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第17回

「で」

 千紗はナプキンで口元を拭うと、尚吾の目を見て言った。

「尚吾はどんな演出を提案したの?」

 高いところで一つに結われている黒髪が、今日もよく似合っている。出会ったときからずっと、千紗はこの髪型だ。それまで出会ってきた女の子は前髪の出来を気にしている人が多かったので、いつだって額をむき出しにしている千紗からはいつも秘密のなさのようなものを感じる。付き合い始める前、その理由を問うてみたところ、「これが自分に一番似合ってるってわけじゃなくて、料理してるときキッチンに髪の毛が落ちるのが嫌なの。この長さだと一番簡単にまとめられるから、そうしてるだけ」という答えが返ってきた。尚吾はそのとき、ホットケーキを焼き始めるときみたいに、自分の心の表面が千紗への好意でぷつぷつと膨らみ始める予感を抱いた。

「心が晴れやかになってることを表す演出って、確かに、やりすぎてもダサいしわかりづらすぎたら全然伝わらなさそうだもんね」

 白いナプキンがテーブルの上に置かれ、血色のいい唇が露(あら)わになる。むき出しの額と、そのままの唇。千紗のトレードマークはそのふたつだ。

 ずっと行きたかったお店に行けるときは、口紅とか使わないようにしてるんだ。だから今日は、尚吾君と会うんだったらメイクサボってもいいやーって思ってるわけじゃないってことだけ、最初に言っとこうと思って――付き合う直前、尚吾の心がホットケーキどころか東京ドームくらいパンパンに膨張しきっていたとき、二人で食事に行った。千紗は待ち合わせ場所に来るなり、何色にも補正されていないくちびるを指してその理由を早口で話してくれた。尚吾は「あ、はい、わかりました」とか言いながらも、頭の中でついさっき聞いた台詞をそのまま反芻(はんすう)していた。尚吾君と会うんだったらメイクサボってもいいやーって思ってるわけじゃない。尚吾君と会うんだったらメイクサボってもいいやーって思ってるわけじゃない。この言葉は、その後千紗に告白するまでの時間、何度も尚吾の頭の中で反芻されることになる。

 友だちという関係で最後に食事をしたその日は、千紗がずっと楽しみにしていた予約の取れない創作フレンチに行くということで、二人ともいつもより気合いを入れて服を選んでいた。ただ、だからこそ、少し濃く引かれたアイライン、同じように揺れるシルバーのピアス、きっと久しぶりの登場なのだろう、あらゆる光をぴかりと跳ね返すパンプスなどで彩られた全身の中、生まれ持った色がそのまま晒(さら)されている唇に、尚吾の視線は集中した。

 料理人になることが子どものころからの変わらない夢で、学生のときからバイト代はすべて食べ歩きに費やしていて、食への好奇心の解放しやすさを最優先事項として髪型やメイクを決めている千紗。その姿は、観たい映画や撮りたい作品を中心に日々の生活を回している尚吾にとって、どんなブランドのリップで彩られた唇よりも魅力的に見えたのだ。

「今思ったら、俺の案、千紗が履いてきた靴から引き出されたのかもしれない」

「靴?」

 ワインを一口飲みながら、千紗がそう訊き返してくる。上目遣いになると、奥二重のラインが、職人が上等な彫刻刀を滑らせたみたいに、すっと伸びる。

 帰り際に思わず告白してしまったあの日、尚吾は、食事中に激しい通り雨が頭上を通過していたことに全く気づかないくらい、千紗との時間を楽しんでいた。だから、店を出て街がしっとりと濡れていたときにはとても驚いた。千紗は、「うわ、絶対靴濡らしたくないなーこれ」とぼやきながら、小さくはない水溜まりをぴょん、と飛び越えた。

 その姿を、尚吾は後ろから見ていた。「天気予報、雨とか全然言ってなかった気がするんですけどー」不機嫌そうな声とは裏腹に、夜空を映す水面を器用に飛び越える千紗のシルエットは、まるで夢の中でスキップをする子どもみたいに、とても愛らしく感じられた。

「浅沼さんはクライアント好みのわかりやすさを重視して表情のアップ、占部さんは監督らしさを重視して引きの映像って提案だったんだけど、俺、その間を取れないかなって思って」

 ラストシーンについて尚吾が提案した演出は、引きの映像で、彼氏のほうは水溜まりの中をそのまま進んでいき、彼女のほうは水溜まりをぴょんと飛び越える、というものだった。彼女の、お気に入りの靴を汚したくない、という気持ちからくる行動によって、とっておきのコーディネートが風を吸い込んでふわりと舞う。好きなファッションを楽しむことで日常が輝く瞬間を、水溜まりを飛び越えない彼氏を比較対象に置くことで際立たせられるのではと考えた。

「いいね、それ。やりすぎてないし意味がわかったとき気持ちいいし、何よりかわいいかも」

 そう微笑(ほほえ)む千紗のもとに、太刀魚(たちうお)のインボルティーニが届けられる。その瞬間、千紗の興味関心が尚吾の話から目の前の料理にごっそり移動したことがよくわかる。

「俺の話はいいから、食べよう。今日は千紗の“勉強”なわけだし」

 尚吾がそう言うより早く、千紗はもうナイフとフォークを握っていた。お目当ての料理を前にした千紗は、ピストルが鳴るより早く走り出してしまう小学生のようだ。

 千紗の信念の一つに、憧れの料理人が自伝に書いていた「本物の料理をたくさん食べなさい。それが料理人にとっての一番の勉強なのだから」という言葉がある。料理人を志して以来、千紗は、稼いだお金をすべてその“勉強”に注いでいる。一人では入りづらいお店もあるから、ということで、尚吾も恋人関係になる前に“学友”となったわけだが、今では尚吾もインボルティーニが包み料理を意味する言葉だということくらいはわかるようになっていた。

「うわっ、おいし、これ」

 一口含んだ千紗の頬が、ふんわりと盛り上がる。千紗と二人でゆっくり外食をするのは、かなり久しぶりだ。千紗のもう一つの信念である、食事は大切な人との時間をくれるもの、という言葉が、じんわりと身に沁みる。

 尚吾と千紗は、学生最後の春休みのうちに同棲を始めた。二人とも、それまで住んでいたアパートの契約更新の時期が重なっていたことや新生活に向けて引っ越しを検討していたこともあり、どうせならと思い切って決断したのだ。千紗の就職先が目白にあるレストラン、尚吾の勤務先であるNLTの本社が渋谷のさくら坂をのぼったところにあるということも、じゃあもともと尚吾が住んでいた要町で物件を借り直そうという決断への促進剤となった。要町は都心に近いわりにそこまで家賃相場が高くないことで知られている街だが、地元密着型の不動産屋に駆け込んだからか、その中でもかなり格安の物件に出会うことができた。どちらも初任給は二十万円に満たず、決して余裕があるわけではなかったが、二人でお金を出し合えばベランダはないものの四十五平米ほどの2DKを借りることができた。

 ただ、いかにも同棲生活、といった甘い日々を送ることができたのは一瞬だった。お互い新生活が始まると、ここまで生活リズムが違うか、というくらい起床も就寝の時間もズレていた。恋人との同棲というより友人とのルームシェアみたいだなと感じるときもあるが、今思えば、確実に毎日早朝から動き出すことが決定している千紗が「寝室は別々にしたほうがいいと思う」と提案してくれていて本当によかった。それによって避けられている衝突は、きっと数えきれない。

 といっても、だからこそ、二人でこうして食事をする機会は貴重だ。食事は大切な人との時間をくれるもの。千紗の信念のうちの一つを、尚吾は改めて心の中で唱える。

「インボルティーニってイワシとかではよくあるんだけど、太刀魚のは初めてかも。太刀魚の身ってこんなにやわらかいんだ、発見」

 さすがにこのお店のスペシャリテということもあり、おいしい。千紗は学生のころから、数か月先しか予約の取れない店をとりあえず押さえておき、その日を絶対に空けられるように日々を過ごす、ということを続けている。そして予約当日は、どれだけ高くとも、その店のスペシャリテを楽しめるコースを選ぶのだ。今日のお目当ては太刀魚のインボルティーニだが、これまでも、カボチャとフォアグラのソテー、カサゴのブイヤベースなど、千紗と出会わなければ一生食べることのなかっただろう料理はたくさんある。ただ、そのたびはっきりと記憶に刻まれるのは、料理の味というよりも、一口目を口に含んだときの千紗の表情や発した言葉なのだった。

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