渋谷の中華料理屋では「モーガン・フリーマン」で時空が歪む。そして僕もそこから逃げられない【映画監督・石井裕也連載】
第4回「モーガン・フリーマン」
渋谷の道玄坂にある中華料理屋に入った瞬間、すぐに店内の異変に気がついた。
昼の12時少し前、5人組の男が泥酔している。皆一様にニッカボッカ姿で、目の据わり具合や声の大きさからいって恐らく前日から夜通し飲んでいた様子だ。店主らしき婆さんは「いい加減帰らなかったら警察を呼ぶぞ!」と男たちを罵っている。
「うるせぇババア殺すぞ!」と叫び返す男たちは、いやはや血の気が多そうだ。
人生においてこういう特殊な状況に立ち会ってしまうケースはままあるが、言わば抜き打ちの実力テストのようなもので、強制的に1人の人間としての態度が試され、人間性の真価が問われることになる。
だが、今回の場合は少し特殊で、どうするべきかの判断が極めて難しいシチュエーションだった。何故なら、婆さんとニッカボッカの男たちが激しく罵り合う中、まるで別の時空にいるかのように僕の隣では店員の兄ちゃんが涼しい顔で賄いをパクパク食っている。新しく入ってきたサラリーマンの客は何食わぬ顔で炒飯を注文し、耳にイヤホンをして目を閉じた。厨房ではオヤジがいたって普通に炒飯を作り始めた。
一体これはどういうことなのか。誰にどう助太刀するべきか、誰を制止するべきか。分からなかったので、とりあえず僕もホイコーロー定食を注文した。
「はいよ」という気の抜けたオヤジの声が返ってきた。
やがてまた時空に歪みが生じた。5人の男たちの声量がさらに上がり、怒声が乱れ飛び始めた。「モーガン・フリーマンは巨乳だ!」「いや、モーガン・フリーマンは巨乳じゃない!」と仲間割れを始めたのだ。「モーガン巨乳派」と「モーガン巨乳じゃない派」の二派に分かれ、物凄い剣幕で言い争っている。そしてなぜか「モーガン巨乳派」が三人、つまり多数派だったのである。僕は混乱し、思わず自分を見失いかけながら、モーガン・フリーマンは黒人の名優で、しかもかなりのお爺ちゃんだと自らに言い聞かせ続けた。少数派二人の意見としては「確かに小さくはないが、モーガンが巨乳だとは言えない」のだそうだが、もう何が何だか分からない。渋谷の時空は歪み続けた。
ホイコーローが来たので、僕は食べ始めた。男たちはさらにヒートアップし、つかみ合い始めた。この光景を実際のモーガン・フリーマンが見たらさぞ悲しむだろうと思っていると、店主の婆さんは呆れ果て、無視を決め込んだ。それでも状況は悪化する一方だ。僕は人間性を問われている抜き打ちテストの真っ最中であり、男たちがこれ以上暴れたら、多少面倒だが仲裁に入らなければいけないだろう。何かあったらまず女性である婆さんを守ろう。そんなことを考えながらしっかりホイコーローを完食した。
仕事の打ち合わせの時間が迫っていた。婆さんには申し訳ないが行かなくてはならない。「ごめん婆さん」と心の中で呟きながらレジに向かう。「止めてほしいなら止めるけど」と僕がアイコンタクトを送ると、婆さんは「大丈夫。いつものことだから」と苦笑した(ように見えた)。
ホイコーロー定食800円也。細かいのがなかったので婆さんに一万円札を渡した。
その時だった。
婆さんが、かなり大きな舌打ちを、しかもかなり派手にした。チッという破裂音が僕の胸に突き刺さった。「一万円なんか出すなよコラ」という婆さんの心の声が聞こえたようだった。
なぜだ。僕は「モーガンが巨乳か巨乳じゃないか、そんなのはどっちでもいいと思っている派」なのに。
結局僕は「モーガン巨乳派」たちと同じ時空に生きていて、婆さんからすれば同じように煩わしい存在でしかなかった。
渋谷には人が溢れ返っている。これは何も、悲しい話ではない。
(連載第4回 AERA 2018年5月28日号)
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