岩さんは仕事が終わらないそうです」
 欠席者について、親しい者が報告する。
「原さんは鯖にあたって寝込んでいるそうです」
 笑い声が起きる。月島も笑いながら、「柏原さんは?」とついでのように聞いた。答えはない。柏原あゆみは社交的なタイプではないのだ。それにしても、彼女が来ないのははじめてだった。
「……今日は作品講評はありません。課題本の日だったね。読んできましたか。じゃあね、二宮くん。君の感想から聞かせてください」
 ノートに記してある進行通りに、大学の創作科に通っている青年をいちばんに指名する。ほぼ予想していた通りの感想を青年は述べはじめ、これで講義がやりやすくなったと月島は思うが、今ひとつ気分が乗っていかなかった。今日の講義内容はほとんど、柏原あゆみに創作のヒントを与えるために組み立てたと言っていいからだ。
 一時間半の講義が終わると、いつものように月島は受講者たちとともに、近くの居酒屋に移動した。もともとは講座の枠がもっと遅い時間だったとき、月島が声をかけ、男性受講者数人と飲みに行ったことがはじまりだが、今では昼からやっている店の座敷が事前に予約されており、受講者のほとんどが参加する「アフター講義」となっている。
「乾杯」
 月島は生ビールの大ジョッキを掲げた。煙草はやらないが酒は好きで、年とともに多少衰えたとはいっても、この場では自分がいちばん強いだろうという自信がある。
「美江子、あれどうなったんだ、彼氏の鬼嫁にばれた話は」
 回を重ねても、酒が回るまではみんなおとなしいので、月島が盛り上げ役を務めることになる。
「えー、話していいですか。長いですけど」
「おう、話せ話せ。つまらなかったら途中でストップかけるから」
「話せませんよう、そんなこと言われたら」
 そう言いながら、その中年女性は話しはじめる。ダブル不倫のドタバタ話。どこまで本当なのかはわからないが、そんなことはどうでもいい。
 酒の場では、もちろん講義の続きなどしない。だがこの場での月島のふるまいを、もうひとつの講義だと考えている受講者は多い。どんな話、どんな語りかた、どんな言葉の選びかたが、月島を面白がらせ、あるいは退屈させるのか。それが創作のヒントになるのだとこれまで何人もの受講生たちから言われたから、月島自身も意識的になるほかなく、結局は酒付きでもうひとコマ講義を請け負っているような塩梅になる。ここでの月島の飲食代は受講生たちが割り勘で持ってくれるのだが、それにしても超過労働に近く、好きでなければ到底やっていけないと思う。
 誰よりもペースが早い月島が二杯目の生ビールを飲み干したところで、講座に欠席していた高岩という男があらわれた。仕事が終わったのでこちらだけでもと駆けつけたのだという。高岩さんは講義よりこっちが大事なんじゃない? などとからかわれている。月島は一緒に笑ってから、冗談の続きのように、
「あゆみにも誰か電話してみたら」
 と言った。柏原あゆみの電話番号は本人から聞き出していたが、そのことは今明かさないほうがいいような気がした。幸い、受講生同士でグループラインを作っているらしく、連絡してみますという声が上がった。
「十五分くらいで来るそうです」
 そう、と月島はどうでもよさそうに頷いた。しかし気分が高揚してくるのはどうしようもなかった。生ビールから焼酎のロックに変えて、ペースを上げて飲んでしまう。あゆみがやってきたときには、それなりに酔っていた。
「よう。待ってたよ。ここに来なさい、ここに」
 自分の隣に呼び寄せた。そのためにほかの受講生たちが少しずつ席をずれる。あゆみは困ったような顔で紺色のふわふわしたコートを畳み、それを月島の席との仕切りにするように置いて小さく座った。市役所勤めだという三十二歳で、前期から月島の講座に通っている。すみれ色のセーターの浅いVネックから覗く、シミひとつない白い肌を月島は盗み見た。
「今日はどうしたんだ、具合でも悪かったのか」
「いえ……ちょっと、実家で用ができて」
 自分のアパートに戻ったところでラインを受信したのだとあゆみは言った。そのアパートが三鷹にあることを月島は知っていた。受講生名簿を調べたのだ。
「柏原さんが来ないから、先生、今日は元気がなかったのよ」
 テーブルの向こう側から、ダブル不倫の井上美江子が囃し立てた。余計なことを言うなと心中で舌打ちしながら、「まったくだよ」と月島は受けた。
「今日の講義は、あゆみのために考えていたんだ」
 このことも皆の前では明かさないほうがいいと思っていたのだが、口から出してしまえば、明かすべきことだと思えてくる。
「えー、いいなあ」
「それ、問題発言じゃないですか」
「えこひいき、えこひいき」
 すぐに周囲の受講生たちが口々に上げる声も、言葉とは裏腹にむしろ自分に賛同しているように聞こえ、「えこひいき、するよ、俺は」と月島は続けた。
「俺が今いちばん期待してるのはあゆみなんだ。でも、もう一歩なんだよね。あと一皮むければ、すごいものが書けると思う。今が大事なときなんだよ」
 やや大げさだと思ったが、そのぶん声に熱がこもった。わあ。すごい。うらやましい。柏原さん、がんばらないと。周囲の声が激励に変わり、柏原あゆみは驟雨にでも遭ったようにいっそう身を縮めながら、「がんばります」と小さな声で答えた。

 その日、月島が家に戻ったのは午後九時過ぎだった。
 最初の居酒屋のあともう一軒行き、いささか飲みすぎたので、書斎に直行してソファベッドに倒れ込んだ。講義がある日はたいていそんなふうで、夕食はいらないと妻に言ってある。目が覚めたときには午前零時を回っていた。
 夕里が風呂を沸かしておいてくれたのでゆっくり浸かり、そのあと馬のように水を飲んだ。いくらか酒が抜けたような気分になり、書斎へ戻った。何の音も聞こえないから、寝室で妻はもう寝入っているのだろう。寝る部屋をべつにしてからもう何年にもなる。
 あらためて入眠できそうもなく、デスクの前の肘掛け椅子に座った。デスクは編集者時代に老作家から譲り受けた紫檀の重厚なもので、積み重なった本や雑誌に埋もれるようにノートパソコンが開いた形で置いてあり、そのキーボードの上に原稿のコピーが載っている。柏原あゆみが提出した五十二枚の小説をプリントアウトしたものだった。
 月島はそれをパラパラとめくり、すると一杯飲みたい気持ちになってきて、立ち上がって書棚からウィスキーの瓶を持ってきた。デスクの上に置きっぱなしになっているグラスに注ぎ、チビリと舐め、あらためて原稿をめくった。
「上等なぬいぐるみ」と題されたそれは、柏原あゆみが月島に提出した、三作目の小説だった。二作は前期の講座開講中に受け取っている。三作とも稚拙だが、妙な面白みがある。いや――妙な面白みがあることはあるが、稚拙すぎる、というのが正確なところか。そう考えて月島はフッと笑う。柏原あゆみがそういう小説――とも言い難いシロモノ――を書く女だということが、可愛くて仕方がないのだった。
 今日、呼び出されて居酒屋に顔を見せたあゆみは、次の店には来なかった。途中から来たのだから、当然次も付き合うだろうと思っていたら、月島がトイレに入っている間に自分の分の金を払って帰ったとのことだった。えこひいきと言われたことを気にしたのかもしれないし、講座を休んだことを考えれば、この前、ふたりで会ったときのことが尾を引いているのかもしれない、居酒屋でもあまり喋らなかったし……。あらためて会って、ちゃんと言って聞かせなければと思う。この月島光一に「えこひいき」されることがどのような意味を持ち、どれほどの幸運であるかを。
 あゆみが書くものは、もちろん少しずつ上手くなっている。それは月島の指導の成果に間違いない。もっと上手くしてやりたいと月島は思う。実際のところ、プロの小説家になるのはむずかしいだろう。だが、もしかしたらいつか文芸誌の新人賞にひっかかるかもしれないし、そうならなくても、俺とのかかわりによって、彼女の人生はそれまでよりずっと豊かなものになるはずだ。
 技術を教えるだけなら簡単なのだ。小説とは何か。小説を書くというのはどういうことなのか。俺が教えたいことは煎じ詰めればそれになる。それを理解させるのは一苦労で、だから誰にでも教えたいと思うわけもなく、しかしこれと思う者があらわれれば俺は力をつくす。そして熱心になればなるほど個人的に距離を詰めていくことになる。萬田一樹にもそうしたし、以前にも目をかけた受講生が何人かいて、そのうちひとりはやはり講座受講中に新人賞を取ってデビューして、のちに芥川賞を受賞している。個人的なかかわりをいやがって途中で講座をやめた者もいたが、それはそれで仕方がない。彼女はそれだけの人間だったということだ。あの娘はたしか動物病院の看護師だった――月島はふっと思い出す。小説家になれるかどうかというなら、あゆみよりもずっと可能性を秘めている娘だったが、世俗的な道徳観から脱却できず心を拗らせ、去っていった。そういえば彼女もあゆみと同じくらい肌がきれいだった。
 すでに何度か読み返しているのだが、それでもなお、あゆみの原稿を読むのは愉しかった。彼女が月島のアドバイスを取り入れようとして奮闘した形跡が――頓珍漢な奮闘だとしても――わかるからだ。我知らず月島は、原稿の文字の上に太い指を這わせていた。白い胸元を思い浮かべながら。
 ウィスキーをまたひと口、口に含む。いつの間に飲んだのか、それでグラスの中身を飲み干してしまった。月島はグラスを置くと、スウェットパンツをずり下げて、自慰をした。

 翌日は久しぶりの晴天だった。乾燥したつめたい空気の中を、月島は爽快な気分で歩いた。徒歩十五分の距離にあるスポーツジムに、数年前から通っている。
 今のところ、利用するのはもっぱらプールだ。上級者コースをクロールでゆっくりと往復し、一キロ泳いだところでいったん水から上がった。
 いつもならプールサイドのジャグジーでひと休みするのだが、月島と同年齢くらいの男ふたりがそこでぺちゃくちゃと女のように喋っていたので、窓際のデッキチェアへ向かった。月曜日の午前中だから、人は少ない。端の二コースで初心者向けの水泳教室が行われているほかは、ウォーキングコースに中年の女性がふたりと、上級者コースに若い男がひとり泳いでいるだけだ。
 あの若い男はかなり体ができてるな。
 月島は、ひそかに値踏みする。大学のクラブか何かでほかに運動をやっていて、ここへは自主トレに来ているのかもしれない。あの男にはさすがに俺もかなわない。年齢だけはどうしようもないからな。だがそれ以外なら、今、この場所でいちばん体力と筋力があるのは俺だろう。ジャグジーにいる男たちなど、相手にもならない。あいつらには、もう自慰をする元気すらないだろう。
 月島は心中で苦笑する――そんなことを考えている自分にいささか呆れもするのだ。還暦を超えた男が筋力や精力に固執するなど、編集者時代にはむしろ唾棄すべきことだと思っていたのに。だが、仕方がない。あの頃はこんな六十代がやってくるとは想像もしていなかったのだから。会社を離れたあとは担当した作家たちの回想録でも書きながら、味気ない日々をただ潰していくのだろうと思っていた。新聞やテレビで姿が世間に曝されることになるなど考えもしなかった。セックスのことにしてもそうだ。この先、女は妻だけだろうし、妻に欲情しなくなればそれまでだと、かつての自分は決め込んでいたのだから。
 スポーツジムを出ると、すぐそばにある行きつけの床屋で散髪し、そのあと電車に乗って都心に近いホテルに向かった。早めに着いたが、一階のラウンジに待ち合わせた相手はもう来ていた。
「いやあ。有名人が来ましたね」
「よしてくれ」
 月刊誌の取材だったが、インタビュアーは編集者からフリーライターになった男で、昔からよく知っている気安い相手だった。様々な媒体からの取材でさんざん質問されたのと同じようなことがまた聞かれ、要領よく月島は答えた。ライターがデジカメを取り出し月島のポートレートを撮り終えると、あとは自然に雑談になった。
「木村佑太郎さん、認知症だってさ」
 ライターがとっておきのように話題に出したのは、男性作家の名前だった。
「えっ、まだそんな歳じゃないだろう」
 たしか自分より四つか五つ上ではなかったかと思いながら月島は言った。
「六十八だよ。たしかに認知症になるには若すぎるみたいだが、ひとり暮らしで、ほとんど誰とも付き合わずに暮らしていたみたいなんだよな」
「なんで認知症になったってわかったんだ」
「一時期、いろんな出版社に電話がかかってきたんだよ、日に何度も、本人から。木村佑太郎だがって言われても今の若い編集者なんか知らないやつのほうが多いのに、原稿料がまだ入ってないとか、新連載の打ち合わせをしたいとか、ありもしない話を延々聞かされたらしい」
「今は?」
「施設に入ってるよ、結局、昔の彼を覚えてる誰かが世話を焼いたんだろう」
 ライターは次の仕事があるからと帰っていったが、月島はそのまま座っていた。コーヒーのおかわりを注文し、ソファに深く体を沈めて、木村佑太郎のことをあらためて考えた。
 編集者時代の一時期、月島は彼を担当していた。新卒で入社した最初の出版社で、スポーツ誌や週刊誌の編集部などを経て、五年目にしてようやく念願の文芸誌の編集部に配属されたのだが、それから間もなくのことだった。
 べつの出版社の文芸誌に持ち込んだ長編小説がデビュー作にしてベストセラーになった彼は当時、むずかしい作家としても有名だった。最初に会いに行った編集者を気に入らなければ、以後その媒体からの依頼はいっさい受けないと言われていて、みんなが尻込みする中、月島が手を挙げたのだった。
 志願したのは功名心からではなく、単純に彼の小説に感動したからだった。そしてこのような小説が書ける作家なら、こんなものも書けるだろう、あんなふうにも書けるだろうという期待で胸が膨らんでいた。結果、月島は彼の信頼を得た。面会は初回で成功したわけではなく、追い払われてもしつこく食い下がり五回目のアタックで連載の約束を取りつけたというのは、業界内の武勇伝になっているが、何回だろうが月島はねばるつもりだった。彼の小説がそれほど好きだったし、一緒に仕事がしたくてたまらなかったからだ。
 こと文学にかんしては、夢中になりすぎる、という自分の性質を月島は早くから自覚していた。小説の面白さに目覚めたのは長野の山奥の中学生だった頃で、父親――地方紙の新聞記者だった――の書棚にあった世界文学全集を読破するという目標を立て、高校一年の夏休みの終わりに達成した。東京の大学に進学し文学部で学んだが、自分は作家ではなく編集者に向いているということはそのときに認識した。
 木村佑太郎とは、その後長い付き合いになった。他誌の仕事でも月島を通せば受けてくれるかもしれない、というようなことにもなったのだった。だが、今思えば、あの頃が彼のピークだったのだろう。出版社は次第に、木村佑太郎よりもわかりやすく勢いのある作家を大事にするようになり、彼に仕事を依頼しようという編集者は少なくなり、企画で彼の名前が挙がることもなくなっていった。そういう風潮に最後まで抗っていたのが月島だったと言える。売れる売れないにかかわらず面白いと自分が信じられる小説だけを世に送り出したい、という月島のやりかたは、しかし木村佑太郎同様に、次第に会社から受け入れられなくなっていった。挙句、広告部への異動を言い渡され、会社を辞めた。伝手があり転職先が約束されていたからでもあったのだが、結局そこでも上司から疎んじられた。いや、俺のほうがあいつらの文学観とか、出版理念とか、そもそもそんなものを持ち合わせているのかが信じられなくなったのだ、と月島は思う。
 そして二つめの出版社を辞めたのが十四年前か。
 壁一面のガラス窓から臨める中庭の、人工的な緑の中に何かを探すように、月島は思いを馳せた。十四年はあっと言う間のようだったが、やはりそれなりの月日ではあって、木村佑太郎は認知症になりもはや世間から忘れ去られて、そのうえ時代の寵児だったときの記憶すら失われつつあるわけだった。月島にしてももう何年も彼のことは思い出しもしなかった。そして自分は今ここにこうしている――キャンセル待ちが慢性化しているほど人気の小説講座の、カリスマ講師として。小説というものに対する俺の方法は、正しかったのだ。小説を書こうとする者たちが、それを認めたということだ。さっきプールで感じた誇らしさとはまたべつの、しかしはっきりとは正体がわからない気分が月島を捉えた。レンギョウだろうか、まだ枝ばかりの低木のうしろを横切った男がいて、一瞬それが、若い日の自分であるかのように――何かを告げに来たかのように――見えた。あらためて目をやれば、黒いお仕着せのホテルマンだったのだが。
 木村佑太郎のところへ見舞いに行ってみようか。そんな考えが浮かび、すぐに思い直した。俺が行ってももうわからないかもしれない。そういう有様の作家の姿をわざわざ見に行って、気を滅入らせることもないだろう。

 ホテルを出ると月島は駅のほうへ少し戻って、行きがけに見かけた店に入ってみた。そんな気になったのは、ラウンジを出る前に柏原あゆみに電話をかけて、このあと会う約束を取りつけたせいかもしれなかった。実際のところ、認知症になった作家のことはもう念頭から消えかけていて、口笛でも吹きたい心地になっている。
 そこはヴィンテージ家具の店のようだった。白塗りの壁とガラスだけの飾り気のない空間に、ソファや椅子がオブジェのように展示されている。いらっしゃいませ、と出迎えた店員も、家具のひとつのようにそれ以上口も利かずその場にとどまっていて、少々気詰まりになりながら、月島はさっき目についたソファをあらためて吟味した。スチールの脚の上にレンガ色の革のシートを載せたモダンなもので、値段を記したカードには商品についての説明も印字されており、デンマークのデザイナーの作品ということだった。この方面にはまったく詳しくなく関心もなかったが、デザイナーの名前はどこかで目にしたことがあった。
 いいんじゃないか、と月島は思う。この革のくたびれた感じはなかなかいい。ヴィンテージというのは今まで思いつかなかった。これなら俺らしいんじゃないか。ネックは値段で、ぎょっとするような金額だったが、払えないことはない。これまでにした大きな買い物といえば、今住んでいるマンションくらいだ。海外旅行も仕事以外ではしたことがないし、ブランド物の靴や時計を買ったこともない。ようするにそういう金の使いかたを、くだらんと思っていたわけだが、これはいいんじゃないか。今、俺は、このソファを買うべきなんじゃないのか――この十五年をはっきりと肯定するためにも。
 月島は店員を呼んだ。前置きもなく「これ、ほしいんだけど」と言ったときに相手がさすがに驚いた顔をしたのは愉快だった。配送と支払いの手続きをすませて店を出た。妻に電話をしてソファを買ったことを知らせようかと考え、いや、やめておこうと思い直す。いきなりソファが届いて、びっくりする顔が見たい。
 月島はホテルへ戻った。ここで柏原あゆみと待ち合わせしているのだ。さっきまでは迷いがあったが、ソファを買った高揚のままにフロントへ行って部屋を取った。カードキーをジャケットの内ポケットに入れてロビーのソファで待っていると、ほぼ時間ぴったりにあゆみはあらわれた。仕事を終えてまっすぐに来たのだろう。いつもの紺色のコート。今日はスカート姿らしく、フラットシューズを履いたか細い足が見えている。ストッキングを穿いているのだろうが、素足みたいに見える。
「飯、まだだろう。上で肉でも食べよう」
 いえ……という小さな声をあゆみは発したが月島は無視し、彼女の肩を押すようにして、上階のグリルレストランに通じるエレベーターに乗り込んだ。
 まだ時間が早いせいか店内に先客は少なく、夜景が見える窓際の席に案内された。ウェイターには俺たちはどんなふうに見えているんだろうなと月島は思う。父と娘か。あるいはホテルのこういう場所には、親子ほども年の離れた男と女の組み合わせは少なくないのかもしれない。ウェイターもそんな目で俺たちを生々しく見ているのかもしれない。だが俺たちは違う、たとえこれからセックスするとしても、世間の者たちが思うような通俗的な関係じゃないんだと月島は考える。
「ビールでいいか? ワインをボトルで頼んでもいいぞ」
「私はノンアルコールビールを」
「なんで。ノンアルコールビールなんて、食いものがまずくなるだけだよ。じゃあビールにしよう。ここはムール貝がうまいんだ。貝、大丈夫?」
 あゆみが何も答えないのを了解の意と受け取ることにして、月島はやってきたウェイターに生ビールのジョッキふたつと、ムール貝のほか、料理を幾つか適当に頼んだ。空腹ではあったが、べつの欲望のほうが亢進している。
 注文している最中にポケットの中でスマートフォンが鳴り出し、ウェイターが立ち去ったあとでたしかめると相手の番号だけが出ていた。きっとまた取材の依頼だろう。あゆみと一緒にいる間は無視することにして、マナーモードに設定した。
「こういうの、ちょっと困るんです」
 ウェイターがビールを運んでくると、口をつけずにあゆみはおずおずと言った。
「こういうのって?」
 講義のときと同じように、月島は聞き返す。ポケットの中でスマホが震える。番号を知っているということは、以前に取材を受けた相手かもしれない。しつこいやつだ。
「ふたりだけで食事したり……個人的に呼び出されたりするのは……」
「それの何が困るんだ? 俺はさ、あゆみともっと話したいと思ってるんだよ。いや……あゆみは、俺ともっと話す必要があるんだよ。小説、上手くなりたいんだろ?」
 また着信している。月島はスマホを取り出した。さっきと同じ番号だ。そのまま伏せてテーブルの上に置いた。
「講義だけじゃだめなんですか?」
「どう思うんだ? 逆に聞きたいよ。講義だけで十分だと自分で思えるのか?」
 苛立っているふりをしているつもりが、次第に本当に苛立ってくる。どうしてこの女はいつまでもぐずぐず言うのだろう。前回ふたりきりで会ったとき、バーのカウンターの下で手を握っているのだから、そのうえで彼女は今夜ここに来たのだから、このあとのことは承知しているはずだ。
 テーブルの上のスマホが震え出す。月島はそれを掴んで席を立った。店の外に出て、怒鳴りつけてやるつもりで応答した。
「週刊ニッポンの駒井と申しますが、月島さんですよね」
「ちょっと非常識だよ、あなた。誰にこの番号聞いたのか知らないけど、応答がないってことは電話に出られない状況だっていうのは想像できるだろう」
「柴田咲歩さん……旧姓、九重咲歩さんのこと、ご存知ですよね」
「え?」
 怯む様子もない相手の態度と、彼が口にした名前に月島は戸惑った。九重咲歩。もちろん覚えている。あゆみに似た女だ。
「九重咲歩さんに何かあったんですか」
「彼女は月島さんのことを、セクシャル・ハラスメントで告発しています。それについてお話をうかがいたいのですが」
「え?」
 ひとつ覚えのように月島は繰り返した。記者は淡々と話しはじめた。え? え? 混乱する月島の横を、目を伏せた柏原あゆみがすり抜けていく。


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