酒に酔うと赤く変色する左ひじの手術痕と19歳で死んだTとの思い出【映画監督・石井裕也連載】
第3回「左ひじの手術痕」
僕の左ひじには大きな手術痕がある。これまでずっと怪我に悩まされてきた歴戦のサウスポー投手みたいで、なかなかカッコイイ。
しかもこの手術痕、酒に酔ってくると赤く変色し、僕に帰宅を促すサインにもなるという優れものだ。皆に左ひじを見せ、「こういうことなんで、そろそろ帰ります」と酒席を中座するなんて、やっぱりなかなかカッコイイ。
この手術痕、今ではかなり気に入っているのだが、当然かなりひどい事故で刻み込まれたものだ。
幼稚園の時だった。ジャングルジムから落ちて複雑骨折し、全身麻酔を伴う大掛かりな手術を受けた。事故の原因は同い年のTという幼なじみに突き落とされた。……いや、あるいは自分で落ちたのか。その日のことは鮮明に覚えているのに、肝心の落下前後の数秒間の記憶が抜け落ちている。Tに突き落とされたのか、あるいは自分の不注意で落ちたのか。思い出そうと努めたが、手術後の入院中、母から「どっちでもいい」と言われたので、無理に記憶を掘り起こす作業をやめたし、いずれにしてもTを責めないと心に決めた。
Tとはその後、中学まで同じ学校だった。彼はいったん転校したが、1年ほど経ってから名字を変えて戻ってきた。つまり、彼には家庭の事情がいろいろあったのだ。
19歳の時、僕は一カ月ほどインドを放浪していた。カネも尽きてボロボロになって帰国すると、友人から留守番電話が残されていた。
「Tが死んだ」というものだった。
ショックだった。まだ19歳、急性の白血病だったらしい。僕がインドをお気楽に旅している1カ月の間で、Tは突然体調不良を訴え、何気なく病院へ行き、衝撃的な告知をされ、すぐに死に、焼かれ、全てが終わったのだ。
インドから帰ってしばらく、Tのことが頭から離れなかった。病院のベッドの上でTは、寂しかっただろうし、悔しかっただろう、なぜ自分が白血病にならなければいけないのか、呪ったことだろう。死ぬことが怖かっただろう、そしてもしかしたら、苦悩の果てに僕の左ひじの一件を少しは思い出したかもしれない。
あれから15年が経った。先日、当時の同級生にTの話をしてみたところ「そういえばそんな奴、いたよなぁ」という素っ気ない返事だった。
Tよ、その時、僕は心に決めたのだ。ジャングルジムの上から僕を突き落としたのは、君だ。絶対に、君だ。僕の左ひじの痕は、君が遺したものだ。酒に酔って手術痕が変色するたびに君を思い出すことに僕は決めたのだ。
Tよ、それでいいだろう。事実はもはやひとつしかない。君は僕の一部だ。
(連載第11回 AERA 2018年7月16日号)
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