紫式部と清少納言が詠んだ「夜と友」
11世紀初めの平安時代中期、王朝文化の盛期を彩る2人。日本文学の物語と随筆の分野を代表する、紫式部と清少納言が、宮仕えの合間の友との交わりを詠んでいます。
紫式部はあるとき、長いこと会っていなかった幼なじみと宮中で行き合います。その女友達も誰かに仕えている身だったのでしょう。彼女は慌ただしく去ってしまいます。本当にその人なのかどうかもわからない短い間のことでした。
その友を、雲に隠れてしまう夜中の月にたとえています。「めぐり逢ひて」という初句がまず人のことを思わせますが、結句で月が出てきて、月が空をめぐってきた様子の説明にもなっているのです。 月のめぐりと人とのめぐりあいという世の不思議でしょうか。
詞書によれば旧暦7月10日頃のことで、月が沈むのは早い時間。姿を消したその月、つまり、やっとめぐりあった友達とはその後会うことはなかったようです。
この歌は『紫式部集』(紫式部の家集)の巻頭にあって、百人一首にも入っています。「め」で始まる歌がこれだけなので、かるた取りのときに札を取りやすいとされる「一字決まり」の歌の一つ。「めぐり逢ひて」の六字が字余りで、引っかかるような語感も印象に残ります。
清少納言の「夜をこめて」も、百人一首に選ばれた歌で、宮中での会話と文(手紙)のやり取りから生まれました。お相手は大納言・藤原行成で、身分も教養も申し分のない貴族です。「四納言」と呼ばれた、当時を代表する秀才の一人。夭折した歌人・藤原義孝の子で、三蹟(平安時代中期の三大能書家)の一人でもあります。
彼らが夜中までおしゃべりをしていたあるとき、行成が帝の物忌みだからと、急いで帰って行きました。
翌朝、「鶏の声に呼ばれたものだから」と行成が言い訳の文を寄こしたのでしたが、「鶏の鳴きまねで私をだまそうとしたって、函谷関じゃあるまいし(早いお帰りでしたね)」と、清少納言は中国の故事を踏まえて拗ねた感じで返事をします。すると行成からは、「函谷関ではなくて逢坂の関のことですよ」とメッセージが届きます。
メールがあったわけでもないのにスピーディーですね。お使いの人を介しての文のやり取りで、それに応えたのがこの歌です。
「逢坂の関」は、恋人と「逢う」という意味を込めて用いられる言葉。2人は恋人同士ではありませんが、逢坂の関のことだと言われたら恋の気分も漂ってくる。行成が思わせぶりに、また会いに行 きますよ、というわけですが、それに対して清少納言は、逢坂の関は通るのを許しませんよ、といなすように歌で応えました。
男友達、それも有能な名門貴族との機知に富んだおしゃれなエピソードは、『枕草子』に詳しく描かれています。
相手が女友達にしても男友達にしても、そのときにしかできない歌というものがあります。友が歌を呼ぶ、ということでしょうか。