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紫式部と清少納言が詠んだ「夜と友」

 千年を経て愛される和歌と近現代の短歌。二首を比較しながら人々の変わらない心持ちや慣習に思いをはせ、三十一文字に詰まった小さくて大きな世界を鑑賞する『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』(あんの秀子著、朝日新聞出版)。特にガリ版で刷ったイラストは見ごたえ十分です。連載第9回は「夜と友」をお届けします。

 11世紀初めの平安時代中期、王朝文化の盛期を彩る2人。日本文学の物語と随筆の分野を代表する、紫式部と清少納言が、宮仕えの合間の友との交わりを詠んでいます。

 紫式部はあるとき、長いこと会っていなかった幼なじみと宮中で行き合います。その女友達も誰かに仕えている身だったのでしょう。彼女は慌ただしく去ってしまいます。本当にその人なのかどうかもわからない短い間のことでした。

 その友を、雲に隠れてしまう夜中の月にたとえています。「めぐり逢ひて」という初句がまず人のことを思わせますが、結句で月が出てきて、月が空をめぐってきた様子の説明にもなっているのです。 月のめぐりと人とのめぐりあいという世の不思議でしょうか。

 詞書ことばがきによれば旧暦7月10日頃のことで、月が沈むのは早い時間。姿を消したその月、つまり、やっとめぐりあった友達とはその後会うことはなかったようです。

 この歌は『紫式部集』(紫式部の家集)の巻頭にあって、百人一首にも入っています。「め」で始まる歌がこれだけなので、かるた取りのときに札を取りやすいとされる「一字決まり」の歌の一つ。「めぐり逢ひて」の六字が字余りで、引っかかるような語感も印象に残ります。

 清少納言の「夜をこめて」も、百人一首に選ばれた歌で、宮中での会話とふみ(手紙)のやり取りから生まれました。お相手は大納言・藤原行成ゆきなりで、身分も教養も申し分のない貴族です。「四納言しなごん」と呼ばれた、当時を代表する秀才の一人。夭折した歌人・藤原義孝よしたかの子で、三蹟さんせき(平安時代中期の三大能書家)の一人でもあります。

 彼らが夜中までおしゃべりをしていたあるとき、行成がみかど物忌ものいみだからと、急いで帰って行きました。

あんの秀子著『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』
あんの秀子著『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』

 翌朝、「鶏の声に呼ばれたものだから」と行成が言い訳の文を寄こしたのでしたが、「鶏の鳴きまねで私をだまそうとしたって、函谷関かんこくかんじゃあるまいし(早いお帰りでしたね)」と、清少納言は中国の故事を踏まえてねた感じで返事をします。すると行成からは、「函谷関ではなくて逢坂おうさかの関のことですよ」とメッセージが届きます。

 メールがあったわけでもないのにスピーディーですね。お使いの人を介しての文のやり取りで、それに応えたのがこの歌です。

「逢坂の関」は、恋人と「逢う」という意味を込めて用いられる言葉。2人は恋人同士ではありませんが、逢坂の関のことだと言われたら恋の気分も漂ってくる。行成が思わせぶりに、また会いに行 きますよ、というわけですが、それに対して清少納言は、逢坂の関は通るのを許しませんよ、といなすように歌で応えました。

 男友達、それも有能な名門貴族との機知に富んだおしゃれなエピソードは、『枕草子』に詳しく描かれています。

 相手が女友達にしても男友達にしても、そのときにしかできない歌というものがあります。友が歌を呼ぶ、ということでしょうか。


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